19 蟹の食べ方
やがて手紙を書き終えた頃、部屋の扉が静かに開き、食事を運ぶ使用人が入ってきた。豪華な夕食が次々と並べられると、高瑛の瞳が一瞬、輝きを増す。
そして次の瞬間、まるでスイッチを入れたかのように「演技モード」に切り替わった。
「おお、夕飯が来たな。いやぁ、今日は本当に疲れた……」
大げさに寝台の上で身をくねらせながら、わざとらしく顔を歪める。
「ああっ、痛い痛い痛い……っ!」
その様子に驚き、平安は思わず駆け寄る。慌てて彼の足元を覗き込むと、膝に巻かれた包帯は変わらず整っており、特に異変はないように見えた。だが、高瑛の表情はひどく苦しげだ。
(傷はそんなに深くなかったはず……なのに、こんなに痛がるなんて)
高瑛様の一挙手一投足は、いつも優雅で気品に満ちていた。これまでの短い付き合いの中でも、些細なかすり傷程度では、一度も「痛い」などと口にしたことはなかった。
なのに、今こうして眉を寄せて顔を歪めているということは――本当に痛むのだろうか?
「……無理しないでください。傷が悪化したら、大変ですから」
思わずそう口にすると、高瑛はふっと微笑んだ。
「本当に治るのでしょうか?後遺症が残ったりしませんか……?」
「心配するな。太医は治ると言ってた。ただ、しばらくは寝たきりだがな」
「早く良くなるといいですね……」
「なあ、平安……見ての通り、俺の足は動かせない。となると……」
言葉を途切れさせると、わざとらしく溜息をつきながら、少し寂しげな声で続ける。
「夕飯……俺、一人じゃ食べられないなぁ。お前、最後まで面倒を見てくれるよな? ほら、口元まで運んでくれないか?」
「えっ……?」
平安は一瞬、言葉を失った。
たしかに高瑛様の膝は負傷している。しかし、それだけで食事すら一人でできなくなるとは思えない。
(……いや、でもこの方は貴族だし、普段から世話をしてもらうのが当たり前なのかもしれない)
そんなふうに考え直し、平安はためらいながらも箸を手に取った。
「高瑛様が治るまで、お世話は僕にお任せください」
「そうか、それならまずは野菜の炒め物から頼もうかな」
高瑛はゆっくりと微笑みながら、平安を見つめた。
「それから、香ばしい鶏の唐揚げ、あとは魚湯もいいな」
「はい、ちょっと待ってください」
平安は頷くと、高瑛の希望する料理を器にまとめ、箸を手に取る。そして、ごく自然な動作で寝台のそばに腰を下ろした。
幼い頃から病床の母の世話をしていた彼にとって、食事の介助は特別なことではなかった。だからこそ、彼は何のためらいもなく、高瑛に箸を向けた。
ふうっと息を吹きかけ、十分に冷めたことを確認してから、高瑛の口元へそっと運ぶ。その動作は優しく、まるで長年の習慣のように自然だった。
高瑛は口を開け、満足そうにそれを受け入れる。
「うん、美味しい」
平安はまた数口食べさせる。高瑛は彼の細やかな気遣いを褒めながら、ふと手を伸ばし、平安の大腿内側に触れようとした。
しかし、その手が届く前に、平安はすっと立ち上がり、食卓へ向かう。
「唐揚げと魚湯を持ってきますね」
あれ?この子、俺を避けてるんじゃなかった?
そう思いながら、高瑛はくすりと笑い、わざとらしく首を傾げた。
「もしかして、俺のこと嫌い?」
「そ、そんなことは……!」
平安は両手で器を抱えたまま、慌てて首を振る。
その言葉とは裏腹に、ほんのりと頬を染めた顔を、高瑛は見逃さなかった。
「なら、次はあれを食べたいな」
彼は卓上の蒸篭を指さした。
「あれ……ですか?」
「そう」
当然のように頷く高瑛。
平安は戸惑いながらも、卓上の精緻な蒸篭を慎重に手に取り、お盆の上にそっと置いた。
その傍らには、一式の蟹専用食具が整然と並んでいる。銀色に輝く蟹鋏の柄には繊細な彫刻が施され、蟹匙の細長い先端は鋭く光り、小ぶりな鋏は驚くほど精巧に作られていた。
ゆっくりと蒸篭の蓋を開けると、立ちのぼる湯気とともに、黄赤色に染まった二匹の蟹が姿を現した。細い縄でしっかりと縛られたその姿からは、ほのかに磯の香りが漂ってくる。
平安はごくりと唾を飲み込みながら、戸惑ったように目を瞬かせた。
蟹を目にしたことはあったが、実際に食べるのは初めてだった。どうやって食べればいいのか、まるで分からない。
「でも、僕、どうやって開けばいいか分からない……」
「俺が教えてやるよ」
そう言うと、高瑛は片手で蟹を持ち上げ、するすると紐を解き始めた。
「ねえ、どうして、蟹を縛って蒸すか、知ってる?」
「え……?」
平安は意外そうに目を瞬かせる。
「うーん……暴れないようにするため……ですか?」
「半分正解」
高瑛は微笑みながら、ゆっくりと紐をほどいていく。
「熱を通すと、蟹は暴れて足をばたつかせる。それで自分の足を折ったり、身を傷つけたりするんだ。だから、こうして縛っておけば、綺麗な形のまま蒸し上がる」
「なるほど……」
「それに、熱が均等に伝わりやすくなるから、美味しくなるんだ」
穏やかな声に導かれるように、平安はじっと高瑛の手元を見つめる。
するりと解かれた紐をお盆の上に置き、高瑛は小さく笑った。
「蟹の脚の肉は、柔らかくて甘みがあるんだ。小さいからって、無駄にしちゃいけないよ」
「だから、まずは蟹の足を開こう」
そう言いながら、高瑛は蟹の足を広げると、手に取った鋏を器用に動かし、「カチッ、カチッ」と小気味よい音を立てながら、一匹の蟹の足を切り離していく。
平安は、その見事な手さばきに目を輝かせた。
「まずは両端を切る。それから、この蟹匙をそっと差し込む」
「力加減が肝心だ。押し込みすぎると、せっかくの蟹の身がぐちゃぐちゃになって、食感が台無しになるからな」
「こうやって、ゆっくり回しながら押し出せば……ほら、するりと出てくる」
まるで魔法のように、細く長い蟹の身がするすると抜け出た。
平安は息をのんで、それをじっと見つめる。
(ふふ……こんなに綺麗に剥けるなんて、さすが高瑛様……)
高瑛の唇が、わずかに歪んだ。
彼の視線は、目の前の蟹からすぐ隣にいる平安へと移る。
──この柔らかそうな喉元に、そっと指を滑らせたら、どんな顔をするんだろう。
──この細い指を甘噛みしてやったら、どんな風に震えるのか。
目の前の蟹を食べるように、ゆっくりと殻を剥ぎ取るように、隅々まで味わい尽くしたら……。
──きっと、たまらなく美味しいだろう。
「高瑛……さま?」
ぼんやりと考え込んでいた高瑛に、平安はそっと声をかけた。
ふと我に返った高瑛は、ゆるく微笑みながら平安を見つめる。その瞳は柔らかく穏やかでありながら、どこか底知れぬ熱を秘めているようだった。
「ほら、こんなにぷりぷりで透き通った蟹足の肉棒が、するっと押し出されるんだよ」
そう言いながら、高瑛は半分ほど飛び出た蟹足の身を、当たり前のように平安の口元へ差し出した。まるで日常の何気ない仕草のように自然で、指先がわずかに平安の唇をかすめる。
「えっ……いや、僕はいいです」
「そんなこと言わずに。お前だってまだ何も食べてないだろ?せっかくだから、俺が剥いてあげる。その代わり、次はお前が僕の分を剥いてくれるっていうのはどう?」
「美味しいものは、分かち合うべきだろ?」
高瑛の朗らかな笑顔に押され、平安は観念したように小さく口を開けた。
そっと蟹の身に歯を立て、遠慮がちに小さくかじろうとする。
すると、高瑛がすかさず制した。
「ダメだよ、噛み切っちゃ。蟹足の肉棒っていうのはね、一本丸ごと引き抜いて食べるものなんだ。途中で切ると、不幸になるって言われてるんだぜ」
驚いた平安は、思わず口を開けたまま固まった。
「ほんとに……?」
不運なんて、自分だけならまだしも、母や妹にまで降りかかるのは絶対に避けたい。
「もちろん、本当さ。俺が嘘をつくわけないだろ?」
高瑛が真剣な顔で言うものだから、平安はすっかり信じ込んでしまう。
慎重に蟹の身を引き抜こうとするが、どうも殻に引っかかってしまい、途中で止まってしまった。
その様子を見ていた高瑛は、優しく平安の髪を撫でながら言った。
「慌てなくていいよ。ちょっとコツがいるんだ。まずは歯で軽く押し出すように前へ動かして、それからゆっくり引くと……するっと抜けるはずさ」
平安は言われた通りに試してみた。前に押して、後ろへ引いて……しかし、やはり途中で引っかかってしまう。
くすっと笑いながら、高瑛が首を傾げた。
「もうちょっと工夫が必要かな。舌を使って蟹足の肉棒を転がしながら、吸い込むようにしてみるといい。そうすれば、ちょうどいい位置に動かせるはずだから」
夢中になった平安、無意識のうちに言われた通りに舌を使い、蟹足の身を転がしながら吸い込んでみた。
すると、その動きに合わせて高瑛の手も揺れ、蟹足が小刻みに動く。平安は思わず両手を伸ばし、高瑛の手をそっと支えた。
「うん、そうそう、その調子だ。でもね、途中で噛み切らないように気をつけて。蟹足の肉棒は柔らかくて繊細だから、ちゃんと咥え込んでいれば、最後まで綺麗に抜けるよ」
「ん……んん……」
「ほら、もう少しで全部抜けるよ。最後までしっかり咥え込んだまま、前後に動かして……そう、あと少し……!」
舌先で優しく転がし、ゆるやかに吸い込みながら、前後に動かす。何度か繰り返すうちに――ついに、蟹足の肉がするりと一本丸ごと引き抜かれた。
ふわりと広がる、甘く濃厚な蟹の旨み
嬉しそうに瞳を輝かせる平安を、高瑛はじっと見つめた。その視線には、どこか別の思惑が滲んでいる。唇の端に浮かぶ、ほんのりとした微笑。
「気に入った?それなら……次は、もっと美味しいのを食べさせてあげるよ」
「えっ……そ、そんな……申し訳ないです」
「遠慮しなくていいって。今日の蟹は少し小さめだったからね。次は、もっと大きくて、とびきり旨いやつを用意するよ」
「そ、そんな……!ありがとう。でも、本当に僕なんかに……?」
「もちろんさ。お前には、もっと美味しいものを、たくさん知ってほしいから」
「……ありがとう。僕ね、こんなに優しくしてもらったの、初めてかもしれない」
「僕が……君に優しい?」
「うん、高瑛様は、とても優しい人です。きっと、神様があなたを見守ってくれると」
「……神様、ね」
高瑛はふっと笑い、ゆっくりと目を伏せた。
「じゃあ、君の言葉を信じてみようかな」
その後、二人は蟹を剥き合いながら、ゆったりと食事を続けた。
ぽつりぽつりと交わされる言葉の合間に、時折、ふたりの視線が重なり。
いつもより、ずっと贅沢で、どこか甘美なひとときが流れていった。