1-33「ずっとマウンドで生きてきた(3)」
「おーおー、悪かったなぁ、ホームレスみたいなセンコーでよ」
急に頭の上から声が降り注ぎ、一星は体をびくりと震わせた。
つい先ほどまでは笑顔だった三人の友人たちが、ひきつった顔で一星の頭上を見上げている。
「あ……」
時、すでに遅し。
彼らが向けている視線の先に目をやると、一星は言葉を失った。
「いやー、噂の天才クンは一味違うねぁ。入部初日から監督をディスるとは。恐れ入った」
蓄えた無精ひげをじょりじょりと触りながら笑うのは、噂の人物、真田和幸だった。
降格は上がっていて、縮れた長髪から覗ける表情は、至って穏やかそのものだった。いや、穏やかすぎるともいうべきだろうか。一切の感情が見えてこず、逆に一星の不安は煽られる。
たった数秒の静寂の後、一星はガッと立ち上がり「お、お疲れ様です! 監督!」と腹の底から声を出して頭を下げた。一星の耳に、ゴクリと生唾を飲む三人の音が背後から届く。
その様子を見た真田は「なんだなんだおい!」と震える一星の頭に手を置いて「ジョーダンだよジョーダン。そんな身構えるなって」となだめた。
「……すみません」
「まああれだ……〝Out of the mouth comes evil .〟ってな。気を付けろよ」
最後の最後に教師らしい言葉を残して、真田は踵を返す。
高笑いをしながら去っていく真田を見送ると「どういう意味だっけ?」と真奈美が呟いた。
「Out of the mouth comes evil……訳は〝口は禍の元〟だ」と彗が答えると「へぇ……勉強になった」と真奈美は呟く。
肝を冷やした昼下がり。
監督の襲撃があってから四人は、ただひたすら無言で昼食をとった。
※
廊下を歩く真田は、先ほど見せた一星の動揺を思い出しながら「あれだけ顔に出るようじゃキャッチャーとしちゃまだまだだな」と笑った。
新戦力二人を確保でき、軽い足取りのまま購買へ向かう。
食堂横にある購買には、毎日手作りのパンが並べられ、毎日生徒でごった返しているが、今日は四人分の入部届を受け取ったという時間のハンデもあり、いつものラッシュは影を潜めていた。
「おぉう……」
ただ、人だかりが無いということは、めぼしいパンもないという意味と同義。案の定、いつもは充実しているクリアケースの中は空っぽのトレーで埋め尽くされていた。
今日の昼は食堂だな、と肩を落としていた真田に「あ、いつもありがとうございます、真田先生」と、奥の方で作業していた購買パンの店員、槌本咲良が、頬に小麦の粉を携えながら声をかけた。
「あ、すみません。物乞いみたいな感じでした?」
「物乞いだなんてそんな……ま、物欲しそうな顔はしてましたが。その様子だと、お昼はまだですか?」
「えぇ、ちょっと野暮用が入ってしまいまして……無念です」
「はは、そこまで楽しみにしていただけると、こっち側としても作り甲斐ありますよ」と言いながら咲良は微笑むと、一つのパンを真田に差し出した。
「これ、よかったらどうぞ」
「え、良いんですか?」
「はい、形が上手く行かなかった失敗作なんで、サービスです」
「じゃ、お言葉に甘えて」
財布を取り出して五百円を置こうとした真田を「あ、お題はいいですよ」と咲良は釣銭トレーを取る。
「いやぁ、そんなわけにもいかないですよ」
「いいんですよ。その代わり、春季大会で絶対シード権獲得してくださいよ?」
無性の高校野球ファンである咲良は、腕を捲りながら真田に詰め寄った。
「ま、楽しみにしといてくださいよ」
「自信ありげですね」
「正直手応えありますよ。まあ、見といてください」
「凄い! 期待しちゃうなぁ。いい一年生とかも入ってきたんですか?」
「んー……ま、それは内緒ってことで」
含みを持たせて、クールな男を演じたつもりの真田はその場を後にした。
※
「……アレで監督はかっこつけているつもりなのか」
「そうなんじゃない? ほら、凄いキメ顔で歩いてる」
食堂で食事を済ませた宗次郎と新太は、購買から少し離れたところで一部始終を見守っていた。
いい意味でも悪い意味でも、生徒と距離の近い真田。野球の練習や試合の采配ではカリスマのような姿を見せる一方で、ずぼらな服装にぼさぼさの頭、整っていない無精髭からもわかるように私生活はボロボロ。
そんな真田監督が、あのパン屋の店員を落とせるかどうか、という賭けが野球部の中で密かに流行っていた。宗次郎は付き合えない派、新太は付き合える派。別に賭けに勝ったからといって特別な何かがあるわけではないが、行く末は気になる。
「俺たちがいる間に決着が付けばいいが……」と宗次郎が懸念を口に出すと「まーたそんなくだらない事やってんの、アンタ等」と、二人の頭を一人の女子生徒が引っ叩いた。




