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華と塵  作者: チョコリン
10/28

10 浮香楼

 西の空が茜色に染まり始める頃、高瑛(こうえい)平安(へいあん)を伴い、ある立派な建物の前で足を止めた。青瓦の屋根が夕日に映え、漆黒の扉の上には、朱塗りの看板が堂々と掲げられている。


 平安の腕には、先ほど買ったばかりの新しい衣服が抱えられていた。袖の端には、店の女将が何気なく拭った口紅の跡がくっきりと残っている。


 これを見て、平安はなんとなく気まずくなり、そっと袖を折り畳んだ。


 「この茶館(ちゃかん)、本当に立派ですね!」


 興奮気味に声を上げた平安は、入口に吊るされた赤い提灯を見上げた。


 その頭上では、二階の窓から色とりどりの絹の手帕が風に乗って舞い落ちる。しかし、彼はそれに気づくことなく、ただただ建物の荘厳な佇まいに見惚れていた。


 「ほう?なぜここが茶館だと分かるんだい?」


 高瑛は軽く扇を持ち上げ、口元の笑みを隠しながら問いかける。


 「『天浮香を賦せずんば、茶魄真を存せじ』……『浮香(ふこう)』はお茶の香りを表す言葉ですよね?こんなに格式高そうな場所なら、きっとお茶を飲みながら娯楽を楽しむところでしょう?」


 「はははは、お前、結構博学だな」


 扇の端で唇を隠したまま、どこか愉快そうに微笑んでいる高瑛。


 「まあ、確かに飲んで遊べる場所ではあるな」


 その言葉の真意を測りかねたまま、平安は高瑛に続いて建物の中へと足を踏み入れた。


 そして、次の瞬間。


 圧倒されるような艶やかな空気が、平安の全身を包み込んだ。


 甘く香る沈香の匂い。艶やかな笑い声。そして何よりも、視界いっぱいに広がる華やかな女たちの姿。


 「まあ、高瑛様!いらっしゃいませ!」


 柔らかな布が擦れる音が響き、優美な仕草の女たちが高瑛の周りに寄り添うように集まる。くすくすと笑いながら、細い指先で彼の袖をそっと摘まむ者もいた。


 平安は思わず目を瞬かせた。


 ――ここ、本当に茶館なの? 


 あまりにも自分の想像していた空間とかけ離れている。


 茶館といえば、もっと静かで落ち着いた雰囲気ではなかっただろうか。


 ほの暗い店内で、香り高い茶を淹れ、品のある会話を交わす場――そういう場所を想像していたのに。


 しかし、目の前で繰り広げられるのは、絢爛な宴のような世界だった。


 「……?」


 言葉を失いかけた平安をよそに、高瑛はごく自然な仕草で奥へと歩を進める。彼が通るたび、周囲の客や女たちはまるで王の行列を迎えるかのように道を空け、その視線には敬意と期待の色が滲んでいた。


 「高瑛様、お久しぶりですわねぇ」


 しっとりとした、艶のある声が響いた。


 姿を現したのは、豪奢な衣装に身を包んだ妓楼主だった。豊満な胸元を惜しげもなく見せつけるように揺らしながら、彼女は優雅な足取りで高瑛に歩み寄る。


 「今日はどんな色子をご所望で?」


 ――色子? ご所望……?


 言葉の意味をまだ理解していない平安は混乱し、高瑛に助けを求めようとする。


 「……高瑛、ここって、いったい……」


 「ふむ?」


 わざとらしく首を傾げる高瑛。平安の戸惑いを楽しんでいるようにも見えた。


 そんな二人を、周囲の女たちが興味津々に見つめていた。そして、いつの間にか男たちの視線までもが集まり、ひそひそと囁きが飛び交い始める。


 ——やばい。


 なぜかは分からないが、とにかくやばい気がする。


 平安はごくりと唾を飲み込み、じりじりと後ずさった。けれど、その動きを見逃すはずもなく、すぐさま女たちがふわりと取り囲むように歩み寄る。


 「……あれ、高瑛様が連れてるのって……男の子?いつもの九十九(つくも)様は?」


 「初めて見る顔ですわ、もしかして新入り?」


 平安は思わず息を呑んだ。


 ――新入り?もしかして、新しい付き人のことだろうか?だったら否定はできないが。


 自分の何がそんなにおかしいのか、まるで見当がつかない。そんな彼の戸惑いをよそに、突然、すぐそばにいた艶やかな女が彼の袖をくいっと引っ張った。


 「坊ちゃん、可愛いわねぇ」


 「わっ!?」


 「まあまあ、坊ちゃん、そんなに怯えなくてもいいのよ♡」


 「お肌、すべすべねぇ……触ってもいいかしら?」


 「きゃっ♡ 可愛い!」


 ——完全に逃げ場を失った。


 思わず後ずさる平安。しかし、彼の視線はそのまま、ぐいっと寄せられた女性の胸元に吸い寄せられ——


 「……っ!!」


 つぅ……と、鼻の奥が熱くなり、気がつけば鼻血が一筋、つっと流れていた。


 「は?」


 「……え?」


 一瞬の沈黙。


 そして次の瞬間——


 「ぎゃははははっ!」


 大爆笑が巻き起こった。


 「坊ちゃん、もしかして初めて?」


 「おやおや、初々しくて可愛いこと!」


 女性たちは口々に囁きながら、面白がるように平安を覗き込んだ。彼の耳まで真っ赤になっていく様子を見て、ますます笑いが大きくなる。


 「はっはっはっ!」


 高瑛も、腹を抱えて大笑いしている。


 「お前、本当に面白いやつだな!」


 そう言いながら、平安の肩をぽんぽんと叩いた。


 「なぁ、平安。お前、もしかして……童貞か?」


 「い、いや……!」


 とっさに否定しようとするが、動揺のあまり声が裏返る。


 「あっははは!お前、わかりやすいな!」


 高瑛は心底楽しそうに笑いながら、鼻血を拭う平安の顔を覗き込んだ。


 「……可愛いな、ほんと」


 冗談めかしたその言葉に、平安はますます顔を真っ赤にして俯いた。


 耳の奥で笑い声がぐるぐると響き、どこにも逃げ場がない気がした。恥ずかしさのあまり、ぎゅっと袖を握りしめながら小さくなった。


 ……どうしてこうなったんだ!


 ふと視線をそらした先、舞台の上では、煌びやかな衣装を纏った女性たちが優雅に舞い踊っていた。ひらひらと舞う薄布が、まるで蝶の羽のように軽やかに宙を舞い、揺れるたびに彼女たちの白い足首が露わになる。


 (……あれ?どうして靴を履いていないんだろう?)


 祭りの踊り子を思い出しながら、平安は小さく首を傾げる。彼が今まで見てきた踊り子は、美しい衣装を身に纏っていたが、こんなに足を露出していることはなかったはずだ。


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