1-04「海瀬音葉はヒーローの夢を見る(4)」
突然上半身裸になった彗に音葉は冷ややかな視線を送りながら「一応、女子がここにいるんだけどなぁ」と呟きながら、粗雑に脱ぎ棄てられたアンダーシャツを拾う。
汗が付かないように裾の方を持ったが、そこまでビショビショに濡れている。まだ寒さの残る四月の早朝に、どれだけ辛い練習をすればここまで汗が出るのだろうかと疑問に思うも、彼があの怪物であるならばありえない話ではないという結論に至った。
改めて音葉は居直って「あなたが野球部に入らない理由を聞きに来た」と、真っすぐに彗を見ながら言葉を投げつけてくる。
「あーその話ね」
誰かからは聞かれるだろうと思っていた質問。まさかここで名前も知らない女子に聞かれるとは、と笑いながら彗は「そんな大層なことじゃねーよ」と、他人事でも話すかのように耳に小指を突っ込んでほじりながら言う。
その様子にイラっと来たのか、音葉は眉間にしわを寄せて「怪我もしてないし、病気でもない。やる気がないのかと思ったら、練習してるんだもん。意味が分かんないよ」とまくしたてた。
「ま、確かにそう見えるわな」
「どうしてなの?」
「まーあれだ、いろいろな」
「そのいろいろを聞きに来たんだけど……」
「人に言いたくないこともあんの」
返事もそこそこに彗は学校指定のブレザーに着替えて自転車に跨ると「じゃ」と言い残して、逃げるようにその場を後にする。
背後から「ちょ、ちょっと待ってよ!」と叫ぶ音葉を遠ざけるように、自転車のペダルを目一杯漕いだ。
早朝特有の爽やかな風が、汗で湿った肌に絡みつく。
時間はまだ朝の七時半を回ったところ。
健康のためなのか早く起きて時間を持て余しているのかはわからないが、年を召したご老人が何名かジョギングをしている。
ある程度自転車を進めたところで少し振り返ってみると、もう音葉が追ってくる様子はない。
少しスピードを落として道行く人に軽い会釈をして雑に愛想を振りまきながら、先ほどのクラスメイトのことを思い返してみた。
――同じクラスメイトってだけなのに、なんであそこまで拘るんだアイツ。
まだ顔を合わせて一日。それも自己紹介を済ませただけで直接話したわけでもなく、名前を知っている程度の関係に過ぎないはず。
――どっかで会ってるとか? それか、誰かの親戚とか……?
「悩んでてもしょうがねーか」
時間がもったいない、と彗は次なる特訓場所を探した。
――誰も知らない、隠れ家みたいな。どこかそんな場所ねーかな。
幸いにして、始業まで時間はまだまだある。今日は場所探しだな、と彗はまた自転車を漕ぐ足に力を込めた。
※
また、謎が深まった。
野球はやっている、けれど野球部に入るそぶりはなさそう。
野球部に入らず野球をする――硬式のクラブチームや独立リーグなどからプロを目指す選手は極僅かながら存在する。
ただ、そういった存在は極めて珍しく、マスコミが取り上げられることも多い。ましてや、去年の世界大会で世間をにぎわせた〝怪物〟がそのような決断をしたとあれば、すぐに記事になるはず。
――無いなぁ。
授業もそっちのけで記事を検索するも、そういった記事は見つからず。見つかったのは、〝怪物はどこの高校へ?〟というタイトルの憶測記事だけ。
「うーん……」
授業が終わっても顔の晴れない音葉に、業を煮やした真奈美が「どうしたの? そんな眉間にしわ寄せちゃって」と声をかけた。
「えーと、考え事」
「音葉っていっつも考えてるね」
「ごめんごめん」
「ま、いいけどさ。ところでさ、昨日は何してたの?」
「野球部見に行ってた」
「あ、そうなんだ。もう入部届とか出した?」
「いや、まだ……」
「決めてるのに何で出さないの?」
「ちょっと気になることがあって」
「野球のこと?」
「そっ」
「ふぅん」
先日の下校中、野球は嫌いだと話していた真奈美だったが、やはりこの手の話題には興味が無いようで「私もさ、昨日また将棋部行ってみたんだけどー」と自分の話題に話を切り替えた。
「あ、そうなんだ。武山くんいた?」
「それがさ、昨日は来なくって。まだ決めてないのかなぁ」
「どうなんだろうね。まだ仮入部期間だし、もしかしたら野球部も考えてるのかも」
「あ、それはないと思うよ」
「え、なんで?」
「一番嫌いなスポーツが野球なんだってさ。初めて会ったとき言ってた」
「え、それホント?」
「うん。もう見たくもないって」
「わけわかんない……」
才能を持っているのに、力を持っているのに。
野球ができるのに、野球をしない。
そのことにただただ腹が立った音葉は、ある決意を固めた。
――何が何でも、あの二人に野球をやらせてやる!
自身がマネージャーとして甲子園に行きたい、という思いもある。
ただ、それ以上に彼らには野球をしてもらいたい。
グラウンドで輝く二人を見たい。
一人の野球人として、《《女だからと甲子園を諦めた野球小僧として》》の思いだった。
その一心で、手元のオレンジジュースを力強く握りしめる。
「音葉、ジュース零れてるよ」
「……あっ」