4.
今日の主も美しい。仕事から戻った夫を嬉しそうに出迎え、いつものように落とされる唇を恥ずかしそうに受け入れる。今日はどうやら客人を連れて帰ってきたらしいアランだったが、忘れているかのような普段通りのいちゃつきぶりに、連れて来られたデイル・アドニスは少々白けた顔をしていた。
「あのぉ、俺帰った方が良いっすかね」
「何だ、お前が侍女殿に会いたいと騒ぐから連れてきてやったんだろう」
「それ本人の前で言うのやめてくれません?」
侍女殿、というのは恐らく自分の事だろうとティナは納得する。そういえば主が結婚する前、この男に誘われていたなと思い出したが、互いに多忙で約束は果たされていない。
「私に何か御用でしょうか」
「一緒にどこか行きましょうって約束したじゃないですか」
「お誘いはされましたが、お約束はしておりません」
しれっと言い放つと、セレスは面白そうにクスクスと笑う。アランはニヤニヤしながらデイルを小突いているが、当の本人は短い茶髪をガシガシとかき回して唸る。
「こいつが侍女殿侍女殿と煩いんでな。一度会わせてやるからあとは自分でどうにかしろと言ってある」
「そういうわけで、今度の休みにでも一緒に出掛けませんか」
「お断りいたします」
一瞬の間も空けずに拒否をする。がっくりと項垂れているが、行きたいわけでは無いのだから断ったっていい筈だ。
「良いじゃない、一度くらい行ってらっしゃいよ」
「ですが…」
「買い物の荷物持ちでもさせると良い」
主夫妻に促されてしまえば、あまり頑なに断るのも良くないだろうか。期待するような目をするデイルに少々呆れながら、ティナは渋々約束をしてやった。
◆◆◆
騎士というのは、この国では特別な人間だ。普通は軍に入り、軍人として国に仕えるのだが、騎士団員というのはその中でもごく一部の優秀な人間の集まりである。
剣の腕、体術。そして王を守護するに相応しい立ち振る舞い。それらを全て身に着けた、所謂エリート集団なのだ。
殆どが貴族や軍人家系のエリートたちで構成された集団。その中でも珍しい、一般市民から実力だけで騎士団員に上り詰めた男。それがデイル・アドニス。
「いやあ、俺女性と二人っていうのに全然慣れてなくて…何か不快な事とかあったら遠慮なく言ってください」
本当に、この男は騎士団員なのだろうか。飄々とした、それでいて何処となく人好きさせる雰囲気の男。砕けた口調で親しみを感じさせるのに、馴れ馴れしいとは思わない。可笑しな男だと思いながら、ティナは静かにデイルの隣を歩く。
「すみません、あまり気乗りしていないだろうに」
「いえ、奥様の提案ですし、買い物もありましたので、お言葉に甘えて荷物持ちとして使わせていただきます」
しれっと言い放っても気を悪くした様子もない。けらけらと楽しそうに笑いながら、デイルはそれとなく人の流れからティナを庇ってくれた。
普段セレスのお供として出かけるのは、貴族街の中にあるショッピング街。そこは当然お値段も貴族向けで、侍女とはいえ使用人であるティナには手の届かないものばかり。今日はもっと一般市民向けの、お値段の優しいものが置いてある市街へ来ていた。
「で、買い物って?」
「妹が結婚する事になりまして。祝いの品を」
「そりゃおめでたい」
それなら何か華やかな物をとあれこれ眺めてくれるのは良いのだが、正直妹の結婚はどうでも良い。もう顔も思い出せないのだから。そもそもこういったものは親が支度するもののはずで、姉であるティナは気持ち程度で良い。だが、そんな贈り物を出来るほど、実家は潤っていない。
「侍女殿は結婚しないんですか」
「そういったお相手もおりませんし、私は奥様のお傍に居るのが最上の幸せですので」
「結婚しても侍女を続ければ良いのに」
「それを許す夫に恵まれれば話は別でしょうが、結婚すれば女性は家に入るものでしょう」
妻を外で働かせるのは男の恥。それはこの国での常識で、かつて気まぐれに交際しても良いと思えた男性も同じ事を言った。だから交際することもなく別れを告げた。
「そういうアドニス様はどうなのです」
「俺ですか?残念ながら騎士団なんてやってると出会いは無いし、時々キャーキャー言ってくれる女性もいますが、貴族出身どころか実家が貧乏な農家だと知ると離れていかれましてね。残酷なもんです」
やれやれと大きな溜息を吐きながら、デイルはどこか遠くを見る。貧乏農家出身という共通点があったことに少しばかり驚いたが、別に珍しい話でもない。
「俺兄弟が多くて…確か全部で六人?俺が家を出てから増えた筈だから、もう少し増えてるかもしれないけど」
「貧乏大家族とはよく言ったものですね。私の実家も同じようなものです」
「なんだ、てっきり侍女殿は良いとこのお嬢様だと思ってました」
所作も言葉遣いもとても綺麗だから。そう褒めてもらえるのは嬉しい。嬉しいのだが、それらは全て、教育を施してくれたダルトン家のおかげだ。優しい人たちに恵まれて本当に良かった。
「俺は次男なんで、親兄弟の世話は兄貴が基本やってくれるんですが…まあ稼ぎは俺に頼られてるんで」
「あら、私と同じですのね。私は長女ですが、稼ぎ頭は私です」
「意外と共通点あるもんですねぇ」
呑気な声でデイルが笑う。ほんの少しだけ警戒心が緩んだ気がするが、そもそも何故誘われたのかが気になった。
「何故、私を誘うのですか」
「何故って…好みの女性だったし、俺も結婚適齢期ってやつなんであわよくば…みたいな」
「それでは、私ではなく別な女性をお誘いになった方が宜しいかと」
「そう言われてもなあ…主の為に人一人殺しに行くような侍女って、結構ヤバくて惹かれるんですよね」
背筋に嫌な感覚がじわりと広がる。何故バレているのだろう。思わず言葉を失い、デイルを見つめてしまったが、デイルは穏やかな笑みを浮かべるだけだ。
「一応俺は騎士団員なんで、人殺しは捕まえないとなんですよ」
「…なんのお話でしょうか」
「やだなあ。わざわざ遅効性の毒なんか仕込んで、元同僚のメイドまで巻き込んでマリア・マクベス…今はただのマリアか。殺しに行くなんて。何故侍女殿はそこまであの奥方に執着するんです?」
何故、何故、何故。あの毒はそうそう出回らないもの。だってあれは、実家を出るときにこっそり持ってきたものだから。どうにかして隙を作り、逃げ出そうと思っていたから持っていた。結局使う事は無かったそれを、あの日指輪に仕込んで、使った。
ゆっくりと体を蝕んでいく毒。ゆっくりと、身体を腐らせ、七日経つ頃には死ぬという毒。出所が分からない物の筈なのに、どうして目の前の男は、ティナが殺したと知っているのだろう。
「大丈夫、これを知ってるのは俺と隊長だけ。因みに隊長はあの女を死ぬほど嫌ってるから、今回の件を深く調べる気も無い」
「ですから、私には何のお話か分かりかねます。あのお方がどうなろうと、私に関係ございませんもの」
「はいはい、そういう感じね」
デイルの釣り気味の目が、冷たい温度でティナを見据える。どう足掻いてもこの男はティナがマリアを手に掛けた事を確信しているし、逃げ切れそうにない。
「…何故、私だと」
「ものすごーく古い文献に、七日かけて腐って死ぬ毒の記述がほんの数行ありましてね。その毒は、既に没落した一族に伝わるものだったそうな」
「それが、どうして私に繋がるのです?」
「すんません、正直言うとカマかけました。因みにマリアは全身至る所が腐ってますが、何とか生きてますよ」
どういうことか。思わず口があんぐりと開いてしまうが、デイルはにこにこと笑うだけ。騙された、どこから?これからどうなる?主から引き離されてしまう。それだけは、それだけは、どうか。
「いや、毒の記述は本当です。でもそんなもの誰が持ってるのか分かんないし、でもマリアを殺すだろうなって人間は侍女殿とか、元同僚のメイド、それからダルトン伯とか…あと隊長も?」
つらつらと並べられる容疑者たちに違和感はない。ティナもシーナもセレスへは狂信的な忠誠心を持っているし、父親であるグスタフも、夫であるアランもセレスの事を深く愛している。そんなセレスを貶め、傷付けたのだから、殺してしまおうと考えてもおかしくはないというのがデイルの推理だった。
「でも隊長は立場もありますし、捕まったら奥方と一緒にいられなくなる。そんなリスクを負うとは思えない。ダルトン伯なんか真っ先に疑われかねないのに、立場を忘れて殺しなんて…まあ絶対やらないとは言えなくとも、侍女殿よりは可能性が低い」
よく喋る男だ。もう彼の中でマリアの一件はティナの仕業だと確信している。いっそこの男を消してしまおうか。いや、騎士団員相手に敵うわけがない。
「ああ、大丈夫ですよ。隊長は本当にこの件に関しては何もする気は無いようですし、俺も侍女殿を脅そうとか、捕まえようとか思ってないです」
「さようで」
「でも、ウィリアム・タラントは許しませんよ。あれは一応貴族なんでね」
「ご安心を。私はそう簡単に人を殺めるような残酷な人間ではありませんわ」
にっこり微笑んでやるのだが、デイルは眉尻を下げて笑った。こんな物騒な話をしているのに、通行人は誰も此方を気にしない。小声で話しているのも理由の一つなのだろうが、そもそも誰も、すれ違う人間の会話内容なんて気にしないのだ。
「さて、気になってた物騒な話はこれくらいにして…妹さんの結婚祝いを探しましょうか」
「ええ、何が良いかしら」
この男は良くない男だ。あまり近寄りたくない。今後はそれとなく避けるようにしよう。そう心の中で決めながら、ティナは顔を忘れた妹への贈り物を探し始めた。