第3話「その名は風隠し」
──煌王暦1185年、3月29日。
イースヴィヒ連邦共和国、ツヴァイマンド州。
微かなさえずりと、風の子と踊る草花のささやきが、静かな朝の到来を知らせる。
見慣れぬ天井を見つめて数秒。
そうだ、第5の基地に来てから、初めての朝か···。
倦怠感はないが、根拠のないダルさを訴える体を無理やり起こす。
「おはようございます」
「!?」
眠気を覚ます声にびっくりする。つい肩が反応してしまう。
開け放たれた窓際には、私の天使が座っていた。今更ではあるが、魔族を隣にしてぐっすり寝ていたのか、私は······。
己の図太さか、あるいは危機感のなさを再確認しつつ、ベッドから出る。
「···おはよう、ございます」
歴史上、人類と交流関係があった魔人がいなかったわけではない。友好的な関係を、一時的とはいえ築いた事例もある。魔法学校で聞いたときは、それはもうみんな半信半疑の苦笑いにすらなっていなかったけど。
だが、現実はこうだ。
あろうことか、私を殺害する、捕食するのでもなく、絵画の住人のように窓辺で朝日をいただいている。
奇なり、とはよく言ったもので、天使との共同生活の始まりは、随分牧歌的なものとなった。
「······あの、魔人に睡眠は必要ないと聞いたのだけれど、ずっと起きてたの···?」
「はい。ただ、あなたを真似してみようと、目を閉じたりしていました」
「······そう」
薄れていく不安の代わりに、興味が増していく。
1,2年程度の学び舎の経験や、会敵即殺が求められる実戦では得られないもの故に。
この天使は、信じがたいが確かに無害なのだ。特に私に対しては。
理由は知りえないし、むしろ想像との乖離に不気味さすら感じるが、事実、私を生かしている。
軍本部に設置されるような封印を破られるんだ。私なんか、簡単に捻られるだろう。
だから、その不可解な不殺を、私は信じてみたい。
信頼というほど、無条件に肯うわけではない。ただ、少しばかり歩み寄るのも、別に悪いとは思わなかった。
「今日は作戦命令が下されるだろうから···早めに準備しておこう」
「はい」
灰被りの軍服を取り出す。
これを着れば、私はミルニス=ホーライトではなく、大罪人の魔法使いとなる。
だが、まだ幾分か軽くなったように感じるそれを眺め、着替え始める。
「ミルニス=ホーライト執行少尉、入ります」
作戦会議室は、少数の人員だけがいた。
起床時間より早くに起きていたし、朝食もさっさと済ませたから、まだ集合していないのか。
「少尉、その装備品は、一旦外で待機だ」
入室後すぐ、視線とともに言葉の矢が飛んでくる。
クレス中尉だ。書類を片手に、眉をひそめている。
「しかし中尉、命令書では私の目の行き届く範囲で──」
「この部隊での上官は私だ。命令には従え」
「······了解です」
私が振り向くと、何も言わずに天使は退出した。
ありがたいといえばそうなのだが、喉に小骨でも刺さったような感覚だ。
「へェ······あれじゃ魔人っつーか忠犬だな」
「ハインサイト。貴様はまずその足を下ろせ」
「へいへい、うるせーな」
「──全員揃ったな。少尉が加わって、第3独立行動小隊もいよいよお披露目だ。中佐がこられるまで、隊員の紹介をしておこう」
今一度部屋を見渡す。
私を除いて、居るのはたったの5人だ。
小隊とは、いったい──と思いたくもなるが、彼ら全員が魔法使いであることを考えると、妥当なものなのだろうか。
「まずハインサイト伍長、上等魔道兵。性格・態度ともに最悪だが、小隊一の火力だ」
「殺すぞテメー」
先ほど机上にどっかりと足をのせていた人だ。頭の後ろで組んでいる両腕の、左の方が銀の義肢だ。光沢が一目瞭然で、入室した時から目についていた。
「次、フルーゲ=ベルリントス一等魔道兵。物知りだ。聞きたいことがあったらこいつに聞け」
「えぇ、いま、さらっとめんどくさいこと言わなかったすか?」
無精髭を蓄えた顎が目立つ。そしてかなり長身だ。
それに、なんだか煙草臭い······気がする。ひょっとしたら、クレス中尉よりも年上だろうか。
「次は──」
「私は自分で」
「分かった」
一人、一歩前にでる。唯一の女性だ。
「アズメル=ノラント三等魔道兵です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
薄桃色の髪の彼女は、おそらく私より年下であろう。しかし無邪気な笑顔ではなく、まさに優等生というような、自信ある笑顔を向けつつ、敬礼をする。
自分からするばかりで、他人から『上官への敬礼』をされたことがあまりないため、なんだかむず痒いような気分もするが、私も敬礼を返す。
「············」
「──そんな目で見ないでくださいよ、隊長···俺も自分でいいますから······」
最後の一人、クレス中尉の視線に折れたのか、こちらに向き直る。
「···カイ······カイ=ユーリヒだ。よろしく」
なんだか気まずそうな顔だ。風たちが騒いでいるが、いまいち聞き取れなかった。
ただ──『ユーリヒ』······? どこかで聞いたことがある名前だ。しかし思い出せない。
「それでは、少尉も頼む」
「は、はい。私は──」
「いらねーよ、〝風隠し〟さんよ」
突然ハインサイト伍長が声を上げた。
予想外の出来事で、私だけでなく、全員の視線が彼に集う。
「あんたのことは、みんなよ~く知ってんだよ······。汚名を背負っちまった、でも稀代の天才、風魔法の使い手さん」
「ハインサイト」
「そう怖ェ顔すんなよ隊長。別に俺は数千年も前の経験したこともねー地獄とか、日ごろの差別を盾にこいつをどやそうってんじゃねーんだわ。その汚名返上なんかに付き合ってらんねーって言いたいわけよ。
んで魔法使いが、天使みてェな神話級の怪物と仲良しこよしで、他所の人様ぶっ殺しに行かなきゃいけねーんだ? あァ?」
「命令だからだ。子どものように駄々をこねるな」
「そうだろうな、命令だもんな。ろくに俺たちのことを考えてねー命令に、隊長は伸ってるわけだ。アンタに命を預けてる俺らのことはどうでもいいのかよ?」
「いい加減に──」
「では伍長、あなたは私にどうしてほしいのですか?」
「あ?」
──いい加減にしてほしいさ。
私だって逃げ出したい。でも死にたくない。
だったらしょうがないでしょ。藁にもすがる思いでこの国に尽くしているんだ。
「テメー、喧嘩売ってんのか」
「おい、伍長も少尉もやめろ」
「そ、そうですよ···お二人とも──」
「いや、いやいや──アズメルも黙ってろ。風隠し、テメーがそもそもくだらねぇ任務に充てられてんのは、まだ有用だと思われてるからだろ? じゃあ俺如きがテメーをぶっ飛ばせば、その価値はクソにも等しいわな」
「あなたにできますか?」
「ははッ、その生意気なとこ、気に入ったぜ。隊長、訓練場借りるぞ」
「許可しない。席につけ」
どうしてこうなったのだと、今更ながら思う。
ただ、私にも『憤り』がある。
自分でも押えられない、理由もわからないが心の奥底で沸々とたぎっている。
邪険に扱われるのなんて、数えきれないほどで。毎回憤怒していては、身が持たない。最近は特になんともなかったが、なぜか頭にきている。
──天使のことを言われたから?
彼は話したこともないのに、あの天使を巨悪のように語るから?
正直、たったそれだけで怒ることかと心に問いかける。私だって魔族なんて滅んでしまえと思っている。
だがやはり、答えはどこにもない。
しかし事実。
私は彼が許せなかった。それは、事実なんだ。
「──私が許可してあげようか」
「!──ユフト少佐」
振り向くと、そこにはユフト少佐がいた。いつからいたのだろうか。
腕を組んで、不気味な笑顔を隠すことなく。
「や、久しぶりだねホーライト魔道兵」
「少佐······第4師兵団はどうでしたか」
「ああ、身に染みたよまったく。
ところで、何やらお祭り騒ぎじゃない?」
「少佐殿、勝手なことは言わないでいただきたい」
「おや、尉官が偉そうなことを。
──まぁ落ち着きなさいよ。むしろいい機会でしょう。これから彼女と天使と作戦を共にしていくんだから、ここで実力を知っておきましょう」
「それはねーですよ少佐。こいつは営倉送りにしてやるんで」
「はいはい。彼、やる気みたいだけど、どうする?」
「······ひとつ、いいですか」
「なにかな?」
「どうなろうと······全て訓練の範囲にしていただけますか?」
「もちろん」
「少佐殿──」
「じゃあ中尉、正当な理由を提示しよう。
ミルニス=ホーライト執行少尉。執行部隊の特別訓練として、ハインサイト伍長との実習を命じます」
「おい、いくぞ」
頭で指示され、彼についていく。
「馬鹿どもが······!」
「ま、しょうがねーでしょ。俺だって嫌っすよ、魔族との任務」
「フルーゲ、貴様までそんな──」
「いや、怖いでしょ、天使ですよ?」
「あれ、皆様はどうするの?」
「少佐、あとで報告させてもらいますよ。
──最悪の事態になる前に、俺は止めなくてはいけないので行きますが」
「そうですか、お好きにどうぞ──っと、キミも久しぶり。アズメル」
「············」
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「ミルニス。どこへ行くのですか」
「クソ魔族。お前はそこでお座りだよ」
「······ごめん、もう少し待ってて」
「はい」
心なしか声のトーンが下がっているようにも聞こえる。
そんな天使であったが、すぐに放心状態で外のほうを見始めたので、どうってことなさそうだ。
──私の気も知らないで。今にも童心に任せて野山に帰りそうな様子だ。
「すぐ訓練場だからよ、覚悟しとけ?」
「ええ」
棟を出てすぐ、第一訓練場だ。
それは訓練場という名の広場であるように感じたが、むしろ屋外でよかった。魔法が十分に発揮できる。
「よし。ルールはねェ。──いや、たったひとつ。膝つかせたら勝ちだ」
「分かりました」
彼と向き合う。
決して弱者ではない。立ち振る舞いから、手練れであることは明瞭だ。
横目で、隊長たちが来たのが見える。
「中尉、合図をお願いできますか」
「······」
「私がやろう。準備はいいかい?」
静寂。風の音もない。
感じるのは手に集う魔力。
己が眼前を見つめるのみ。
「はじめ──」
「ハァッ!」
──爆発か!
ただそれは目くらまし。
その隙に右に飛び出す伍長。
「上かッ」
銀の義肢を掲げる彼と目が合う。爆炎にまぎれたつもりだったが、流石と言ったところか、一瞬でバレた。
爆発がまた襲ってくるかと思ったが、火の魔法が飛んでくる。なるほど、本質は『炎』か。
おそらく、伍長は炎迅魔法の使い手。確かに一撃の火力は凄まじいけど──!
これに当たるならば、魔族を屠ることなど叶わない。
「クソが······!」
「──なぜ、後押しするようなことを? 少佐殿」
「えぇ? むしろあそこでキミが切り伏せたりして、そのまま作戦~なんていったら、伍長は後ろから襲いかねないでしょ?」
「だからここで白黒つけようと?」
「ま、それもあるけど──それ以上は秘密。こちらは政府やら魔道協会やらの密命を受けてる身なんでね」
「──ハインサイト、最悪あいつは死にますよ」
「······どうしてそう思ったの?」
「作戦資料は──特に魔道戦のものは、過去のも含めて目を通すようにしてます。
ミルニス=ホーライト。若くして執行部隊のエースとなり、50を超える魔族を一度の作戦で屠り、法官銀翼章を叙勲した怪物」
「ふふ、流石はジュニス中佐が見込んだ兵士だ。よく知ってる。
彼女が〝風隠し〟だなんて異名で呼ばれる理由、それは魔族の肉片も断末魔も······すべてが暴風のうちにかき消されるから。正しく自然の無慈悲さそのもの」
「あれが、風流魔法すか······少佐殿も、まぁ酷いことするんすねぇ~」
「彼女が強いのさ。風式魔法を『流し』の領域で扱えるほどの技術。これはただの独り言として受け取ってほしいけど、彼女は非公式ながら、れっきとした大魔法使い。その末席にいる存在だ」
「ぐッ······クソ!!」
砂塵に紛れた一撃が、やっと義肢を捉える。
伍長の義肢は無事そうだが、衝撃は中々のはず。しかしそれでも、彼は無事な右腕で大振り、辺りが業火に包まれる。
上に避けるしかない、が。
誘い込まれたかっ······!
「くらえェェこの野郎!!」
『〝穿て。我こそは風、戦慄たる鋒なり〟』
ハインサイト伍長の渾身の一撃。大気を熱する放射、この魔力量なら、戦車の装甲版程度は貫通できそうだ。
でも、私は、負けられない。
あまり試したことはなかったが、伍長の魔法と正面衝突。螺旋に放った風が、炎をただの火の粉に、そして跡形もなく霧散させられた。
やはり、こんなにムキになったのは、初めてかもしれない。
内に燃ゆる熱は、きっと伍長の魔法のせいだと思った。