第二話 目覚めの街
再び目を覚ました瞬間、レンは知らない天井を見つめていた。
石造りの壁と、古びた木の梁。湿った空気に、干し草の匂いが混じっている。
「……どこだ、ここ」
喉はひりつくように乾き、声がかすれた。
「気分はいかがですか?」
穏やかな声が横から聞こえた。
視線を向けると十代後半ほどの少女が椅子に腰掛けていた。
頭にはベールをかぶり、黒と白の縁取りが印象的な修道服をまとっている。
「安心してください。ここは村の孤児院です。あなたが森で倒れていたと子どもたちが教えてくれて、私が運んできたんです」
「……孤児院」
「はい。私はアリス。シスターとして、ここで子どもたちの世話をしています」
そう名乗った彼女は、にこりと笑う。
それは、誰もが思わず守りたくなるような、清らかで穢れのない笑顔だった。
(元の世界だったら、スカウトしてたかもな)
レンは重たい頭を起こしながら、辺りを見回す。
(転生したのか……魔王を倒せって言われたときは、もっと殺伐とした、血と硝煙の世界を想像してたんだが……)
天井の木材はところどころ欠け、壁は粗い石積みで覆われている。文明の香りはほとんどない。けれど、不穏な気配もない。
外からは鳥の鳴き声が聞こえてきて――戦乱とは無縁の、穏やかな空気が流れていた。
(……場所が良かったのか?覚悟してたよりだいぶ平和そうに見えるが)
「……とりあえず、水でももらえるか?」
「ちょっと待ってくださいね」
アリスは木の器を手に取り、胸の前でそっと手を合わせた。
「アクア・フロウ」
彼女の手の甲に魔法陣が浮かび上がる。
空気が微かに揺れ、空中に透明な水球が現れた。
ふわりと器に流れ込み、清らかな水が音もなく注がれる。
「……こらが魔法か。すげぇな……」
「?……あまり魔法を見たことないんですか? この国では基本の下級魔法ですよ」
アリスは器を差し出しながら不思議そうにレンを見た。
差し出された器を受け取り、レンは無言で水を飲み干す。
冷たく澄んだ水が喉に染み渡り、これが現実なんだと教えてくれた。
「……俺も、使えるのか?」
「魔法ですか? 適性があれば、誰でも。でも、ステータスにもよりますね」
「ステータス……?」
「えっと……“ステータス・オープン”って言ってみてください」
アリスは少し困惑したように笑う。レンは眉をひそめつつも従った。
「……ステータス・オープン」
淡い光とともに、視界にウィンドウが浮かび上がる。まるでゲームのようなUIだ。
―――――――――――――
名前:レン・シジョウ(28)(人間)
職業:なし
魔法適性:なし
戦闘能力:レベル1
特筆事項:女神の腕輪(強制発動)
―――――――――――――
「……これは、最悪ってことか」
「そ、そうですね……ここまで“なし”なのは、ちょっと……魔法適性ゼロなんて、それに戦闘能力も私より……」
そこまで言いかけてアリスは慌てて口を抑えた。
おそらく、出る言葉が蓮を傷つけるかもしれないと思ったのだろう。
気まずそうに視線を逸らした。
(……あのクソ女神……何が魔法も剣もありますよだ、使えねーじゃねえか!)
怒りが沸き上がる――その瞬間。
カチ。
腕輪が鈍く光り、ビリッと微弱な電流が走った。
幸い口に出していないこともあって、それ以上はなかったが、それは常にお前を見ているぞと脅しているようだった。
「はあぁぁぁ……」
大きくため息を吐くと、アリスが心配そうにのぞき込む。
「そ、そんなに落ち込まないでください……」
「大丈夫だ。これまでもなんとかしてきた。今回もきっとできる。そうだろ?」
「自分に言い聞かせてる……」
困惑するアリスをよそにレンはパンと頬を叩く。
乾いた音が部屋に響き、思考が澄み渡っていくのを感じる。
(逆境からのスタートなんて、今に始まった話じゃねぇ。前の事務所だって、タレントゼロ・協力者ゼロ・信頼ゼロから始めた。でも――最後には、ちゃんと結果を出してきた。)
ふうっと彼は深呼吸をした。
(……よし。まずは情報収集だ。舞台がどこだろうが、やることは変わらねぇ)
「アリス、いろいろと教えてほしい。まずは……“魔王”について――」
バンッ!
その言葉を遮るように、扉が勢いよく開いた。
「おじさーん! 起きたー!?」
「旅人!? 冒険者!?」
「おなかすいてるーっ!?」
幼い子どもたちが次々と部屋に飛び込んでくる。
三人、四人、年齢もばらばらな顔が、無邪気にレンを取り囲む。
その中の男の子の一人が、レンの腹めがけて飛びついてきた。
「いって!……クソガキふざけ……」
飛びついてきた子どもの足をつかんだ瞬間――
ビリリッ!!
「ぎゃああああああ!!」
鋭い電撃が全身を駆け抜ける。
「レ、レンさん!?」
「……クソ腕輪……」
グッと歯を食いしばり、睨みつけるように腕輪を見る。
(悪さすると、電流が流れるって言ってたが……足を掴んだだけでダメとか、判定厳しすぎだろ……)
「おじさん、大丈夫?」
不思議そうに男の子はレンを見る。
「……大丈夫。だから降りろ……あと、俺は“お兄さん”な」
「おじさん遊ぼ!!」
(……言っても無駄だな。だからガキは苦手だ)
その後もほっぺを引っ張られたり、腕輪をガチャガチャといじられたり、散々な洗礼を受けたあと、アリスに促されてようやく子どもたちは部屋を後にした。
「すみません。みんな、元気すぎて……」
「……気にするな」
レンの返した笑顔は、どこか引きつっていた。
アリスはもう一度深く頭を下げた。
「ほんとにごめんなさい……。みんなにはあとで厳しく言っておきます。……ところで、レンさんはなぜ森の中で倒れていたんですか?」
「さあな。むしろ俺が聞きたいくらいだ」
「それに、ステータスも知らないなんて……この国の人じゃないんですか?」
「……記憶があいまいでな。何もかも、ぼんやりしてる」
アリスは少し驚いたような顔をしたが、少なくともレンに悪意がないことは分かったようで、それ以上は踏み込むことはしなかった。
(前世や腕輪の話をしても、混乱させるだけだしな)
「それは大変ですね。私にできることがあったら何でも言ってください。」
「ああ。助かる」
彼女は微笑み、「神の御加護がありますように」と小さく祈ると、出ていこうとする。
「あっ、ちょっと待ってくれ。……まだいろいろ知りたくて……魔法のこととか、“魔王”のこととか……」
アリスは立ち止まり、少し思い詰めたような表情でレンを見た。
「……“魔王”について子供達のいるところで話すのは……」
アリスの指先が僅かに震えた。
「……ちょうどこれから晩御飯の買い出しに出るところなので、よければそこで」
「……わかった。付き合うよ。」
その真剣な目に、レンはうなずくしかなかった。
「では、また後で」
そう言い残して、アリスは部屋を出ていった。
残されたレンは、遠くから聞こえる子どもたちの笑い声に耳を澄ませながら、ゆっくりと立ち上がる。
(魔法も使えなければ、戦闘能力も人並み以下。あるのは、このクソ腕輪と……前世の記憶だけ)
それだけで、魔王を倒せるのか――。
(だが……それで十分だ)
静かな決意が、その背中を押している。
彼は、アリスの後を追って歩き出した。