第五話 レッスンと決意
東の空が白み始め、孤児院の小さな窓から朝日が差し込んでいた。
その光は、静かに石の床をなぞるように広がっていく。
光が届いた先――アリスは、床に座り込んでいた。
浅く、乱れた呼吸を繰り返しながら。
頬に張りついた髪の先から、ぽたぽたと汗が滴る。
涙に濡れた瞳は、ただ一点を見つめたまま、焦点を失っていた。
徹夜のレッスンだった。
レンの指導に、容赦という言葉はなかった。
声の出し方。呼吸のタイミング。足の運び。手の角度。笑顔の形。
そのすべてに“完璧”を求め、ほんの少しでも狂えば、すぐさま叱責が飛ぶ。
指導というより、それはほとんど鍛錬に近かった。
アリスの心は、少しずつ、けれど確実に削られていった。
「違う」と言われるたび、踏み出す足が重くなり、
「まだだ」と言われるたびに、自信が崩れ落ちていく。
やがて――
「……もう無理です」
それは、かすれた、けれど確かな声だった。
呟きにもならないほど小さな言葉。
けれど、そこに込められた諦めは、あまりにも深く、重かった。
「やっぱり……私がアイドルになるなんて、最初から無理だったんですよ……」
ぽつりとこぼした声に、震える唇が追いつけない。
顔を伏せたまま、アリスは膝の上で拳をぎゅっと握った。
「やります」と答えたのは、自分の意思だった。
子どもたちのため。誰かに、希望を届けるために――
でも、この厳しい練習を経て、人前で歌ったり踊ったりする自分の姿が、どうしても想像できない。
そんな彼女に、冷たい声が落ちてきた。
「……だったら、やめちまえ」
その一言は、刃のように――容赦なく、アリスの胸を突き刺す。
レンは顔色ひとつ変えず、淡々と続ける。
「無理にやれとは言ってねぇ。降りるならそれまでの話。代わりを探すだけだ。
……ただ、一度“やる”って言ったからには――最後まで、やってもらうがな」
「……どっちなんですか、それ」
あまりにも勝手な言い分に、アリスは思わず苦笑した。
それは、今にも溢れそうな涙をごまかすための、ぎこちない笑みだった。
レンはそれを見て、ふう、と深く息を吐いた。
「……ほら、これ」
手にしていたタオルを、無造作に差し出す。
そのまま、言葉もなく隣に腰を下ろした。
「ちょ、ちょっと……! 汗でベタベタなんですから、そんな近くに来ないでください!」
「……気にならねぇけどな」
ぶっきらぼうにそう言って、レンは立ち上がる。
ひと呼吸のあと、今度はひとり分だけ距離を取って座り直した。
「……これでいいだろ」
それだけ。たったそれだけのこと。
けれど、彼にも血が通ってることがわかって、ほんの少し心が軽くなった。
「……もしかしてさ、“才能がない”とか思ってるわけ?」
アリスは、こくりと小さくうなずいた。
「はあ……」
レンは、ひときわ大きなため息をつく。
「“私にはセンスがない”とか、“あの子は特別だから”とか――
そうやって言い訳する奴、腐るほど見てきた
もちろん、才能はある。そこは否定しねぇよ」
「……腐るほど、って……レンさん、記憶ないんじゃなかったんですか?
服作ったり、踊り教えたり……妙に手馴れてますけど」
「……細けぇことは気にすんな」
「ええ……」
アリスはあきれたように目を細めるが、レンは気にせず続ける。
「でもな、俺から言わせりゃ、才能なんてのは、大した問題じゃねぇ
――才能があっても、消えてった奴なんざ山ほどいる。
逆に、愛嬌と運だけでトップに立った奴もいる。
でもな――“残った奴ら”には、ひとつだけ、共通点がある。何かわかるか?」
「……わかりません」
アリスがぽつりと答えると、レンはまっすぐに彼女を見た。
「――絶対に、諦めなかった。
どれだけ罵倒されようが、何度くじけようが、それでも立ち続けた。
だから残った。だから輝けた」
淡々とした口調だったが、確かな経験に裏打ちされた確信を感じた。
「お前には、人を惹きつける力がある。それは俺が保証する。……けど逆に言えば、それだけだ。諦めるなら、そこで終わりだ」
アリスは言葉を返せなかった。
否定も肯定もできず、ただうつむいて、拳をぎゅっと握りしめる。
そんな彼女に、レンが続けた。
「……でもな。俺の中では、はっきり見えてるんだ」
彼の言葉は、どこまでもまっすぐだった。
「お前がステージに立って、観客に希望を与えてる姿が――」
アリスは、ハッと息をのんだ。
現実味のない……ずっと遠くにあると思ってた話。
だけどレンは、それを“現実になるもの”として語った。
信じてくれる人がいる。
胸の奥でくすぶっていた小さな火が、ふっと風を受けたように、また息を吹き返した気がした。
込み上げてきた何かを、アリスはぎゅっと飲み込んだ。
「……お世辞ですか?」
「俺はお世辞なんて言わねぇ。言う価値がねぇからな」
レンの声は、静かに――だが揺るがなかった。
「……まあ、それでも辞めるって言うなら止めねえよ。決めるのは、お前自身。……でも最後まで付き合ってはもらうけどな」
「……だから、結局どっちなんですか」
アリスは呆れたように言う。
けれど、声に残る迷いは、すでに微かなものだった。
「……技術は俺が叩き込んでやる。だからお前は諦めないことに集中しろ」
「……本当に無茶苦茶ですよね……」
アリスは静かにうつむき――そして、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、一切の迷いがなかった。
(……いい目になったな)
レンはにやりと笑って、手を差し出す。
「……はい。もう一度、お願いします」
その声に、先ほどまでの弱さはなかった。
「リズムはもう一度最初からだ。右、左、右、左……ターン!」
「右、左、右……わっ、ああっ!?」
――ズザッ!
やはり転ぶ。
けれど、アリスはすぐに立ち上がった。
「逃げませんから。私!」
「それでいい」
レンも、自然と笑みを浮かべる。
(……よし、ここからだ。あいつを、ステージの頂点まで連れていく)
アリスの真剣な表情を胸に刻み、レンは次の準備に取りかかった。