第一話 魔王死す
深夜二時。
東京のオフィス街はすでに眠りにつき、ビル群は沈黙の闇に沈んでいた。
だが、その中に、ひときわ異様な光を放つビルがある。
最上階だけが煌々と輝き、まるで監視塔のように夜空に浮かび上がっていた。
芸能プロダクション《スターステージ》。
業界では知らぬ者のない、誰もが憧れる“芸能界の頂点”に君臨する存在――
しかし、その華やかなイメージとその実態はまるで違っていた。
社員たちは背を丸め、青白い顔でキーボードを叩いていた。
無数の空き缶。干からびた瞳。貼り付き続けた笑顔の名残。
フロアに満ちているのは、静かな絶望――そして物音ひとつ立てられない緊張感。
誰も手を止めない。理由はただ一つ。
最奥、ガラス扉の向こうに“魔王”がいるからだ。
四条 蓮。
スターステージの代表にして、芸能界の頂点に立つ男。
数多の無名タレントを一夜にしてスターダムへ押し上げてきたカリスマであると同時に、使えないと思った部下やタレントは容赦なく切り捨てる。
その圧倒的な実績と冷酷さから、人は彼をこう呼ぶ。
“魔王”――と。
蓮は無言で企画書の束をめくっていた。
しかし、その表情は決して明るくない。
眉をひそめ、不服そうにつぶやく。
「……何番煎じだよ、これ」
吐き捨てるように言い、書類の束をゴミ箱へと放り投げた。
「これでどうやって人の心を動かすんだ。紙と時間の無駄だ!」
ソファにもたれて、長くため息を吐く。
その言葉一つで、フロアの空気が凍りつく。
誰もが知っている。彼のその一声で、発案者のクビがとぶかもしれない。
誰しもが息を呑んだ、まさにそのとき――
控えめなノック音が、彼の部屋に響いた。
「……入れ」
低く告げると、扉がゆっくりと開く。
入ってきたのは、どこかで見覚えのある少女。
だが、蓮は興味なさげに背を伸ばしたまま、軽く顎で促す。
「早く。……要件は?」
返事はない。
胸の奥に、じわりと違和感が広がる。
こんな深夜に、なぜ少女がひとりでここに?
――そんな疑問よぎった、ほんの刹那。
腹部に、鋭い痛みが突き刺さった。
「……っ、な……」
見ると、少女の手には血まみれのナイフ。
真っ赤に充血した目は、絶望と憎悪に濁っていた。
(ああ……思い出した)
彼女は、数日前に契約を打ち切ったばかりの――アイドル志望の少女だった。
「あなたのせいよ……夢も、人生も……全部、壊れたの!」
フロアに悲鳴が響く。
社員たちが椅子を倒しながら立ち上がる。
けれど、蓮にはもう声を出すことも、立ち上がることもできなかった。
(……“魔王”の死が、こんなにも、あっけないとはな)
蓮の意識は、闇の中に静かに沈んでいった。
◇◆◇◆◇◆
「おはようございますっ!」
明るく軽快な声が、どこか遠くから響いてくる。
蓮がまぶたを開けると、そこは真っ白な空間だった。
何もない……けれど心地よく風が吹き、空気は澄みきっている。
「はじめましてっ! 私は女神フローリア、転生管理担当でーす!」
ピンクのツインテールに、キラキラした笑顔。
やたらテンションの高い少女が、手を振っていた。
「……なんだここは」
「はいっ!ここは“転生待合室”でーす!四条蓮さん、あなたはさきほど、お亡くなりになりました~!」
「……死んだ?」
「それはもうばっちり。覚えてないですか?」
脳裏に浮かぶ――あの、鈍い痛み。少女の憎悪に満ちた顔。
そして、腹に突き立てられたナイフ。
(……マジで、死んだのか)
腹を押さえると、傷も痛みもなかった。
だが、妙にリアルな感触だけが残っている。
「それでは、さっそく異世界に転生しまーす! 頑張ってくださいねっ!」
フローリアが何やら聞いたことのない言語で詠唱を始める。
途端に、空間に青白い光が広がっていく。
「ちょっと待て!意味が分からん。……仕事も残ってるし社員も待ってる。とにかく元の世界に戻せ」
「えー? 死んだんですし、仕事なんて気にしなくていいですよ。……というか、人を壊れる寸前まで働かせておいて、よく社員が待ってるとか言えますね」
「俺のもとに来たってことは、それ相応の覚悟があるってことだ。死ぬ気でやってもらわないと話にならねえ」
「ほら、だから”魔王”なんて言われるんですよぉ~」
フローリアは顔をしかめたまま、人差し指でクルクルと円を描いた。
「本来、死んだ生物は同じ世界に生まれ変わるんです。でも、前世で多くの罪を背負った人は例外。
社会貢献も兼ねて、しっかり別世界で償ってからでないと、元の世界には戻さないようにしてるんです」
彼女はどこからともなく、本を取り出す。
その表紙には《四条蓮の一生》の文字があった。
「見ましたよ、あなたの悪行。部下やタレントは使い捨てのように扱い、私腹を肥やすためなら手段を選ばない。ついには魔王と恐れられる存在に……そんな人物を、簡単に元の世界に戻すなんてできません。――というわけで、あなたには異世界の魔王を倒してきてもらいまーす!」
(何言ってんだこいつ……)
蓮が目を細める。
「大丈夫!異世界には剣!魔法!冒険!ワクワクすることがいっぱいですよ!」
「興味ねぇ。だいたいなんで、俺がそっちの勝手なルールに従わなきゃいけないんだ」
「え~、みなさん結構ノリノリで受けてくれるのに……なんとか私のためにもお願いします」
「知るかよ……」
あきれたように呟く蓮に、フローリアの頬がぷくっと膨らんだ。
「仕方ないですねぇ……こういうの、あまり使いたくないんですが……」
パチン、と彼女が指を鳴らすと、蓮の腕に黒い腕輪のようなものが巻きついた。
「なんだこれ……ぎゃああああああっっっ!!」
ビリビリビリッ!!
電撃が走り、蓮が床を転げ回る。
「『女神の腕輪』。転生者用に、女神庁が特別支給してる制裁アイテムでーす! 悪いことしたり、魔王討伐から逃げようとすると電撃が走ります」
「お前ふざけ……ぎゃああああああ!!」
「ちなみに私への悪口も電撃が流れます」
「てめぇぇぇ……!」
喉元まで出てきた言葉を、蓮はぐっと飲み込んだ。
(このまま続けてると、殺されかねない……)
「……わかった!やればいいんだろ、やれば!」
ぱあっと、フローリアの顔が晴れやかになる。
「ありがとうございます!……ふう。これで何とか今月のノルマ、ギリギリ達成……っと」
「なんか言ったか?」
「いえいえ、よかったです~! 私の想い、届いたみたいで!」
「……届いてねえよ。完全に脅しだろ」
蓮が恨めしそうにぼやいたが、フローリアは気にも留めていない。
「それでは、行きますよ!」
フローリアが再び呪文を唱え始める。
「待てって!まだ転生先のこととか、他にも山ほど聞きたいことが――」
「あとは現地で自分で聞いてくださ~い!」
「てめぇ、ふざけ――!」
怒鳴り声とともに、彼は青白い光に包まれていった。
こうして、“魔王”と恐れられた男――四条 蓮は、
もう一人の“魔王”が支配する世界へと、舞台を移したのだった。