1-36「それは無慈悲な高校野球の洗礼(2)」
動揺するなと自らの心に言い聞かせても、一度火が付いた苛立ちの炎が鎮まってくれる様子はない。
「くっそ……!」
彗がマウンドの砂を蹴り上げると、一星が「空野!」と、両手を大げさに上下させて〝落ち着いて〟とジェスチャーを送ってくれるが「わかってるよ!」と言葉を飛ばしてホームに背を向けた。
プレートの奥に設置されているロジンバッドを手に取り、ポンポンとお手玉をして右手に滑り止めの粉を塗す。
「こー言うことだろ」
ロジンを投げ捨て一星を見ると、うんうんと大きく頷いていた。
焦らないで、間を取って落ち着こう――差し詰めそんなところだろう。事実、浮足立っていた守備陣も少し落ち着いたようで、遠目にでもリラックスしているのが見て取れた。
「さ、しまっていこう!」
野手陣にも聞こえるくらいの大きな声を出し、一星は外野陣と内野陣にサインを出す。
守備陣形は、外野も内野前進守備。一点もやらないという意思表示だ。
「ずいぶんと強気だな」
口の中で呟きながらセットポジションに入って一星のサインを見る。
「もう……打たれねぇ!」
サイン通りストレートを内角高めに投じる――が、無情にも一星の要求通りに投げ込んだストレートは捉えられ、ショートに入っていた雄介を襲った。
「うわっ⁉」
グローブに当てただけで捕れず、ボールは雄介の前を転々と転がる。
「ショート、ホーム間に合う!」
彗の声に反応した雄介は、ボールを何とか取ってホームに投げるも、とっくに三塁ランナーはホームに達していた。
「くそっ!」
一星はボールを一塁に送るも、既にベースを駆け抜けておりセーフ。
結果、先制を許した上に一塁ランナーを残すという最悪の結果となった。
そこからは酷いもので、三番四番と連続でヒットを打たれて失点を重ねるも、後続を何とか抑え、長い長い守備の時間を終えた。
初回の失点は三。投げた球数二十七球と、通常よりも倍の疲労感だ。
ベンチの雰囲気は案の定最悪。
「かぁーっ、ここまで打たれると気持ちいいな!」
雰囲気を変えるべく彗が言葉を飛ばすも、呼応した選手はいない。一星は一番バッターとして打席に立ち、練習にも参加し馴染みつつあった頼みの綱である雄介は生憎の二番バッターとしてベンチを出て、ホームから少し離れたネクストバッターズサークルで待機している。
結果的に彗一人だけの盛り上げ。
それで空気が変わるはずもなく、淀んだままの空気の中で「ったく……くそつまんねぇ一年どもだな」と金髪をした生徒が呟いた。
一年生の希望者が足らず、人数合わせで唯一の二年生から参加している榎下嵐だ。
「え?」
誰かが呟くと「これだけやられて悔しくねーのかって言ってんだよ」と苛立ちながら嵐は罵声に近い声で怒鳴る。
「お前、名前は?」
「お、織部賢吾です」
「織部、お前さ、このバッテリーが打たれて〝ざまあみろ〟って思ってるだろ」
眼が隠れそうなくらい伸びた前髪を弄りながら賢吾は「いそんなこと……ないですよ」と狼狽えた。
「最初のもたつきもわざとだろ? たらたらやりやがって……練習じゃもっと機敏に動いてたの知ってるぞ」
嵐の言葉は的確。心の中を読まれた賢吾は「い、いや……」と言葉尻を濁すのが精一杯。視線を逸らすと、嵐は大きなため息をつきながら
「お前らもだ! 仮にも志願してこの試合に参加しているんだから、もっとベストを尽くせ! 正直、こんな意識じゃお前ら二軍にすら行けねーぞ!」
ここまで嵐が言ったところで、きんっと金属音が遠くで響く。
一星の高校生として初ヒット。誰にもわからないくらいの小さいガッツポーズをしていた。
今日、三番として出場している彗は、ネクストバッターボックスに向かおうとすると「おい、怪物」と嵐に呼び止められる。
「なんすか」
「お前もお前だ。あれだけ啖呵を切っておきながらなんだあのへなちょこピッチングは」
「スイッチがまだ入ってなかったんですよ」
「じゃあさっさと入れろ。もう一点も取られるな。逆転できなくなる」
「もちろん。ようやく肩も温まってきたところなんで」
「上等だ。ついでに塁にも出とけ」
「ホームランお願いしますよ。走塁苦手なんで」
上級生に吐き捨てるように言うと、彗はネクストバッターズサークルへ向かった。
「一年は生意気なやつか腑抜けしかいねーのか」
呆れながら笑う嵐に恐る恐る織部が「あの、勝つつもりなんですか?」問いかけると「たりめーだ。負けるとか気分悪い」と嵐は応える。
決して冗談ではない、至って真剣な目で嵐はグラウンドを見つめていた。
「な、なんでですか? 榎下先輩はレギュラーだし、関係ないじゃないですか……それに、力量を測るだけなんだからなおさら勝敗なんて意味ないじゃないですか」