16 怪我
馬球場の風が肌を撫でる。
夕陽に染まった砂地が金色に輝き、遠くでは騎手たちの笑い声が穏やかに響いていた。
隣で囁かれた低い声に、平安の背筋がひやりと冷たくなった。
冗談交じりの警告だろうか。
けれど、その目には微塵の戯れもない。真剣なまなざしに、平安は息を呑む。
「わ、罠……?」
一瞬、心臓が跳ねる。
理由もわからず、胸の奥がざわつく。得体の知れない不安が背筋を這い上がり、手のひらがじっとりと汗ばむ。頭の奥で警鐘が鳴り響いていた。
その時だった。
「っ!」
足元の力が抜け、視界がぐらりと傾いた。
(まずい!)
地面が近づく——
だが、次の瞬間、蘇羽がすかさず腕を伸ばし、しっかりと抱きとめた。
しなやかで確かな力が、崩れ落ちる身体を支えた。
「おっと、気をつけろって」
息がかかるほどの距離で、蘇羽の茶色な瞳がじっと平安を見つめている。
遠く、風を切る音が響いた。
馬球場の向こう、高瑛が馬上で優雅に球杖を操っていた。
光を浴びた姿は、まさに颯爽たる騎士のよう。しかし、その眼差しがふと平安の方へと向いた瞬間——
燃え上がるような怒りが、彼の心を一気に支配する。
(……何だ、あれは?)
ほんの一瞬前まで、軽やかに笑っていた顔がみるみるうちに曇る。
視界の端に映ったのは、蘇羽の腕の中にいる平安。
「……チッ。」
衝動のままに、無意識に球杖を強く握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めた。
怒りを抑えつつ、高瑛は強引に意識を試合へと戻した。そして、勢いよくマレットを振り抜く。
──カンッ!
鋭い音とともに、馬球が一直線に飛ぶ。
2-3。
逆転勝利。
観客の歓声が渦巻き、試合の逆転勝利に沸き立っている。
だが、その次の瞬間、高瑛の馬が突然前脚を持ち上げた。
「なっ……!」
鋭い馬の悲鳴が響き渡った。
高瑛の球杖は、馬球だけでなく、自分の馬の脇腹も強く打ちつけていた。
突然の激痛に驚いた馬が、暴れるように跳ねる。
高瑛の体が大きく揺れる。
だが、彼の意識はまだ観覧席の方に釘付けだった。
——手綱を締めるのが、一瞬、遅れた。
次の瞬間——
「ッ!!」
視界が激しく揺れ、強烈な衝撃が全身を襲った。
地面が迫る。
——ドサッ!!
高瑛は地面に転がりながら、唖然とした。
馬球場が静寂に包まれた。
先ほどまでの歓声は消え去り、誰もが息を呑む。
「高瑛様!!」
周囲がざわめき、数人が馬球場へと駆け寄った。
平安は反射的に馬球場へ駆け出していた。
考えるよりも先に、足が動いていた。
馬球場の中。
「おい、高瑛、大丈夫か、しっかりしろ……!」
先に駆けつけた少琴は、高瑛の肩を支えながら静かに声をかけた。しかし、その手に伝わる感触は、決して安心できるものではなかった。
高瑛の顔は青ざめ、額には冷たい汗が滲んでいる。
「くそっ……」
荒い息の合間に、高瑛は小さく呟く。視線を落とすと、脚に深い裂傷ができ、鮮血が砂に滲んでいた。
「じっとしてろ、今、包帯代わりにするから……」
少琴はためらうことなく、自分の袖を引き裂き、高瑛の傷口を覆うように手際よく巻きつけた。
「っ……」
鋭い痛みが走り、高瑛は歯を食いしばる。
「とりあえず応急処置はしたが、高府に運ばないと手遅れになるぞ」
少琴の低い声が響く。そんな中——
「とりあえず、おめでとうな。六千両も勝ち取ったんだから。さすが、瑶京一の全局無敗の貴公子、高瑛様」
低く響く声に振り向くと、蘇羽がすぐそばに立っていた。
相変わらずの飄々とした笑みを浮かべながら、面白がるように高瑛を見下ろしている。
「……だが、その金は治療費に消える。もったいないな」
痛みに顔を歪めつつ、高瑛は低く唸る。
「お前……何しに来た?」
怒りに満ちた視線を向けるが、蘇羽は眉ひとつ動かさない。
「おいおい、そんな怖い顔をするなよ。せっかく祝ってやってるのに。ついでに、お前の見物もしたくてね」
「……調子に乗るなよ、お前」
歯を食いしばる高瑛。
だが、すぐそばで不安げに顔を曇らせる平安が目に入ると、胸の奥の怒りが少しだけ和らいだ。
(……こいつの前で、情けない姿は見せられねえ)
「……俺は平気だ、心配するな」
そう言おうとした矢先——
「……かなり深いな」
少琴が眉をひそめ、ため息混じりに言った。
「動かすな、下手に血が出たら面倒だ。早く高府へ運ぶぞ」
「……わかった」
高瑛は悔しそうに息を吐く。
「ははは、しばらく瑶京の夜遊びはお預けか、残念だったな、高瑛」
またしても、蘇羽の軽やかな声が響く。
「……フン、笑っていられるのも今のうちだぞ、蘇羽」
睨みつける高瑛。
しかし、蘇羽はまるで春風を受け流すかのように、肩をすくめるだけだった。
「それはどうかな?」
挑発的な視線を残し、ひらりと踵を返す。
少琴が、深々とため息をついた。
「今は治療が最優先だ。すぐに高府へ運ぶぞ」
その後、周囲が慌ただしく動き出し、高瑛は馬車へと運び込まれた。
高瑛の付き人として、平安もそのまま一緒に高府に戻る。
そして、蘇羽は最後までその様子を見届いていた。
まるで、面白がっているように、意味深な笑みを浮かべながら。