2-31「もしもの話。(6)」
一瞬だけ、空気がピりつく。監督室で蔓延る緊張感に充てられた彗はごくりと唾を飲み込み込む。
冷や汗がそろそろ顔を出しそうだというところで、ジッ、と矢沢がタバコの火を消す音が沈黙を破った。
「な、空野よ」
「は、はい」
「これから話すことは、あくまで〝もしも〟の話だ」
不穏な前置きをすると、矢沢は再びタバコに火を付け「舞台は大阪。春の甲子園の出場が確実視されてた、とある高校の話だ」と静かに話し始める。
「その学校にはよ、全国各地から有力な選手が集まっててな。甲子園に〝行く〟ことよりも〝結果を出す〟ことの方が重要視されている前な高校だった」
「名門校ってやつっすか」
「まあ、一般的にはそうだな。甲子園に出るのは当たり前、どれくらい結果を残せるか――そればかり考えていたコーチがある日、部室に入ると、決してそこには存在してはいけない〝あるモノ〟を見つけちまったんだ」
「ある、モノ?」
「あぁ。コレだよ」と、矢沢は左手で持っていたタバコを少しだけ掲げる。
「……タバコ、ですか」
「そうだ。いくら実力があったって、いくら印象が良くったって、こいつをふかしてる時点でアウト。いくらもみ消そうって奔走してもよ、情報社会な現代じゃ一人一人の目が監視カメラみたいなもんだ。必ず、表に出る」
「まあ、そうっすね」
「で、甲子園しか頭になかったコーチは、吸っていた生徒を殴って取り上げた。正しいかどうかはその時はわからなかったが、その瞬間は頭が真っ白になって、冷静な判断なんてできなかったんだろうな」
「殴った?」
「あぁ。そのコーチからしたら、撫でる程度の力加減でな。小恥ずかしいが、愛のムチってやつだ」
矢沢は、こんなもんだ、と言わんばかりに右手で自分の頭を軽く小突く。
「愛のムチ……」
矢沢の口からは似つかわしくない言葉に、思わず彗は呟いてしまったが、矢沢は気にも留めることなく「ま、それが通じるくらいにゃ信頼関係は築けてる、そう踏んでたんだな」と言うと、タバコをくうっと吸う。
「それを、部員に告げ口されたんすか?」と彗が割り込むと、矢沢は首を横に振って「いーや、その時は丸く収まった」と言いながら、煙を吐き出した。
「上辺だけかもしれんが、そのコーチと生徒の間には溝は埋まれなかったよ。信頼関係があったかは定かじゃねぇがな。……問題はその後だ」
「その後?」
「……コーチとしては、その不祥事を発見しちまった手前、報告しないわけにはいかない。で、すぐに監督へ報告することにした」
先ほど吐き出した煙が、ゆらりゆらりと空中を漂う。その煙をふっ、と息を吹きかけて払うと、矢沢は「それが悪手だった」と呟いた。
「悪手……?」
「あぁ。簡単な話だ」と前置きをすると、まだ十分吸える部分が残っているタバコを灰皿に押し付けて火を消すと「部員が問題を起こしたとなれば、野球部全体の問題。けれど、コーチ……それも外部の人間が問題を起こせば、そいつの責任で終わる」と呟いた。
「それって……」
矢沢の言葉から、彗は自然に結末を推理していた。
甲子園に出るため、名門校のブランドを守るために、外部の人間が部室でタバコを吸った犯人とし、生徒へ暴力を振ったっていう事実を混ぜて、不祥事の〝デコイ〟にした――彗は導き出された答えをそのまま口に出そうとしたが、矢沢は「ま、そう言うことだ」と話を遮った。
もうわかっただろ、という目つきの矢沢に彗は「……そのコーチ、泣き寝入りじゃねーっすか」と続けてみるが、やはり矢沢はもう終わったことと言わんばかりに「それでも、教え子たちが甲子園に行ってほしかったんだろ」と言うと、すくっと立ち上がり「ま、そんなワケで俺のツテはほぼないってこと」と言い捨てた。
「……立ち入ったこと聞いちゃってすんませんした」
彗が頭を下げると、矢沢はその下げられた頭をポンっと叩いて「大人になったら目一杯下げることになるんだ。子供の内は取っとけ」と監督室を後にする。その背中が異様に小さく見えた彗は「……うっす」とだけ呟いて自分も帰路につこうとすると「ま、着眼点は悪くねぇ」と矢沢がいつもの調子で振り返り彗へ話しかける。
「着眼点?」
「あぁ。他人にアドバイスをもらうってのは悪くない。プロの世界でだって、意識の話を聞いただけでも成績ががらりと変わったって話があるくらいだしな」
そこまで言い切ると、矢沢は「ただし、だ」と彗の目の前に手のひらを見せつけて「すべてを聞き入れるな」と真剣な眼差しで言った。
「え?」
「あくまでアドバイスは一つの選択肢だ。そいつにとっては薬でも、自分に取っちゃ毒になることだってある。考えて、どのアドバイスが最良か、考えて取捨選択しろ。わかったな?」
これまでの指示の中で初めてわかりやすい内容に、彗は思わず「なるほど」と呟くと、矢沢は満足気に「ま、頑張れや」と返してくる。
「……ういっす」
彗が返事をすると、先ほどとは全く別人に思える大きな背中で矢沢は帰路についた。
その姿を見送ると、彗は「まー、やれるだけやるべきだな」と呟きながら、携帯を取り出した。