伯爵家に復讐するために貴族の学園を攻略しようとする平民の娘のお話
「貴族めっ……! 許せません!」
平民の娘ミルリーヴェは変わり果てた姿で帰ってきた父を見て怒りを言葉にして吐き出した。
父は腕のいい家具職人だ。10人ほどの職人を擁する工房の主だった。父の作る家具の出来は評判が良く、最近では貴族からも注文が入るようになってきた。
もっと工房を大きくできる……そんな明るい未来が開け始めた矢先に、不幸がやって来た。
家具を売った貴族の一つ、エミスターク伯爵家から苦情が入った。父が作った椅子の出来が悪く、会合の席で壊れてしまった。そのせいで賓客が大変な恥をかかされたというのだ。
伯爵家の使いの者たちによって父は有無を言わさず連れ去られてしまった。
ミルリーヴェも父の誠実な仕事ぶりをずっと見てきた。何もせずに壊れたなどあるはずがない。きっと何かの行き違いがあったのだろう。誤解は解けて父はすぐに帰って来るものと信じていた。
だがその期待は裏切られた。父は有罪となり、半年もの間、投獄されることになってしまったのだ。
周囲の人々は、貴族に恥をかかせたのにその程度の罰で済んでよかったと言っている。貴族はプライドを重んじ、それを傷つけた平民が死罪となることも珍しくないのだ。
だがミルリーヴェは納得がいかなかった。父の家具職人としての腕は一級品だ。貴族に納める家具は特に入念に確認する。普通に使っていていきなり壊れるなんてことはあるはずがない。
母は壊れた椅子を引き取って新しいものと交換すると申し出た。だがそれは断られた。貴族に恥をかかせた椅子は、とっくの昔に燃やして捨てたというのだ。新品も無用とのことだった。
ミルリーヴェは事情を探るため、町中をかけずりまわり噂話を集めた。
どうやら恥をかいた賓客とやらは、エミスターク伯爵家の敵対派閥に属する貴族だったらしい。
賢いミルリーヴェは噂話を集めるうちに事情について察しがついた。
敵対派閥の貴族との会合で、何らかのトラブルが起きたのだ。下手に対応すれば派閥同士の争いに発展する。伯爵はきっと、その矛先を収めるために、その場にあった椅子に責任を押しつけたのだ。
もし本当に椅子に不具合があったのなら、半年程度の投獄で済むはずがない。椅子を燃やしてしまったのも、証拠隠滅のためとしか思えなかった。
だが、それがわかったところでどうしようもなかった。噂話から推測で得た結論に過ぎない。たとえ確たる証拠があったとしても、平民の娘一人が抗議したところで貴族に抗えるはずもなかった。
そして半年後、ようやく父は帰ってきた。
父はいつも元気に満ち溢れ、様々な工具を用いて素晴らしい家具を作り出していた。だが今はすっかり意気消沈してしまった。頬はやせこけ、たくましかった二の腕も細くなったように見えた。
この半年、工房はすっかり勢いを失ってしまった。伯爵家と問題を起こしたことで貴族からの注文はすっかり絶えてしまった。巻き込まれるのを恐れて大口の得意先のいくつかも手を引いた。工房の維持だけはなんとかできていたが、規模拡大の話は遠い夢物語となってしまった。
「貴族めっ……貴族めっ……貴族めっ……!」
ミルリーヴェの口から漏れ出る怨嗟の声を耳にして、両親は血相を変えた。
「ミルリーヴェ! 貴族様を悪く言ってはいかん! 今回のことは、きっとわしが悪かったのだ!」
「貴族様を恨んではなりません! あなたに何かあったらどうするんですか……!」
両親から泣きそうな声でそう言われて、ミルリーヴェはひとまず矛を収めた。
だが胸の奥に燻る怒りの炎は消えることなく、むしろなお一層強く燃え上がるのだった。
ミルリーヴェは自室にこもり考えた。
自分はまだ13歳の平民の娘に過ぎない。いくら恨みを持って貴族に対して抗議しようと、羽虫のように追い払われるだけだろう。
しかし彼女にはただ一つだけ貴族に近づく手段があった。
貴族の学園に入学することだ。
ただの平民では貴族に干渉することは難しい。だが貴族の学園に入学できれば、同級生として貴族に接することができる。貴族社会の情報を集めれば、何か報復する手立てが見つかるかもしれない。
それは楽な道ではない。
この王国にある貴族の学園は、入学試験に合格した平民を特待生として迎え入れる制度があるにはある。だがこの王国に於いて公的な平民向けの教育機関は存在しない。教会が読み書きや簡単な数学を教えるくらいである。それだけでは貴族の学園に入学できるような高度な学力を得るのは難しい。
実際に貴族の学園に入学する平民は数年に1人いるかどうかだ。合格者にしても優秀な教師を雇える大商人の子供ばかりだ。
平民の入学枠を設けているのは、要は建前だ。王国は平民に対し教育の門戸を開いているという姿勢を見せて、国民の支持を集める手段なのだ。
だがミルリーヴェは諦めなかった。
もともと賢い娘だった。教会で習うことは半年足らずで習得し終え、それからは市場で捨て値で手に入る本を集め知識を蓄えてきた。
そんなことをしてきたのは、将来商人になるためだった。ミルリーヴェには家具を作る才能はなかった。だから商人になって、父の作り上げた素晴らしい家具を多くの人に届けるのが夢だった。
貴族の学園を卒業すれば、貴族とのつながりができるかもしれない。貴族相手に商売ができれば、商人として大成することができるかもしれない。
将来の夢に役立つ。復讐の手段を探ることができる。一石二鳥とはこのことだ。ミルリーヴェは猛然と勉強に勤しんだ。
市場に本の出物があると聞けすぐさま行って値切りに値切って入手した。知識のある人がいると聞けば、頼み込んで師事を仰いだ。学園への入学試験経験者がいると聞けば赴いて、どんな問題が出たか根掘り葉掘り聞いた。貪欲かつ執拗に、妥協なく猛然と知識を蓄えていった。
そうした努力の末、15歳の春。ついにミルリーヴェは学園への入学を果たしたのである。
苦労して入った学園は、しかし厳しい場所だった。
ミルリーヴェが学園に入学してまず感じたのは、平民と貴族の格差だった。
彼女は学園内では平民向けの制服を着ている。ミルリーヴェが持っているどの服より質の高い上品な作りだ。それでも他の令嬢が身に着ける制服より数段質が落ちる。平民向けの制服でさえ、ミルリーヴェにとって高額なものだった。貴族令嬢の制服となるととても手が出せない。
学園に入学した者は寮に入ることになる。ミルリーヴェに割り当てられたのは寮の一番隅の平民用の部屋だった。
学園寮の中では最低ランクの部屋だった。その部屋でさえ、ミルリーヴェの実家のどの部屋よりも豪華だった。まず空間の使い方が違う。広々とした落ち着く広さだった。勉強机やベッドなど、最低限の簡素な家具しかない。だが家具職人の娘であるミルリーヴェは、それらが地味ながらも作りの良いものであることを見抜いていた。平民向けの部屋であっても最低限の質は保つ。貴族の気位の高さを感じさせる。一部屋だった。
何より住む世界が違うと感じさせたのは学園に通う生徒たちだった。
ミルリーヴェは入学が決まった時、目の敵にされるかもしれないと思っていた。平民でありながら優秀な成績で貴族の学園に入学したのだ。気位の高い貴族の生徒たちは、きっと目障りに感じることだろうと思っていた。
だが、そんなことにはならなかった。
貴族たちはそんなことを気にしてすらいない様子だった。声をかけてくることはない。目を向けられることすらない。こちらから話しかけると、煩わし気な目を向けられ立ち去ってしまう。ほとんどの貴族にとって、ミルリーヴェという平民の娘など、相手にする価値すら感じていないのだ。
貴族の学園と言えばきらびやかな印象があった。だがそこは、平民のミルリーヴェにとって冷たく寂しい異世界だった。
この学園には父を投獄においやったエミスターク伯爵家の嫡子が通っている。一年上の先輩だ。
色々なことを聞きたいと思った。だがそれは難しい。同級生すら相手にしてくれないのだ。平民が理由もなしに一年上の先輩の、それも高位貴族の子息に話しかけたところで、無視されるのがおちだ。何度もしつこく会話を迫れば無視できなくなるだろう。だがそれは貴族の怒りを買うということだ。貴族は平民を同じ人間と思っていない。邪魔な平民を排除するために貴族が何をするか……それは想像するだけで背筋が寒くなることだった。
誰と話すこともなく、ただ学園の授業を受けるだけの日々が続いた。
だがミルリーヴェは諦めたわけではなく、何もしていなかったわけでもない。彼女は静かに準備を進めていたのだ。
「あの、すみませんテスフラート様、ちょっとよろしいでしょうか?」
男爵子息テスフラートは、肩を叩かれそう呼びかけられた。
声をかけるだけならともかく、肩を叩くとは貴族としては不作法な行いだ。
どこの礼儀知らずかと思って振り向くと、そこに茶色の髪に黒の瞳の、地味で目立たない少女がいた。
顔だけは知っていた。確か今年入学した平民の娘だ。
平民ごときが断りもなく貴族の身体に触れるなど許されないことだ。同じ学園の生徒だとしても例外ではない。
この無礼な行いをきちんととがめなくてはならない。頭ではそうわかっているのに、しかしテスフラートは言葉を紡げなかった。平民の少女があまりにもにこやかな笑顔を浮かべており、しかも距離が近い。触れそうなほど近くにある笑顔に対し、声を上げるより先に一歩引いてしまったのだ。
「今日の魔法の授業でわからないところがあったんです! どうか教えていただけませんか?」
平民の少女はテスフラートを追うようにずいと一歩踏み込んできた。
「まったく平民は礼儀を知らないな。名乗りもせずに声をかけるのが、どれほど不作法なことかわからないのか?」
「これは失礼しました! わたしは家具屋の娘、ミルリーヴェっていいます!」
ミルリーヴェは数歩引くと、カーテシーを披露した。学園の令嬢のように洗練された所作ではない。しかし丁寧できっちりとしたそのカーテシーは、それなりに練習したことが伺えた。
礼儀を知らない平民かと思えば、カーテシーの練習はしている。そのちぐはぐさにテスフラートは戸惑うばかりだった。
「あれ、何か違いましたか?」
「いや、今のカーテシーは平民にしては悪くなかった。だが君は距離が近すぎる。いくら同じ学園の生徒だからといって、男女は適切な距離を保つのが礼儀と言うものだ」
「そうなんですね、勉強になります!」
そんなことを言いながらも相変わらず距離が近い。相手をせずに立ち去りたいと思ったが、この調子では付きまとってきそうだ。平民をまとわりつかせては妙な噂が立ちかねない。
テスフラートはとっととこの会話を終わらせることにした。
「それで、私に一体何の用なんだ?」
「実は、今日の魔法学の授業で分からないところがあったんです! それをちょっと教えていただきたくて……」
そう言ってミルリーヴェは教科書を広げて見せてきた。
またしても近い。ちょっと言った程度では直らないらしい。テスフラートはため息を吐いた。
「授業で分からないことがあれば教師に聞くべきだろう?」
「ここは貴族の学園です。教師は貴族の生徒に時間を割くばかりで、わたしのような平民はなかなか相手をしてくれないんです」
そう言ってミルリーヴェは視線を落とした。
確かにこの貴族の学園においては平民を相手する者などいない。教師にしても他の生徒ならともかく平民のためにわざわざ時間を割いたりはしないだろう。
それは分かっているのに、当たり前のことだと切り捨てることができない。しかしつい先ほどまでニコニコと明るかった彼女の落ち込む姿に、なんだか気まずさを覚えてしまったのだ。
「それで声をかけてきたのか。でもなぜ私に?」
「テスフラート様はがいつも真面目にノートを取っているのを見ていました。それに、あなたの瞳はとても優しそうです。そんな方なら、平民のわたしにも勉強を教えてくれると思ったんです」
じっと見つめながら顔をぐっと近づけて懇願する。
潤む瞳に至近距離から見つめられ、男爵子息は恥ずかし気に顔をそらす。
「近い近い! まったく平民は礼儀を知らないな! ……だが、そういうことなら仕方ない。平民とは言え君も同じ学園の生徒だ。そんなに困っているのなら、少しくらいは勉強を教えてやる」
「ありがとうございます! やっぱりお優しい方ですね!」
「さ、さあ図書室に行くぞ! 勉強すると場所と言えば図書室だからな!」
「わかりました!」
元気よく返事をするとミルリーヴェはすたすたと歩きだしてしまった。
「おい待て! 女性の方が先に行くものじゃない。男女が歩く時は男性がエスコートする。礼儀作法の基本だぞ」
「平民のわたしを女性として扱ってくださるのですか? やっぱりテスフラート様はお優しいですね!」
悪びれた様子もなくにっこり笑ってそう返されてしまった。あまりに無邪気な笑顔で叱る言葉を失ってしまう。どうにも調子が狂う平民だった。
ミルリーヴェは図書館でも近かった。男女が二人で席を囲むなら向かい合わせになるのが普通だ。
だがミルリーヴェはまるでそれが当たり前のことのように隣に座り、何が楽しいのかニコニコとした笑顔を浮かべている。
「こういう時は向かい合わせで座るのが礼儀と言うものだ」
「この方が効率的です。教科書やノートを見せ合うのに、いちいち向きを変えなくて済みます。テスフラート様に貴重なお時間を使わせてしまうわけですから、平民であるわたしとしては早く終わるように努力しないといけないのです」
ミルリーヴェは一応それなりに筋の通ったことを言っている。言い返そうかと思ったが、それで時間を浪費するのも馬鹿らしい。とっとと終わらせてしまうことにした。
「それで、どこが分からないんだ?」
「この呪文の理論です。魔力を制御するだけならもっと短縮できそうに思えるのですが、なぜこんなに前置きが長くなっているのでしょう?」
「そうか、君は魔法を使えないのだったな。魔法の行使には精神状態が大きく影響を与える。ある程度規模の大きい魔法を扱う際には呪文の詠唱によってある種の自己催眠にもっていかなくてはならないんだ」
ミルリーヴェの疑問は実に初歩的なことだった。魔法を学び始めた者は最初にぶつかる疑問だ。
魔法の行使には正確なイメージと精密な魔力操作が必要だ。戦乱の時代ではかつては効率化のために呪文の短縮化が研究されていた。だが平和の長く続いた現在の王国においては、効率より安定性が重視されるようになった。
ただそれを実際に使ってみなければそれを実感することは難しい。
ミルリーヴェは学園に入学できるほどの才女ではあるが、平民であるため魔法を使えるほどの魔力は持っていないはずだ。
「自己催眠ですか……いまいちピンときませんね……」
「要するに勉強をやりやすいように環境を整えるようなものだ。いつも使っている机にお気に入りのペンに参考書。勉強する前にそれらをいつもの使いやすい位置に置いたら勉強も捗るだろう? 呪文の前半はそういうものだと思えばいい」
「それならわかります! さすがテスフラート様です! すごいです!」
ミルリーヴェは絶賛した。大げさな平民だと思いつつも、テスフラートも悪い気はしなかった。
テスフラートは貴族の中では爵位が低い男爵家の子息だ。家も大きな派閥には属していない。唯一誇れると言えば魔法の才能だけであり、だから魔法の勉強には特に力を入れていた。それでも爵位の低い彼が注目を浴びることはない。
だから魔法の知識を披露してこんな風に人が喜ぶのは初めてだった。
平民の娘だ。美しさも学園の令嬢と比較すれば数段落ちる。それでも今、彼だけに向けられる笑顔はとてもまぶしく見えた。
そうして二人は勉強に励んだ。ミルリーヴェは魔法の実技については知識が足りないところはあったが、魔法の理論や歴史に関する理解は深い。教えるばかりでなく彼女から得る物もあり、勉強に熱が入った。
だがそんな充実した学習の時間に水を差すものがあった。
ミルリーヴェの距離の近さだ。触れそうなほど近くになっても彼女は気にしない。よほど勉強に没頭しているのだろうか。だがテスフラートとしてはそうも言っていられない。
平民の娘だ。身分の差は絶対だ。それでも手の届くところにいる同じ年頃の女の子であることに変わりはない。
教科書をめくる手が触れ合うことがある。吐息が手にかかることがある。肩や膝がぶつかることもある。
テスフラートはまだ婚約者がおらず、女遊びに興じる趣味もなかった。こんな距離感で年の近い女性と接する機会などなかった。
こんなに近くでミルリーヴェは恥ずかしくないだろうか。目が合えば笑顔を返してくれる。嫌がっている様子はまるで見られない。
だんだんと、この距離の近さは意図的なものではないかと思えてきた。彼女は平民だ。貴族の男性と関係を持つために、勉強を口実に接触してきたのではないだろうか。
そう思うと気分がひどく落ち着かなくなった。彼女の意図を確かめずにはいられなくなった。
気づくと彼女の手に触れていた。ぎゅっと、少し強く握った。思ったより華奢で柔らかくて、驚いた。
もし彼女が自分に気が無ければ振り払うだろう。拒絶しなければ……それはつまり、彼女もその気だということだ。固唾を呑んで彼女が動くのを待った。
だが、ミルリーヴェの反応はどちらでもなかった。やんわりと手を押しのけると、曖昧な笑みを浮かべた。それが愛想笑いであることはテスフラートにも分かった。
別にそう言うつもりではなかったらしい。急に恥ずかしくなった。女性が近くにいるからとのぼせ上って、断りもせずに勝手に手を握るなど紳士失格だ。自分は一体何をしているのか。思わず俯いてしまう。頬が熱い。逃げ出したい気持ちになった。
すると、ミルリーヴェはテスフラートの耳元でそっと囁いた。
「こんな場所では、困ります」
妙に意味深な言い方だった。こんな場所では困るということなら、二人きりになれる場所なら大丈夫ということなのだろうか。
顔を上げミルリーヴェの顔を見る。すると、彼女は口元に手を当てくすくすと笑った。どうやらからかわれたらしい。
平民に恥をかかされたなら報復をしなければならない。それが貴族の義務だ。だがこの時、テスフラートはそんな風に思えなかった。彼女にからかわれたことが、なんだかこそばゆい。彼女がひどくかわいらしく見えた。
そうして二人はそれからもしばらくの間、勉強を続けた。
だがそれも終わりが来た。日は暮れ始め、そろそろ閉館の時間が近づいてきたので、勉強会はお開きとなった。
「また、勉強で困ったら教えてくれますか?」
「ああ、このくらいのことならいつでも言ってくれ」
別れ際、テスフラートは上機嫌で請け負った。
図書室での勉強を終え、ミルリーヴェは学園寮の自室に戻った。
すぐさまベッドに飛び込み、突っ伏した。
「うっわー! 恥ずかしかったーっ!」
そう言って足をバタバタとさせた。そうやってしばらく身もだえしてから、顔を上げた。その顔は真っ赤に染まっていたが、口元には不敵な笑みがあった。
「でも、これならいけそうです。貴族と言えど男の子は男の子。『夜の接客術』なら、平民でも貴族の関心を得られます!」
学園に入学してから一か月。誰からも見向きもされなかったミルリーヴェがなにをしていたかと言えば、情報収集である。
学園で生徒の居る場所ならば誰も注意を払わない。わざわざ平民である彼女と関わろうとしない。これは見方を変えれば、周囲の会話を盗み聞きし放題と言うことである。ミルリーヴェはこの状況を最大限に活用することにした。
ミルリーヴェは貴族の社会を知らない。この状態で父を投獄したエミスターク伯爵家の子息と接触しようとしても相手にされないで終わるだろう。そのためにはまず情報を集めることが必要だった。
休み時間や昼食時の食堂。放課後のテラスや学園寮の休憩室。怪しまれずに会話を聞く機会はいくらでもあった。
貴族の生徒たちは平民の娘などいないものとして扱う。本でも読みながら何気ない風でその場にいれば、注意してくる生徒はいなかった。
人目のある場所で堂々とメモを取るのは流石に危険に思えたので、書き記すのは自室に戻ってからだ。もともと記憶力には自信があったので問題なかった。そうして各生徒の爵位や属する立場、それぞれの力関係を少しずつ把握していった。
そうして分かったのは、学生であろうとも家の関係には縛られているということだった。同じ派閥の令嬢や子息はグループを作るが、敵対派閥の生徒と接することはほとんどない。上下関係も実に厳密で、爵位を越えた友情みたいなものはまるで見受けられない。
学園と言う場は貴族社会の縮図と言えた。
学生であっても貴族は爵位に縛られる。貴族社会とは、息苦しくて自由のない世界だった
もうひとつ貴族を縛るものがあった。礼儀作法である。どの貴族も上品な振る舞いをしている。しているというより、しなければならない。礼儀作法に反した行いをすれば周囲から蔑みの視線を受けることになる。
平民と比べると男女の距離感も遠い。基本的に触れ合うことはなく、親しい者同士が会話する時も常に一定の距離を保っている。
貴族と言えばもっと優雅なイメージがあった。実際には自由が無くて堅苦しい。しかしそれは隙の無い完成された世界でもあった。平民が入りこむ余地は無いかと思われた。
そしてミルリーヴェは気がついた。確かに学園の生徒たちは貴族間の複雑な関係と礼儀作法に縛られており割り込む隙は無い。しかし男女の距離が離れていると言うのなら……実はその間に入り込むことができるのではないか。
その手段について、ミルリーヴェには心当たりがあった。
『夜の接客術』である。
ミルリーヴェは学園の入学に当たり、勉強のために様々な知識人に協力を仰いだ。その過程で彼女を心配する声も受けた。貴族によって平民の娘が手籠めにされるというのはそこまで珍しいことではない。ただの家具屋の娘であるミルリーヴェが貴族に迫られれば、抗うことは難しいだろう。
そこで夜の仕事に就く女性たちに知識を求めた。彼女たちは貴族ばかりでなく大金持ちに地元の名士など、様々な上流階級の人間を相手取る。権力や金を背景に関係を迫られることもあるだろう。それでも彼女たちはたくましく生きている。その秘訣を知りたかった。
事情を話し助力を仰ぐと、夜の仕事の女たちは快く受け入れてくれた。貴族の学園に通おうとする娘が貴族の横暴にさらされてはならないと、夜の仕事の女たちは積極的に協力してくれた。
男の興味を引く表情や仕草。男の自尊心をくすぐり心を解きほぐす会話術。男を甘くとろけさせ、しかし一線を決して越えさせない絶妙なスキンシップ。
男を魅了し惑わせ引きつける。しかし決定的なところに踏みませないよう、宥めてあやして甘やかす。それが『夜の接客術』と呼ばれる技術だった。
ミルリーヴェはもともと接客についてはそれなりに知っていた。幼い頃から母親が家具を売り込む姿を見てきた。商人になると決めてからは、様々な店をまわって商人の接客する姿も観察してきた。
『夜の接客術』を伝授されたと言っても、教わったのはあくまで基礎だけだ。いかに貴族から身を護るためだとしても、10代前半の少女に教えられることは限られてくる。しかしミルリーヴェは優秀だった。学習意欲の高さと持ち前の知識と理解力があった。それに加えて素養もあった。ミルリーヴェは『夜の接客術』の本質的な部分を理解し活用できる段階まで身に着けていた。
本来は防御の術として学んだ『夜の接客術』。だが技術とは使い方次第だ。病を癒す薬も、使い方次第では命を奪う毒となることもある。身を護るための鎧ではなく、貴族に取り入るための武器として『夜の接客術』を使うことにしたのだ。
そうして男爵子息テスフラートに対して試みてみた。彼は大きな派閥に属していない孤立した生徒であると事前の調べで分かっていた。試みが失敗してもさほど影響はないはずだった。
そして想像以上の成果を得ることができた。たった一度、図書室で勉強しただけで、彼はすっかり心を許すようになった。これまでは平民であるミルリーヴェを視界に入れることすらなかったのに、今では目が合えばあいさつをかわすようになった。休み時間に話しかければ話は弾み、時折笑顔を見せてくれるようになった。
復讐相手のエミスターク伯爵家の子息へ対し、同じ『夜の接客術』で直接交流することも考えた。だがまだ一度成功しただけだ。調子に乗って同じことをして同じように成功するとは限らない。失敗したらそれまでだ。仮に成功したらしたで、周囲の反発を招くことも懸念される。
やはり慎重に順序だてて進めた方がいい。下位の貴族たちからの支持を集め、伯爵子息と言う上位貴族と話してもおかしくない状況を作り上げるのだ。
そのために大きな派閥に属さない男爵子息を狙った。
二人目とも悪くない関係を結べた。三人目は上手くいった。四人目とは気が合った。五人目に男女交際を申し込まれそうになった。
ミルリーヴェは順調に貴族子息の友人を増やしていった。
これにはミルリーヴェ自身も驚いた。ここまでうまくいくとは思わなかった。
『夜の接客術』がここまで有効に働いたのは、貴族の学園という特殊な環境と、ミルリーヴェの平民の立場がうまくかみ合ったためだ。
ミルリーヴェの容姿はそこまで優れているわけではない。肩まで届く薄茶の髪。くりくりとした黒の瞳。顔の作りは悪くなく、全体としてかわいい印象がある。それでも他の貴族令嬢たちの洗練された美しさには遠く及ばない。
それでも年頃の娘であることには変わらない。
いかに貴き家に生まれ、幼い頃から厳しくしつけられたと言っても、貴族子息も所詮は10代の男の子だ。その心の内には異性と触れ合いたいという欲求が常に渦巻いている。
異性に触れるのは不作法なことだ。婚約者であろうとも結婚前の令嬢も簡単に触れさせてはくれない。多くの貴族子息は禁欲を強いられることになる。
だがミルリーヴェは違った。この平民の娘は、令嬢なら踏み込めない距離に実にたやすく踏み込んできて、笑顔を見せてくれるのだ。
近づきすぎるとやんわりと断られる。それでも決して嫌悪の表情を見せない。
なにより平民と言う身分がいい。もし間違いを犯したとしても平民ならばなんとでもなる。
手の届く場所にいる年頃の娘。その絶妙な距離感が貴族子息を引き付けた。
そしてミルリーヴェはよく褒めてくれた。
貴い血を受けた貴族は優秀で当たり前だ。むやみやたらと褒めることは不作法とされる。だがミルリーヴェは違った。
「さすが!」「知らなかったです!」「すごい!」「センスいいですね!」「そうだったんですか!」
ちょっとしたことでも、まるで大きな偉業でも成し遂げたかのように褒めてくれる。誰だって褒められるのは気持ちいい。ましてやかわいい女の子から褒められるとなれば、男は舞い上がってしまうものだ。
そうして要素が組み合わさり、ミルリーヴェは次々と交友関係を広げていった。彼女はそれで調子に乗ったりはしなかった。
彼女は平民なのである。貴族がその気になれば簡単にどうにかされてしまう。実際、その技術の高さを称賛されていたはずの父は、理不尽に罪を科され投獄の憂き目に遭った。彼女自身、行動を起こすまでは誰にも見向きもされなかった。少しでも風向きが変わればたちまち危機に陥るだろう。そのことを常に念頭に置いていた。
交友関係の拡大には慎重を期した。まずは派閥に属さない貴族子息を対象とした。それで地固めができたら、次は小さな派閥の貴族子息との交友を持った。
時間が経つにつれて、過剰に熱を上げる子息も出てくる。その際は、あえてその子息と敵対派閥に属する子息との交友関係を結んだ。友人間で反目させてバランスを取るのである。
逆に重要な立場の子息が交友関係から離れそうになった時は、あえてそのライバルと仲良くしてみせた。女を捨てると決めた男は、捨てられるのが自分の方となると我慢できなくなるものだ。
交友関係が拡がるほどに人間関係は複雑になっていく。ミルリーヴェは必死になって調整をした。彼女は何とかやりながら。そして同学年の多くの男子生徒から支持を受けながら、男子生徒からの悪評は極めて少ないという状況となった。一言でまとめると、「学年一の人気者の少女」という立場を得た。
卓越した容姿を持つわけでもない平民の娘が、他の令嬢を差し置いてそんな立場に収まることは異常なことだ。ミルリーヴェ自身は必死すぎて気づいてなかったが、人心掌握の才能があったのだ。
ミルリーヴェは優秀だった。だが完璧と言うわけではなかった。続けるうちに綻びは出てくる。
そして、その日はやってきた。
「あなたは学園の風紀をどうお考えなのですか?」
ある日、ミルリーヴェは放課後の校舎裏に呼び出された。そこで待っていたのはクラスメイトの子爵令嬢ディープレシアと取り巻きの男爵令嬢3人だった。
子爵令嬢ディープレシアは金色の髪に緑の瞳の美しい令嬢だった。その清楚なたたずまいは模範的な貴族の令嬢といった感じだった。
子爵令嬢ディープレシアは淑女らしくない鋭い目でミルリーヴェのことをねめつける。それも当然だろう。ミルリーヴェの交友関係の中には彼女の婚約者がいるのだ。
予想された事態だった。ミルリーヴェが交友関係を広げていたのは貴族子息だけだった。同性相手だと『夜の接客術』は使える手が大幅に限られてくる。それに女性の人間関係は男性のそれよりはるかに複雑かつ強固で、入り込む余地がない。それに貴族子息たちの人間関係に手いっぱいで、貴族令嬢たちの動きまでは手が回らなかった。
ミルリーヴェ当人としては、多大な労力を費やし慎重に自分の立場をあげようとしているだけだ。だが貴族令嬢たちから見れば、平民のくせに多くの貴族子息を惑わす小悪魔に見えたことだろう。令嬢たちから不興を買うことはわかっていた。
当然、こうした事態になることは想定していた。だからミルリーヴェはためらうことなく、予め決めておいた通りに行動した。
「ご、ごめんなさいいいい! 命ばかりはどうかお助け下さいいいいいい!」
大声で叫ぶと、地面に額をこすりつけんばかりに這いつくばった。
「と、突然何をしているのですか!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいいいい!」
戸惑ったような子爵令嬢ディープレシアの声に対し、ミルリーヴェはひたすら謝罪を繰り返す。
しばらくそうしていると、先に子爵令嬢ディープレシアの方が折れた。
「……落ち着きなさい。あなたは平民と言っても同じ学生。命を奪うようなこと、この私がするはずがないでしょう? まずは顔をあげなさい」
ミルリーヴェはぱっと立ち上がると子爵令嬢ディープレシアに近づき、その手をぎゅっと握った。
「ありがとうございます! ディープレシア様はお優しいのですね!」
そう言ってニコリと人懐っこい笑顔を見せた。最近笑顔を作るのもすっかりうまくなった。何人もの貴族子息を虜にした笑顔は、令嬢にとっても有効だったようだ。子爵令嬢ディープレシアは仄かに頬を赤らめた。
だがそれもわずかのこと。すぐに厳しい顔に戻ると、彼女はミルリーヴェの手を振り払った。
「手を離しなさい、なれなれしい! ……あなたがそうやってなれなれしくするから学園の風紀が乱れるのです。今日はそのことを注意しようと呼び出したのです」
「そ、そんなつもりはなかったんです。ただ、必死だったんです……」
「必死だったとはどういうことですか?」
予想外の言葉だったのか、子爵令嬢ディープレシアは訝しげな顔をする。ミルリーヴェは瞳に涙を溜めながら、切々と語り始めた。
「学園に入ったころはすごく怖かったんです。身分の高い高貴な方ばかりの貴族の学園。入学したらどんなことになるんだろうと不安でした。でも心配したようなことはなにも起こりませんでした。平民のわたしに与えられたのは、冷たい静寂と孤独でした……」
そこまで語ると子爵令嬢ディープレシアは視線を落とした。取り巻きたちも気まずそうにしている。
人を無視することは簡単なことだ。だが相手の人となりを知ってしまえば、その罪深さに直面することになる。ミルリーヴェはたった今、泣いて笑って自分を見せた。
子爵令嬢ディープレシアも取り巻きも、もう罪悪感なしにミルリーヴェのことを無視することなどできない。
ミルリーヴェは交友関係を広げる過程で、相手の心をつかむ術を身に着けていた。
そして、彼女の語りは続く。
「そんなとき、優しく声をかけてくださった人がいたんです。嬉しくて、その温かさを失いたくなくて、ひきとめようと思って……ついつい、なれなれしくしてしまいました。それが風紀を乱してしまったと言うのなら、本当にごめんなさい!」
子爵令嬢ディープレシアたちは言葉を返さない。ミルリーヴェの作り上げた雰囲気の呑まれ、共感し、攻め手を失ったようだった。
この機を逃さず、ミルリーヴェは更に畳みかける。
「それに、心配しないください! あなたの婚約者コムプラット様は立派な方です!」
「え!? な、なんでいきなりあの方の話が出るのですか!?」
「コムプラット様はおっしゃってしました。『君とは気軽な友達付き合いに過ぎない。私には美しくて立派な婚約者がいるのだ』と。仲良くしていただいていますが、あの方はただ平民のわたしを気遣ってくださっているだけなんです」
「あの方がそんなことを……」
ミルリーヴェの言葉には脚色がある。子爵子息コムプラットはこう言っていたのだ。
「私にも婚約者がいる。美しい令嬢だがどうにもまじめで堅苦しくて肩が凝る。君とは気軽に付き合えて楽しいよ」
子爵令嬢ディープレシアが文句をつけに来た本当の理由は、婚約者に近づく女をけん制することだ。
だから、その理由を無くしてしまえばいい。婚約者を奪うつもりはない。ただの友達であり、婚約者もそれを認識している。
そうすれば責める理由を失うはずだった。
「コムプラット様がお認めになっているのなら、私から差し出がましい口を挟むべきではありませんね。今日のところはこれ以上は申しません。ただ、あまり男性には不作法な行いは控えるようになさい」
「はい! ディープレシア様みたいな優しい方に注意していただけてよかったです!」
満面の笑顔で謝辞を述べると、子爵令嬢ディープレシアは呆れたような、でもホッとしたような、そんな顔で取り巻きを連れて去っていった。
ミルリーヴェは彼女たちが後者の陰に入り姿が見えなくなるまで見送った。
校舎の壁に背を持たれかかると、ずるずると腰を落とした。
「ああ……緊張したあ……」
ミルリーヴェは上手く敵意をそらしてことを収めた。相手の先を行く実に見事な立ち回りだった。だがその内心は怯えていた。
途中涙目になったのは演技ではない。子爵令嬢ディープレシアには本当に平民を排除するだけの力がある。少しでも言葉を間違え彼女の怒りを買えばどうなってしまうかわからない。
エミスターク伯爵家の子息と無理なく話せる状況を作る――ただそれだけのためにずいぶん多くの貴族を巻き込んでしまった。今では学園でも指折りの人気者になりつつある。想定以上の結果になりつつあった。
今さら引くわけにはいきそうもない。たとえ学園を辞めたとしても何人かは迫って来そうな雰囲気がある。貴族子息たちが牽制しあっている学園の中にいた方が安全とすら言えた。
それに、ミルリーヴェ自身も今さらやめるつもりなかった。場は十分に整った。もう少しでエミスターク伯爵家の子息とつながりができるのだ。
「は、初めまして! 家具屋の娘ミルリーヴェといいます!」
「ああ、話は聞いている。私は伯爵子息マクアフォート・エミスタークだ。よろしく頼む」
放課後の学園内の食堂に設けられたテラスの一席で二人は挨拶を交わした。
伯爵子息マクアフォート・エミスタークは典型的な貴族の子息だった。鮮やかな金の髪に澄んだ蒼の瞳。穏やかな顔つきで、裕福で不自由ない暮らしをしてきたことが伺える。
こうしてまともに話を聞いてもらえるのは、築き上げた友人関係によって話を通してもらったことだ。
ここに至るまで半年かかった。平民が伯爵子息と話せるようになったということだけで言うなら、半年と言うのは驚くべき短さだ。だが一年上の学友に話しかけるのに半年かかったと考えると、随分時間がかかったとも言える。
だが、ようやく待ち望んだ状況が出来上がったのだ。これを逃す手はなかった。
「それで、私になんの用かな?」
「はい! マクアフォート様は土魔法を得意にされていると聞きました! 土魔法に通じることは領主に向いていると聞きました。未来の名領主になるマクアフォート様とは、前々からお話したいと思っていたのです」
土魔法への適性を持つことは土地を収める領主の適性がある。一般的な魔法学の本にはそんなことが書かれている。だがこれはあくまで建前だ。
確かに土魔法が得意ならその土地の性質を知ることができる。だがそれは領主と言うよりは農作業に当たる農民が欲する能力だ。領主となる者が自分の領地の土質をこまごまと調べることなどない。
貴族の社会においては華々しい炎魔法、涼やかな風魔法、清らかな水魔法が好まれる。土魔法は派手さが無く貴族に不人気な傾向がある。それでも四属性がバランスよく存在することは国の安定にも必要なことだ。そのために土魔法は領主に向いている、という褒め言葉がつけられたのだ。
そうしたことをミルリーヴェはよく知っている。だが彼女は、魔法のことを知らないふりをして褒めて距離を詰めた方がいいことを、これまでの交友関係で良く知っていた。
はきはきとした言葉遣い。そして朗らかな笑顔。多くの貴族子息を陥落させてきたその仕草は、しかしマクアフォートには通じなかった。
「土魔法が得意なことは、そんなにいいことでもないんだ……」
彼の顔に暗い影が差した。どうやら彼にとっては土魔法に向いているのは誇るべきことではないらしい。
そう理解すると、ミルリーヴェはすぐさま方針を切り替えた。
「マクアフォート様は立派な方ですね」
「立派……? 何が立派だと言うんだ?」
「学園の皆様は血筋や生まれ持った才能を誇ります。でもマクアフォート様はそれに頼らずご自分の価値を見出そうとしています。平民のわたしには、そうした在り方がとても立派だとおもうんです」
語るミルリーヴェの真摯な言葉を受けて、マクアフォートは目を見開いた。
「そんな風に褒められたのは初めてだな……」
そしてようやく笑みを見せた。
なるほど、こう褒めればいいのか。このわずかな会話の中で、ミルリーヴェは彼の攻略法を見出していた。何人もの貴族子息と交友関係を結んできた彼女は、すっかりそういうことに慣れていたのだ。
ミルリーヴェの当面の目的は、マクアフォートとの仲を深めることだった。
マクアフォート自身にはさほど恨みの気持ちはわかない。彼をひどい目に遭わせて復讐心を満たそうなどと、小さなことを考えてはいない。
父が投獄され得意先をいくつか失ったように、伯爵家にも手痛い損害を与える。それこそが彼女の望む復讐だ。
だが平民の、それも学生の身でそんな大それたことができるとは思っていない。
だから今は伯爵家の情報を得るつもりだ。伯爵家の情報を知れば何か手立ても見つかるかもしれない。マクアフォートはそのための重要な情報源だった。
ミルリーヴェは学園卒業後、商会を立ち上げるつもりでいた。協力してくれるという貴族子息も少なくない。本当に資金を出してくれる者がいるかはわからないが、それでも顔を売っておけば商談に乗ってくれる者もいるかもしれない。
マクアフォートと懇意にしていれば商人としてエミスターク伯爵家と関わることができるかもしれない。金の流れを追っていけば強みも弱みも見えてくる。そうしてつかず離れず情報を集め続ければ、いずれは復讐のチャンスもめぐってくるだろう。
ミルリーヴェはマクアフォートとの交友関係を最優先することにした。
他の貴族子息たちとの友人関係を緩やかに減らしていった。少しずつスキンシップする回数を減らし、話す時間を短くし、会う機会を減らしていった。反発の起きないように慎重に調整していった。
会話を重ねていくと、マクアフォートは次第に心を開いていった。勉強や学園での話だけでなく、伯爵家に関することも話題に上がるようになった。
そうして仲を深めていくと時折突き刺すような視線を感じる。その視線の主は分かっていた。
マクアフォートの婚約者。子爵令嬢エルガナシア・ハイグラードだ。豊かな金色の髪にきらめく瞳の色は緑。隙の無い立ち振る舞い。それでいて優雅さ気品を兼ね備えたその様は、この貴族の学園の中でも際立つ令嬢の見本みたいな令嬢だった。
そんな彼女が時折、令嬢らしからぬ鋭い視線を送ってくるのだ。
それも無理はないことだろう。婚約者の周りをうろちょろする平民の娘。
令嬢には許されない距離の近さ。令嬢ではできない表情の豊かさ。令嬢にはできない砕けた言葉使い。それらを使って婚約者と仲睦まじくしているのだ。面白いはずがない。
これまで得た情報で、二人の婚約関係の重要性はわかっている。マクアフォートのエミスターク伯爵家と、エルガナシアのハイグラード子爵家。二つの家はいくつかの新事業を興すために婚約を結んだ。そのうちの一つは既に始まっているらしい。もし万が一この婚約が破談となれば、両家は大きな損害を被ることになるだろう。婚約の解消はまずあり得ないことだった。
子爵令嬢エルガナシアはこの婚約の重要性を正しく理解している。だからこそ、彼女ほどの令嬢をして鋭い視線を向けるようになるのだろう。
マクアフォートからの情報は有益だが、あまり深入りしすぎては子爵令嬢エルガナシアも黙ってはいないだろう。
もう少し距離を置いた方がいいかもしれない。そんなことを考え始めていた。
「まさか本当に夜会に出席する日が来るとは思いませんでした……」
夜会の会場の控室の一室。姿見を前に、ミルリーヴェはため息を吐いた。
姿見の中には淡い桃色のドレスを纏った少女がいた。淡い桃色のドレスはかわいらしくも上品だ。結いあがられた髪は一糸の乱れすらない。まるで貴族令嬢のように綺麗に飾り立てられたミルリーヴェが姿見の中にいた。
それでも顔立ちは平民であることに変わりない。学園に通い令嬢を見慣れたミルリーヴェには、装いと顔が釣り合っていないように思えて、なんとも居心地の悪い感じがした。
一月ほど前の休日に、マクアフォートに誘われて美術館に行った。その帰り道に連れてこられたのはエミスターク伯爵家の御用達の高級洋裁店だった。
「君にドレスを贈りたい。それを着て次の夜会に出てほしいんだ」
マクアフォートはそう申し出てきた。
ミルリーヴェはこれまで学園の夜会には一度しか出席したことが無かった。貴族に見せられるようなドレスは持っていなかったので制服で行った。学園の制服は正装だから、ちょっと様子見するなら問題ないと思った。
そして後悔した。夜会はあまりにも煌びやかで、壮麗で、優雅だった。平民が制服でいていい場所ではなかった。息をすることすら罪深さを覚えた。早々に退散し、そして二度と出席をすることはなかった。
こんな高級店で仕立てられるドレスなんて、どれほど高価なものかわからない。マクアフォートの申し出を断ろうと考えたが、洋裁店の店員は実に丁寧かつ執拗に生地や服のデザインを勧めてきた。その物腰や所作から店員も貴族かそれに準ずる身分の者と察せられた。貴族を相手するのに慣れたつもりのミルリーヴェだったが、とても断れる空気ではなかった。
ドレスをわざわざ仕立ててもらって、やはり夜会には出席したくないなどと言えるはずはない。夜会の時間が近づくとメイドがやってきて、ドレスの着付けから髪のセットまでやってくれた。色々な意味で逃げ道がふさがれていた。
ミルリーヴェはもう諦めていた。とにかく出よう。そしてやっぱり場違いだったと言って、今後の出席はなるべく勘弁してもらおう。そう決めた。
そんなことを考えていると、控室の扉がノックされた。
「お迎えが来ました」
迎えとは何だろう。疑問を浮かべつつ学園の使用人に促されて進むと、そこには立派な正装に身を包んだマクアフォートがいた。もともと貴族だから顔立ちの整った彼だったが、今日はひときわ立派に見えた。黒を基調に金色の刺繍が施された式服は、彼のスマートなスタイルを際立たせていた。あの金色の輝きは、純度の高い金をつかっているに違いない。どれほど高価なものかミルリーヴェには想像がつかなかった。
「さあ行こう、ミルリーヴェ」
いつもは温和な印象の強いマクアフォートは、今夜は妙に自信に満ち溢れているように見えた。服装が立派だからだろうか。
夜会は一度覗きに行っただけだから、勝手がまるでわからない。ここは彼に従った方がいいだろう。言われるままにマクアフォートについていく。
そして、そのまま会場に入ってしまった。
ここに至ってミルリーヴェはようやく、自分が極めて危険な状況にあることを理解した。
マクアフォートはミルリーヴェをエスコートしているのだ。
夜会へ入場する時は、原則として婚約者をエスコートするものだ。婚約者がいる貴族子息が、血縁者でもない異性を連れて入るなど、大変不作法な行いだ。
周囲から驚きと好奇の視線が注がれるのを感じる。
当然だ。学園内でそれなりの注目を集めながら、夜会には一度しか出席したことのない平民の娘。それが見事なドレスを纏い伯爵子息に連れられて入ってくるなど、それは驚くだろう。興味を引くのも当然だ。
だがマクアフォートはそんな視線をものともせず、実に堂々と会場を歩いていく。彼が何を考えているかわからない。
いや、本当はミルリーヴェも薄々どういうことなのかわかり始めていた。だがそれはあり得ないことだと、理性が否定していた。
逃げ出したくなった。だがマクアフォートのミルリーヴェの手をしっかりと握っている。その力強さから、強引にでも連れて行こうとする意図が感じられた。周囲の空気もそれを許さない。
もしこの場から逃げ出したら、笑いものになる。平民である自分が今の立場を失えばどうなるかわからない。その恐怖が逃走を阻んでいた。彼女はただ手を引かれるままに進むしかなかった。
そしてついに、会場の中央に来た。そこには彼の婚約者、子爵令嬢エルガナシアがいた。
感情の抜け落ちた顔をしていた。ただその緑の瞳だけが爛々と輝きを放っていた。その鋭さは、まるで引き絞られた弓のようだ。視線で射殺される……そんな錯覚を覚えてミルリーヴェは震えた。
マクアフォートは彼女をいたわるように肩を抱いた。そして朗々と宣言した。
「私はこのミルリーヴェとの間に真実の愛を見つけた! 子爵令嬢エルガナシア! 残念だが、君との婚約は破棄させてもらう!」
言った。言ってしまった。演劇でしか耳にしないような決め台詞を実に堂々と言ってしまった。
ミルリーヴェは思わず突っ込みたくなった。確かにマクアフォートから情報を聞き出すために親しくしてきた。しかしキスはおろかハグすらしたことはない。それで勝手に盛り上がり、真実の愛などと言い出すなど思わなかった。
ミルリーヴェはどうしてこうなったのかわからない。だがマクアフォートのこの大胆な行いは、ある意味で必然的なことだったのだ。
ミルリーヴェはこれまで実に慎重に貴族子息たちへと交友関係を広げてきた。うまくいっていた。うまくいきすぎた。多くの貴族子息たちからの注目を集め、平民でありながら学園でも指折りの人気者の立場にまで昇りつめた。
そんなミルリーヴェがマクアフォートと交友を持った途端、他の子息たちの交友を徐々に薄めていった。マクアフォート一人と深い付き合いをするようになった。
学園のみんなから注目される特別な女の子が、自分一人に集中する。それがどれほど男を熱くさせるか。自信を与えるか。調子に乗らせるか。
男と言う生き物は、愛する女にいいところを見せるためだけに、時には強大な龍に命がけで挑んでしまうのなのだ。
マクアフォートはミルリーヴェのことを逃したくなかった。自分だけのものにしたかった。だからこその婚約破棄の宣言だ。夜会で、真実の愛を見つけたと宣言すれば、誰にも手出しできなくなる。
この無謀な婚約破棄の宣言を受け、しかし子爵令嬢エルガナシアは眉一つ動かさなかった。感情を見せない顔で、冷めた瞳で、事務的な口調で。マクアフォートに語りかけた。
「あなたがその娘と懇意にしていたのは知っています。平民とのちょっとした火遊びに目をつむる度量をみせるのも貴族令嬢の務めと甘受しておりました。ですが夜会の場で婚約破棄とのなれば、とても許容することはできません。エミスターク伯爵家とハイグラード子爵家の婚約の重要性を忘れてしまったのですか?」
「君のその気高くも冷たい心持が私には苦痛だった。このかわいらしいミルリーヴェはそんな私を救ってくれた。だからこの人のことを愛してしまったのだ」
「……承知しました。婚約破棄の宣言、謹んでお受けします。それではこれで失礼いたします」
子爵令嬢エルガナシアは深々と頭を下げた。
そして頭を上げると踵を返し会場を去った。その所作は最後まで優雅で完璧だった。
マクアフォートは実に悠然とその姿を見送った。大きなことをやり遂げた男の顔をしていた。
ミルリーヴェは彼のそんな態度が理解できなかった。子爵令嬢エルガナシアの言っている言葉の意味が、本当にわからないのか。
彼女の受け答えに秘めたことを一言でまとめると、「お前を殺す」だ。
両家の婚姻は複数の事業を共同で行うための強固なものだ。しかし貴族は誇りを傷つけられては黙っていられない。
もし子爵令嬢エルガナシアは泣き寝入りしたならば、子爵家は事を大きくしないように動いたかもしれない。婚約は破棄したとしても事業提携は継続する道を模索することはできたかもしれない。
だが彼女は自滅覚悟で報復するつもりだ。関連各所にこの不義理を訴えるに違いない。そうなれば新事業は立ち消えとなり、両家は大きな損害を被ることになる。
結果だけを見ればミルリーヴェが望んだ復讐となるかもしれない。ミルリーヴェの行動によって、伯爵家は大きな損害を受けることになる。問題はミルリーヴェが中心人物になってしまったことだ。報復は彼女にも及ぶだろう。実家の家具工房も影響を受けるかもしれない。自分ばかりか家族まで犠牲にする復讐など望んでいなかった。
子爵令嬢エルガナシアを呼び止めたいという衝動を覚えた。マクアフォートとはそんなに深い仲ではないのだと訴えたかった。
だがそれはできない。そんなことをしたところで、今さら婚約破棄の宣言を無かったことにはできない。マクアフォートを敵に回すことになるだけだ。それはこの最悪の状況を、さらに悪化させることにしかならない。
「大丈夫、君は僕が幸せにするよ」
たった今、最悪の状況に陥れた男は、夢見るように愛を囁いた。
婚約破棄の宣言から一か月が過ぎた。
子爵令嬢エルガナシアはあのまま退学した。
伝え聞く噂によれば、両家の計画していた新事業は全て取りやめになったという。
マクアフォートは伯爵家から責を問われ、学園を退学になった。爵位を失い、家からは追い出され、今は街のどこかで平民として暮らしているらしい。
そして、ミルリーヴェはどうなったかと言えば……ただ自主退学しただけだ。恐れていた報復はなかった。
あの事件のあと、ミルリーヴェは教会の女神官の検査を受けることになった。もしマクアフォートとの間に子供を身ごもっていれば問題は複雑化する。彼とはそんな関係になっていないと訴えた。だが、言葉だけでは信じてもらえなかった。
そして検査の結果、ミルリーヴェの純潔が証明された。
肉体関係すら持っていない平民の娘に熱を上げて婚約破棄を宣言したなど、貴族にとっては大変な恥だ。事を荒立てては自らその恥を宣伝することになった。それに、エミスターク伯爵家もハイグラード子爵家もそれどころではなかった。結局のところ、貴族にとって平民の娘など相手にするに値しない存在だったのだ。
咎が及ばないとは言えあのまま学園にいたら今度こそ取り返しに着かないことに巻き込まれるかもしれない。だからミルリーヴェは自主退学を申し出た。学園は特に何も言わずにそれを受理した。
実家に帰ると両親に事情を話した。復讐の企みについては話せなかった。ただ学園で婚約破棄の騒動に巻き込まれて学園をやめることになった伝えた。
両親は無事に帰ってきてよかったと泣いた。ひどく申し訳ない気持ちになった。
結果だけを見れば復讐はなされた。あの婚約破棄によって伯爵家は新事業の立ち上げに失敗して大きな損失を被ることになった。伯爵家を継ぐはずだったマクアフォートは爵位を失い平民に落ちた。
その原因が何かと言えば、ミルリーヴェがマクアフォートと交流したためである。復讐のための行為が大きな成果を生み出した。
しかし、復讐に成功したという実感はまるでなかった。復讐の前準備の段階で、相手が勝手に自滅しただけだ。
これまでずっと、貴族の学園に入るために努力してきた。入学してからは人間関係の構築に知恵を巡らせ労力を費やした。
それらは全て不要なものとなった。商人になるという夢はまだ残っているが、どうにもとりかかる気にはならなかった。
それからしばらくの間は、これといった行動を起こさなかった。入学前と同じように家具工房の手伝いをした。
一時は存続も危ぶまれていた。だがもともと貴族に認められるほど質の高い家具を作り出しているのだ。規模の縮小はあったものの、今ではすっかり経営を立て直していた。
学園の入学前は必死になっていて気付かなかった。あまりにも穏やかだった。
学園では人気があった。退学しても追いかけてこられるのではないかと思った。だが今のところ、そうしたことは無かった。騒動に巻き込まれたくないのかもしれない。あるいはあの人気も一時的なものに過ぎず、平民の娘にそれだけの価値はなかったというだけのことかもしれない。
学園での日々は、夢だったのかもしれない。そんなことを思ってしまうほどに、遠く感じられた。
そんなある日の事。家具を買いに来たお客から妙な噂話を聞いた。なんでも元貴族の青年が、街の酒場に毎晩のように入り浸っていると言う。鮮やかな金髪に蒼い瞳の青年だという。その特徴に思い当たるものがあり、噂の出所について調べてみた。街にはいくつも酒場があるが、すぐにその青年の所在は分かった。
ある夜、思い切ってその酒場に行ってみた。そして、見つけた。
ぐでんぐでんに酔っぱらい、それでも酒をちびちび舐める、哀れな青年。”元”伯爵子息のマクアフォートだった。
「お久しぶりです、マクアフォート様」
「ミ、ミルリーヴェ……!」
気まずげに目をそらした。その頬に生えている無精ひげが目についた。学園では無精ひげを生やした子息など見たことはない。貴族の青年は髭が生えないのかと思っていた。当たり前のことだが、そんなはずがなかった。
ミルリーヴェは彼と同じテーブルに着くと、軽食を注文した。そしてマクアフォートに事情を尋ねた。
マクアフォートはあの後、伯爵家に呼び戻された。彼はミルリーヴェとの愛を訴えたが、伯爵家はそんな戯言を聞く余裕などなかった。
彼の婚約者エルガナシアは泣き寝入りなどせず、徹底的な抵抗を見せた。関係する貴族の各家に理不尽に婚約破棄を告げられたことを訴えた。それは子爵家の恥を晒すことになる。だが両家の亀裂は決定的なものとなる。
両家合同の新事業のもはや不可能となった。婚約破棄で決別した両家が裏では手を握ったままなど許されない状況になってしまった。子爵令嬢エルガナシアは自滅覚悟で伯爵家に打撃を与えたのである。
ミルリーヴェは自分の中で復讐の実感が湧かない理由がようやくわかった。確かに原因を作ったのはミルリーヴェだった。だが結局のところ、復讐を成し遂げたのは子爵令嬢エルガナシアだったのだ。
そこまではある程度予想していたことだし、噂話で知っていたことだった。だがその先は少々違った。
エミスターク伯爵家は家に重大な損害を与えた息子をそのままにしておけなかった。厳罰に処さなければ周囲に示しがつかなかった。
だからマクアフォートは爵位を奪われ平民に落ちることとなった。
だが両親は彼のことを愛していた。平民になっても暮らしていけるよう家を用意した。彼は今、そこで暮らしている。家には使用人がいて、月々の生活費すらもらっているという。
「はあ……」
事情を聴いたミルリーヴェは呆れのこもったため息を漏らした。
マクアフォートは悲し気に顔を伏せた。
「君が失望するのも無理はない。私はもう貴族ではない……こんな有様では君を迎えることもできない……私はもう、ダメなんだ……」
悲嘆に暮れるマクアフォートの姿にミルリーヴェはカッとなった。
席から立ち上がると、勢いに任せて叫んだ。
「そんなことで呆れたんじゃありません! なにが落ちぶれたですか! 住む家を用意され、生活費すらもらっている! こうして毎晩のように飲んだくれる余裕がある! あなたは勝手に落ちぶれた気分になっているだけです!」
ミルリーヴェをあきれさせたのは、衣食住が揃っていながら、自分からなにも始めようとしない怠惰さだった。
長年かけて築き上げた工房を失うかもしれなかった父のつらさを思えば、マクアフォートの現状はあまりにも生ぬるかった。
だがマクアフォートは首を横に振る。
「君は分かっていない……爵位を失うということは、貴族にとっては死を宣告されるに等しいことなんだ。今の僕は死人も同然なんだ……」
「お酒を飲んで、ご飯を食べて、それのどこが死人ですか! 確かに伯爵子息マクアフォートは死んだかもしれません! でも平民マクアフォートは今、生きています! そのことを受け入れてください!」
「そういうことじゃない……そういうことじゃないんだ……」
マクアフォートの煮え切らない態度にはいい加減ウンザリだった。
ミルリーヴェは席に着くと、静かに問いかけた。
「あなたはあの夜、真実の愛を見つけたと言いました。真実の愛とやらは、この程度のことで失われてしまうものなのですか?」
それにはマクアフォートも何も言い返せなかった。彼は学生時時代の最後の美しい思い出に縋っているのだ。
まったく情けないと思った。
エミスターク伯爵家に復讐したいと思っていた。伯爵家の人間がひどい目に遭えばいいと思っていた。
それなのに、マクアフォートの情けない姿を見てもまるですっきりしない。
きっと自分のやりたかった復讐はこういうことでなかったのだ。
ならばどうすれば復讐したことになるのだろう? マクアフォートの俯く姿を見ながら考える。
きっと自分は誰かを不幸にしたいんじゃない。辛いことは会ったけど、こんなに幸せになりました……そう言って、伯爵家を見返してやりたかったんだ。
そう考えると、やるべきことが見えてきた。目の前のマクアフォートの利用法を思いついた。
「わたしとの間に真実の愛を見つけたと言うのなら、仕事を手伝ってください」
「仕事だって……」
「ええそうです。わたしは商人になるのが夢だったんです。真実の愛の相手のお願いなんですから、もちろん手伝ってくださいますよね?」
ミルリーヴェは首に縄をつけてでも連れて行くつもりだった。
マクアフォートは目を白黒させながら、それでもはっきりとうなずいた。
ミルリーヴェはマクアフォートと共に商会を立ち上げた。二人だけの小さな商会には、他にはない強みがあった。
それは伯爵家の後ろ盾があるということである。
マクアフォートは爵位を失った。しかし未だ伯爵家から援助を受けている。これは周囲から見れば、まだマクアフォートが伯爵家とつながりがあるように見える。そんな彼が商会を立ち上げたのだから、商売人なら何かがあると思うことだろう。
その先入観を利用した。伯爵家とつながっていると思えば、無茶な要求をすることは難しい。商会の立ち上がりは詐欺にあうことも少なくないが、その危険を避けることができた。できたばかりの商会としては、有利に商談を進めることができた。
立ち上げたばかりの商会は膨大な量の雑務がある。様々な手続きに伝票の処理、収支計算など事務作業が山積みだ。
ミルリーヴェはそれらの仕事を精力的にこなした。そしてマクアフォートにも仕事を投げて馬車馬のように働かせた。もともと伯爵家の子息として高度な教育を受けてきた彼は、能力的には優秀だった。
最初は頼りなかったが、限界ギリギリの作業を割り振り続けたら、それなりに仕事をこなせるようになった。
暗い顔も見せなくなった。彼が落ちぶれたのは貴族と言う立場を失ったからだ。仕事を与え商会の職員という肩書を与えるのが彼にとっての特効薬だった。
そうしてある程度地盤が固まったところで貴族相手の商売を始めた。流通量は少ないが利益の大きい芸術品や魔道具を扱うようになった。
その売り込みにあたっては、マクアフォートを活用した。かつての伯爵子息が、爵位の低い子爵や男爵にぺこぺこと頭を下げる。その様は客受けが良かった。平民に落ちたことを再認識させられて、マクアフォートはつらそうにしていた。ミルリーヴェはもともと復讐として彼を使い潰すつもりだったので、その辺は気にしなかった。
やがて慣れたのか、マクアフォート自身も貴族の自尊心をくすぐる術を心得るようになってきた。元貴族子息なのに、意外と強かな男だった。
そして貴族相手の商売がある程度確立した頃。満を持して父の工房の家具を売り出した。エミスターク伯爵家にブランドを傷つけられたとはいえ、元々の品質は高いのだ。商会で築き上げた実績もあり、少しずつ貴族相手にも売れるようになってきた。
これこそがミルリーヴェが望んでいたことだ。
伯爵家を利用して商会を立ち上げ、貴族相手の商売を始める。父の家具を貴族に売って、失ったはずの未来を取り戻す。それこそが、彼女がやりたかった本当にやりたかった復讐だったのだ。
「マクアフォート、今度の休日を空けておいてくれませんか? 両親が会いたいと言うんです」
商会を立ち上げて5年ほど経った。商会の構成員も増えて、事務所も大きなものになった。
夜もすっかり更けてしまった頃。事務所には二人しかいない。そこでミルリーヴェは商談用のテーブルにマクアフォートを呼びつけ、前々から聞いていた両親からの誘いについて切り出した。
マクアフォートと商会を立ち上げたことは最初の頃に両親に説明した。伯爵家とつながりのある者といっしょに仕事をすることを、両親は心配していた。だがミルリーヴェは逆にそれを利用すると説明し、そして実際に商会を発展させることに成功した。
以前から、両親たちは一度マクアフォートときちんと話したいと言っていた。これまでは仕事の忙しさを理由に先延ばしにしてきた。まだまだやることはいくらでもあるが、立ち上げ当初に比べればだいぶ安定した。そろそろちゃんと紹介すべき時期だろう。
最初の頃はつらそうにしていたマクアフォートだったが、今ではすっかり精力的に働いている。今や立派な商会の幹部だった。どれだけきつい仕事を任せても期待以上の成果を上げてしまうので、最近はなんだか張り合いがない。
そんな彼が久しぶりに暗い顔を見せた。
「ご両親とお会いするということはカラフテスさんですよね……?」
「ええ、当然そうですよ」
商会で父の家具を扱っているのだから、その名前を知っているのも当然だ。だがそんなに暗い顔をする理由がわからない。
伯爵家は父に罪をかぶせ投獄した。元伯爵家の人間として、そのことが後ろめたいのだろうか。
「実は、私には謝らなければならないことがあるんです。以前、カラフテスさんが投獄されたのは、私のイタズラのせいなんです」
そうしてマクアフォートは、かつての罪について告白した。
マクアフォートは土魔法の適性があり、幼い頃から土魔法の扱いが得意だった。土魔法は子供落とし穴を仕掛けるとか、秘密基地を作るとか、そう言った子供の遊びにもってこいの属性だった。
ある日、マクアフォートはちょっとしたいたずらを仕掛けた。庭に置かれた椅子の下に、土魔法でちょっとした細工をした。人が座ると椅子が少し沈んで驚かせるという、他愛のないイタズラだった。
だが折り悪く、その日訪れてきたのは敵対派閥の貴族だった。派閥間の交渉のために伯爵家にやって来たのだ。
その貴族はよりにもよってマクアフォートがいたずらを仕掛けた椅子に座ってしまった。もし座ったのが父なら子供のイタズラと笑ってすますこともできたかもしれない。
だが敵対派閥の貴族にはそんな理屈は通用しない。理由はどうあれ、家の者が意図的にわなを仕掛けたとなれば、両派閥の関係はこじれることだろう。
「この椅子が壊れていた! 椅子を作った職人が悪い!」
父は息子を守るため、強引に椅子が壊れていたことにした。敵対派閥の貴族もその言い訳を受け入れた。その貴族としても、事を荒立てるわけにはいかなかったのである。
そうして家具職人カラフテスは、無実の罪を着せられて半年間投獄されたのだ。
「……なぜ今になってそんなことを話すんですか?」
「ご両親のことを知ったのは、商会で家具を扱うようになったころです。罪を告白しなくてはならないとおもっていました。でも商会の仕事が忙しくて、今抜けるわけにはいかない……そうやって先の場するうちに、ついにご両親と会う話が出ました。もう逃げられないと思ったんです……」
「そうですか……」
婚約破棄で伯爵家は損害を受けた。その後、伯爵家とのつながりを利用して商会を発展させ、父の家具を再び貴族相手に売ることができるようになった。
それで復讐は終わったと思っていた。そんなときに、まさか父が冤罪だったことが確定し、その原因となったマクアフォートが自らの罪を告白するとは思わなかった。
「私のせいで、あなたも、あなたの家族も、大変な苦労をしたと思います。私のことは、首にするなり何でも、好きにしてください」
マクアフォートはそう言ってうなだれた。
ミルリーヴェは考えた。復讐は終わった。だがその原因が現れた。罪には罰を与えなくてはならない。
彼にはどんな罰を与えるべきだろう。少し考えたら、すぐに決まった。
「マクアフォート! 歯を食いしばってください!」
「!」
マクアフォートが歯を食いしばったのを確認すると、ミルリーヴェは大きく振りかぶった。そして彼の頬を力いっぱい叩いた。叩いた方の手が痛くなるくらいの痛烈な平手打ちだった。
マクアフォートの頬に真っ赤な手形がついた。
だが彼はそれでも真剣な顔を崩さなかった。
「一発でいいんですか? 気のすむまでぶってください。私の罪は、この程度で許されるものではないはずです」
「一発で十分なんですよ。あなたの罪は子供のイタズラ。子供のしつけには平手打ち一発でいいんです」
そう言うと、ミルリーヴェは席に着いた。
「わたしもあなたに罪の告白をしなければなりません」
そしてミルリーヴェはこれまでしてきたことを語って聞かせた。
エミスターク伯爵家に復讐するために学園に入学したこと。
伯爵子息に話をするために交友関係を広げたこと。
その結果、婚約破棄が宣言されたこと。
落ちぶれたマクアフォートを見て、復讐のために利用すると決めたこと。
全てを話した。
「あなたがしたことは所詮はイタズラです。わたしのしたことは、その報復としてはやりすぎでした。愛想が尽きたなら、商社を辞めてもかまいません。退職金はきちんと払います」
マクアフォートは首を横に振った。
「そんなことできません。貴族の地位を失ったのは、わたしが恋の熱に任せて無謀なことをしたからです。今なら自業自得だとわかっています……」
そこまでいうとマクアフォートはボロボロと涙を流し始めた。
「な、なんで泣くんですか? え? ちょっと強くたたきすぎましたか!?」
「あなたは……わたしのことを憎い伯爵家の人間だと知っていながら私に仕事をくれた……生きる意味を与えてくれた……なんて素晴らしい人なんだ……!」
「え、いや、ちょっと待ってください。ちゃんと話を聞いていましたか? あなたのことは利用しただけ! 使い潰すつもりで雇い入れたんですよ?」
「それでも私は救われた……救われたんです……!」
マクアフォートは席を立つと跪いた。
そしてそっとミルリーヴェの手を取ると、彼女の顔を見つめて告げた。
「あなたのことを愛しています。どうか私と結婚してください」
貴族の学園に通っていたミルリーヴェは知っている。この所作は、上位貴族に対して正式に結婚を申し込む時のものだ。
それは真摯な愛の告白だった。
ミルリーヴェはぽかんと口を開けた。あまりに予想外すぎて理解が追いつけなかった。
「あの時見つけたと思った真実の愛は偽りでした。でも、あなたとの5年間は貴族だった頃が色あせるくらいに充実していました。偽りの愛を、今度こそ真実の愛にしてみせます。どうか一生、隣にいさせてください」
彼は熱を込めて語った。5年前の婚約破棄の宣言のように熱に浮かされた感じはなかった。
そのまなざしには尊敬の念と深い愛情が感じられた。
学園にいたころは何人もの貴族子息を相手取った。退学してからは仕事で色々な相手と交渉をかわした。
だがこんなにも真剣に愛を告げられたのは初めての事だった。
「わーっ!」
なんだかこらえきれなくてミルリーヴェは叫び声を上げてマクアフォートの手を振り払った。
正式な結婚の申し込みに対してあまり礼儀に外れた行いだが、彼女にはそんなことを気遣う余裕すらなかった。
「父が冤罪だったとわかって、復讐の相手があなただとわかってひっぱたいて……それが結婚を申し込んできたりして……! 今日も仕事が忙しかったんですよ! 疲れてるんですよ! いくらなんでも頭が追いつきません! この案件は後日改めて回答させていただきます! 今日のところはお帰り下さいっ!」
混乱のあまり仕事の時の言葉遣いが混じったおかしなことを口走ってしまった。
だがマクアフォートはそれで気を悪くした様子もなく、深々と頷いた。
「承知しました。急がなくてかまいません。いつまでも返事をお待ちしています」
優雅に一礼すると、マクアフォートは事務所から去っていった。
なんだかすがすがしい顔していたのが微妙にイラっとした。マクアフォートは言いたいことを言ってすっきりしたご様子だが、ミルリーヴェはこれから考えを整理しなくてはならないのだ。とんだ残業である。
そうして一人になって考えた。マクアフォートは自分にとってどういう人間だろう。
子供のイタズラとは言え、父が投獄される原因を作った男だ。そんな人と結婚なんてありえない。
でも復讐は彼女の中ではすっかり消化し終えてしまった。さっきの平手打ちですっきりしたし、これ以上恨んだりするのは違う気がする。
学園では復讐のための情報源として近づいた。恋に浮かされて婚約破棄の宣言をしてしまうようなバカな男だ。
退学してからは仕事でこき使った。最初は頼りなかったが、今では信頼できる同僚だ。途中で潰れるかとも思っていたのに、意外としぶとい男だ。
元伯爵子息だけあって顔立ちは整っている。それなのに浮いた話が無いのは、ミルリーヴェと付き合っていると思われているらしい。自分に男が寄ってこないのも、思えばマクアフォートがずっと近くにいるせいかもしれない。なんてことだ。
ミルリーヴェは結婚後も仕事を続けたいと思っている。マクアフォートなら反対することもないだろう。ずっと一緒に仕事をしてきたのだ。仕事を理解してくれる伴侶と言うのはなかなか得難いものだ。
それら諸々のことを考えると……マクアフォートは理想的な結婚相手と言える。
「……あれ?」
おかしな結論にたどり着いてしまった。やはり疲れているのだろう。頭が回っていない。一度家に帰って睡眠をとるべきだ。明日になればもう少し考えも整理がつくことだろう。
でも今夜はすぐには眠れないかもしれない。だってさっきから胸が高鳴って仕方がない。
ミルリーヴェはすっかり混乱していた。だがそれも仕方のないことだった。
学生時代、ミルリーヴェは多くの貴族子息を相手にしてきた。しかしまともな恋愛は、これが初めてなのである。
終わり
平民の娘が貴族の学園で上位貴族の子息を攻略する話を書こうと思いました。
ヒロインが平民ということで、その立場を生かすためにちょっと身分差を強めにしました。
そうしたらお話が進まなくなりました。
色々考えた結果、恋愛ものによく出てくる「礼儀を知らずで愛嬌だけで貴族子息を落とす平民の娘」の小悪魔チックな動きをさせたらなんとかなりました。
やはり広く使われる設定はよくできています。そんなことを改めて思いました。
2024/12/22、2025/1/12
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!