10 浮香楼
西の空が茜色に染まり始める頃、高瑛は平安を伴い、ある立派な建物の前で足を止めた。青瓦の屋根が夕日に映え、漆黒の扉の上には、朱塗りの看板が堂々と掲げられている。
平安の腕には、先ほど買ったばかりの新しい衣服が抱えられていた。袖の端には、店の女将が何気なく拭った口紅の跡がくっきりと残っている。
これを見て、平安はなんとなく気まずくなり、そっと袖を折り畳んだ。
「この茶館、本当に立派ですね!」
興奮気味に声を上げた平安は、入口に吊るされた赤い提灯を見上げた。
その頭上では、二階の窓から色とりどりの絹の手帕が風に乗って舞い落ちる。しかし、彼はそれに気づくことなく、ただただ建物の荘厳な佇まいに見惚れていた。
「ほう?なぜここが茶館だと分かるんだい?」
高瑛は軽く扇を持ち上げ、口元の笑みを隠しながら問いかける。
「『天浮香を賦せずんば、茶魄真を存せじ』……『浮香』はお茶の香りを表す言葉ですよね?こんなに格式高そうな場所なら、きっとお茶を飲みながら娯楽を楽しむところでしょう?」
「はははは、お前、結構博学だな」
扇の端で唇を隠したまま、どこか愉快そうに微笑んでいる高瑛。
「まあ、確かに飲んで遊べる場所ではあるな」
その言葉の真意を測りかねたまま、平安は高瑛に続いて建物の中へと足を踏み入れた。
そして、次の瞬間。
圧倒されるような艶やかな空気が、平安の全身を包み込んだ。
甘く香る沈香の匂い。艶やかな笑い声。そして何よりも、視界いっぱいに広がる華やかな女たちの姿。
「まあ、高瑛様!いらっしゃいませ!」
柔らかな布が擦れる音が響き、優美な仕草の女たちが高瑛の周りに寄り添うように集まる。くすくすと笑いながら、細い指先で彼の袖をそっと摘まむ者もいた。
平安は思わず目を瞬かせた。
――ここ、本当に茶館なの?
あまりにも自分の想像していた空間とかけ離れている。
茶館といえば、もっと静かで落ち着いた雰囲気ではなかっただろうか。
ほの暗い店内で、香り高い茶を淹れ、品のある会話を交わす場――そういう場所を想像していたのに。
しかし、目の前で繰り広げられるのは、絢爛な宴のような世界だった。
「……?」
言葉を失いかけた平安をよそに、高瑛はごく自然な仕草で奥へと歩を進める。彼が通るたび、周囲の客や女たちはまるで王の行列を迎えるかのように道を空け、その視線には敬意と期待の色が滲んでいた。
「高瑛様、お久しぶりですわねぇ」
しっとりとした、艶のある声が響いた。
姿を現したのは、豪奢な衣装に身を包んだ妓楼主だった。豊満な胸元を惜しげもなく見せつけるように揺らしながら、彼女は優雅な足取りで高瑛に歩み寄る。
「今日はどんな色子をご所望で?」
――色子? ご所望……?
言葉の意味をまだ理解していない平安は混乱し、高瑛に助けを求めようとする。
「……高瑛、ここって、いったい……」
「ふむ?」
わざとらしく首を傾げる高瑛。平安の戸惑いを楽しんでいるようにも見えた。
そんな二人を、周囲の女たちが興味津々に見つめていた。そして、いつの間にか男たちの視線までもが集まり、ひそひそと囁きが飛び交い始める。
——やばい。
なぜかは分からないが、とにかくやばい気がする。
平安はごくりと唾を飲み込み、じりじりと後ずさった。けれど、その動きを見逃すはずもなく、すぐさま女たちがふわりと取り囲むように歩み寄る。
「……あれ、高瑛様が連れてるのって……男の子?いつもの九十九様は?」
「初めて見る顔ですわ、もしかして新入り?」
平安は思わず息を呑んだ。
――新入り?もしかして、新しい付き人のことだろうか?だったら否定はできないが。
自分の何がそんなにおかしいのか、まるで見当がつかない。そんな彼の戸惑いをよそに、突然、すぐそばにいた艶やかな女が彼の袖をくいっと引っ張った。
「坊ちゃん、可愛いわねぇ」
「わっ!?」
「まあまあ、坊ちゃん、そんなに怯えなくてもいいのよ♡」
「お肌、すべすべねぇ……触ってもいいかしら?」
「きゃっ♡ 可愛い!」
——完全に逃げ場を失った。
思わず後ずさる平安。しかし、彼の視線はそのまま、ぐいっと寄せられた女性の胸元に吸い寄せられ——
「……っ!!」
つぅ……と、鼻の奥が熱くなり、気がつけば鼻血が一筋、つっと流れていた。
「は?」
「……え?」
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間——
「ぎゃははははっ!」
大爆笑が巻き起こった。
「坊ちゃん、もしかして初めて?」
「おやおや、初々しくて可愛いこと!」
女性たちは口々に囁きながら、面白がるように平安を覗き込んだ。彼の耳まで真っ赤になっていく様子を見て、ますます笑いが大きくなる。
「はっはっはっ!」
高瑛も、腹を抱えて大笑いしている。
「お前、本当に面白いやつだな!」
そう言いながら、平安の肩をぽんぽんと叩いた。
「なぁ、平安。お前、もしかして……童貞か?」
「い、いや……!」
とっさに否定しようとするが、動揺のあまり声が裏返る。
「あっははは!お前、わかりやすいな!」
高瑛は心底楽しそうに笑いながら、鼻血を拭う平安の顔を覗き込んだ。
「……可愛いな、ほんと」
冗談めかしたその言葉に、平安はますます顔を真っ赤にして俯いた。
耳の奥で笑い声がぐるぐると響き、どこにも逃げ場がない気がした。恥ずかしさのあまり、ぎゅっと袖を握りしめながら小さくなった。
……どうしてこうなったんだ!
ふと視線をそらした先、舞台の上では、煌びやかな衣装を纏った女性たちが優雅に舞い踊っていた。ひらひらと舞う薄布が、まるで蝶の羽のように軽やかに宙を舞い、揺れるたびに彼女たちの白い足首が露わになる。
(……あれ?どうして靴を履いていないんだろう?)
祭りの踊り子を思い出しながら、平安は小さく首を傾げる。彼が今まで見てきた踊り子は、美しい衣装を身に纏っていたが、こんなに足を露出していることはなかったはずだ。