6.
木に登った。大きく育った庭の木に、求められるがまま。枝に咲いた花を欲しがる小さな主の為に、登ったこともないくせに、必死になって登ったのだ。幼い掌に収まった花に気が抜けて、下を見た瞬間に眩暈がした。
くらり。思っていたよりも高く、片手が埋まった状態でどうしようと怯えた瞬間、その体はずるりと滑り落ちた。
「ティナ!」
小さな主が叫ぶ。受け身を取るなんて器用な真似が幼子に出来る筈もなく、ティナは無様に頭から地面に叩きつけられた。ぐらぐらと揺れる視界に、痛みにチカチカと光が爆ぜた。返事をしなければ。手に握り絞めた花は無事だろうか。はくはくと口を動かしても、それが言葉になることは無く、ティナは静かに意識を溶かしていった。
「ティナ、ねえティナ返事をして!」
泣き出してしまった小さな主と、遠くから駆け寄ってくる執事の声を遠くに聞いた様な気がした。
◆◆◆
なんとも懐かしい夢を見た。あの時登った木はなんという木だったか。確か、ニセアカシアだったか。あれは痛かったなとぼんやりするが、あの時の主は此方が申し訳なくなる程狼狽えていた。打ち所が悪かったのか、二日程目を覚まさないティナの傍を離れようとしなかった。食事を摂ることも、眠る事すら拒否して泣き続けていたと聞いた時、二度と自分のせいで泣かせぬよう、大切にお守りしようと誓ったのだ。
残念ながら、守りきることは出来なかったし、その役目はアランに取られてしまったのだが。
そんな懐かしい思い出を反芻しながら、ティナは手早く身支度を進めていく。
くるぶしまで届く黒いワンピースと、真っ白なエプロンを身に纏い、アランより随分くすんだ金の髪をきっちりと後頭部で団子状に纏める。客人を迎えられる程度の控えめな化粧を施し、最後にもう一度鏡を確認した。
うっすら散らばるそばかす。少々垂れ気味の目。深い緑の瞳は、薄暗い部屋の中で静かに鏡を見据えていた。
◆◆◆
侍女の仕事はそれなりに忙しい。セレスの服を選び、化粧道具に不備が無いか確認をし、その日一日の予定を確認するところから始まる。
今日の予定は特になし。暫く外出や社交が多かったから、今日は少し休む日にすると言っていた。それならば、少しゆったりとしたドレスにしようと、ティナは衣裳部屋を漁る。幾つか見覚えのないドレスが増えているが、どうせアランが勝手に見繕って入れて置いたのだろう。せめて一言報告してほしいが、アランが誰に言いつけたのか分からないので、頼まれた使用人を探すことは諦めた。有難く使わせてもらうだけだ。
「さて、そろそろ起こさねば」
ふう、と小さく息を吐き、ドレスと化粧品の入った箱を抱え直す。衣裳部屋から夫婦の寝室まで少しあるのだが、もうこの仕事にも慣れている。
「おはようティナ」
「おはようございます、チャーリーさん」
「大荷物だな。手伝おうか?」
「いえ、奥様のドレスと化粧品ですので、触れないでください」
「でも大変そうだし…」
「結構です」
セレスの世話は自分でしたかった。執事見習いのチャーリーはいつも親切にしてくれるが、どうしてもセレスの物には触れてほしくない。それが何故なのかはティナにも分からなかったが、ただなんとなく、嫌だ。
「…扉を開けるだけでも」
「あまり私に構っている時間は無いのでは?貴方も自分の仕事があるでしょう」
「まあそうだけどさ。分かったよ、今度何か困ったらまた声を掛ける」
歩きながらの会話。それはチャーリーが折れる事で早々に終わる。少し意地になりすぎたかと思ったが、手伝わせる気にはなれないのだから仕方がない。それよりも、朝から甘ったるい雰囲気のあの夫婦を見ることの方が気が重い。
「若旦那様、奥様、ご起床のお時間です」
コンコンと何度かノックをしながら控えめに声をかける。扉の向こうで人が動く気配がするが、返事はなかなか返ってこない。このまま入っても良いのだが、お楽しみ中だったら一日気まずい思いをしそうだ。
「入って大丈夫よ」
「はい、失礼いたします」
本当に入って大丈夫だろうか。そんな心配をほんの少しだけするのだが、そっと扉を開けると、セレスは既にベッドの上に座っていた。アランもぐいと大きく伸びをして、着替えてくるよとセレスにキスを落としてから立ち上がる。
「おはようございます、奥様」
「おはようティナ」
少しだけ寝ぐせのついた髪。まだ眠たいのか、小さく欠伸をするセレスが立ち上がると、ティナは化粧箱をドレッサーに置いて主を待ち受けた。
「本日はお休みでしたね。ゆったりとしたドレスをご用意いたしましたので、本日はごゆるりとお寛ぎください」
「そうするわ。刺繍や読書をするから、必要な時以外は好きにしていてちょうだい」
「かしこまりました」
コルセットはゆったりと。水色の柔らかいドレスを着せ、ドレッサーにセレスを座らせると、手触りの良い髪にするするとブラシを通していく。香油をほんの少しだけなじませ、真直ぐになるように、何度も何度も、丁寧に。
「ティナの手は冷たいわね」
「申し訳ございません、冷えましたか」
「そうじゃないわ。でも冷えは良くないと言うから」
昔からひんやりと冷たい手。冬になると誰かに触れる度嫌がられるのだが、どうしたって温まってくれない手は、自分でもあまり好きにはなれない。後で何か温かい飲み物でも飲んでみようか。
「セレス、朝の身支度はどうかな」
「まだかかります。アラン様はお仕事がありますし、どうぞお先に朝食を」
「いや、待っているよ。一緒に食べよう」
着替えを済ませたアランは、にこやかに支度中の妻に声をかける。このやりとりもほぼ毎日のように繰り返されているのだが、よくまあ飽きもしないものだ。
「少し急ぎましょうか」
「そうしてちょうだい」
化粧は控えめに。今日はゆっくり過ごす日なのだから。ダルトン家にいた頃のように、気を抜いて過ごせるように。
◆◆◆
主が何かに集中している間、侍女は少々暇になる。勿論仕事は探せば幾らでもあるので、ティナはセレスのドレスの染み抜きをすることにした。
普段あまり服を汚すことはないセレスだが、先日パーティーに行った際何処かで飲み物がかかったらしい。小さく目立たない染みだったが、セレスが着るドレスなのだからと、小さく何度もトントンと布を当て続ける。
「何だか細かいことしてるな」
「こんにちはチャーリーさん。貴方は真面目にお仕事をされる気は無いのですか?」
「してるさ!若旦那様のシャツにボタンを付け直せってハロルドさんに言いつけられたんだ」
アラン付の執事。彼は正直苦手だ。堅物で、セレスと距離の近いティナのことをあまり良く思っていないのか、それとも元からそういう顔なのか、いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せる男。
あの筋肉質で大きな男にボタン付けを言いつけられたなら、口ばかりを動かしていないで手を動かすべきだ。チャーリーは裁縫道具を手にすることすらしない。
「俺裁縫って苦手なんだよな。代わりにやってくれない?」
「ご自分のお仕事なのですから、ご自分でなさい」
「こんなの男の仕事じゃないだろ」
「命じられたのは貴方です。私がやっても構いませんが、ハロルドさんには私から報告させていただきます」
冷たく言い放ってやれば、チャーリーはぐっと言葉を詰まらせる。執事になるならば、なんでも出来た方が良い。というよりも、何でも出来なければならないのだ。
「…悪いんだけど、やり方教えてくれないか」
「それなら構いませんよ」
苦手なことがあるのは人間なのだから仕方がない。ただそれから逃げるような人間は、ティナは好きになれない。努力しようと、人に頼る人間は評価するし、助けを求められるのならば、多少の手伝いをしてやる程度には、ティナは優しい人間であろうとしている。
「外れているのはどこのボタンですか?」
「袖口だよ。多分何処かに引っ掛けたんだ」
「ああ、ボタンが残っているのなら簡単ですね。まずは針に糸を通して…」
言われた通りに小さな穴に向かって糸を通そうと格闘しているが、どうやらチャーリーは細かい作業が苦手なようだ。何度も何度もつんつんと糸で針を突き、漸く糸を通せた時には、ティナは染み抜きを終えていた。
「ティナは仕事が早いんだな」
「貴方が…いえ、何でもありません。通せたのなら糸の端を結んでください。玉を作るように」
手本として片手でくりくりと糸を弄ってみせるのだが、やっぱりチャーリーは大苦戦している。正直教えるよりも自分でやってしまった方が早そうだ。
◆◆◆
たった一つボタンを付けるのに、どれだけ時間をかけるのだろう。少々苛立ちはしたが、何とかボタンを付け終えると、チャーリーはとても満足げに笑った。
「出来た!」
「お見事です。これからはご自分で出来ますね」
「ありがとう、教えてくれて。また言いつけられたら一人でやってみる」
是非ともそうしてほしい。正直染み抜きをしている時間よりも、もたついているチャーリーを見ている時間の方が長かった。
「今度何かお礼をするよ」
「ただ少し助言しただけですので必要ありません。それでは私はそろそろ奥様のお茶の時間になりますので、失礼いたします」
小さく頭を下げ、作業場を出る。今日の茶菓子は何だろうか。セレスの好きなものだったら喜ぶだろう。そんなことを考えながら、ティナは足早にセレスの部屋へと向かった。