2.
己の命よりも大切なセレスティア・ハンナ・ダルトン。彼女が幸せそうに微笑んで嫁いでいったのはもう数日前。暫く前にはなるが、十二年間想い続けた婚約者に手酷く裏切られ、憔悴しきって引き籠っていたとは思えない程素晴らしい笑顔をしていたな、とティナは少々涙ぐみながら思い出す。
本当に綺麗で可愛らしい花嫁だった。この世の誰よりも美しい、まるで女神という存在はセレスティアの事を言うのだとまで思った。それは今やセレスティア溺愛仲間となったアランも同じ意見のようで、結婚式の最中うっとりと妻を見つめ続けていた。なんと羨ましいポジションに収まってくれたのでしょうと時折悔しくなるものの、嫁ぎ先にティナも一緒でなければ嫌ですと我儘を言ってくれたので落ち着くこととする。
アランは最初からそのつもりだったようで、使用人たちの寮にティナの部屋を用意してくれていたし、ダルトン家の人々も「どうせ付いて行くのだろう」と快く送り出してくれた。誰も引き留めようとしないのはきっと、止めたところで無駄だと思っているからなのだろう。その通りではあるのだが、せめてセバスチャンは少しくらい引き留めてくれても良いのではなかろうか。
「それで、ティナ。もうこの屋敷には慣れたかしら」
「はい、マーサさん。皆様お優しい方々ばかりですし、分からない事は親切に教えていただけるのでありがたいです」
「それは何より。貴方は奥様付の侍女として働くけれど、屋敷の仕事も覚えてもらわないとならないから頑張ってちょうだいね」
少々キツイ雰囲気の侍女長。正直まだどんな人なのか分からないが、不思議と使用人たちからは頼りにされているようなので、悪い人では無さそうだとティナは判断する。不機嫌そうに目を細めていたり、眉間に皺を寄せているのはきっと目が悪いのだろう。メガネを買えば良いのにと何度か思ったが、余計な事を言って叱られるのが嫌なので黙っておくことにした。
「ティナ、ティナはどこ?」
「はいお嬢様」
「お待ちなさい。良いですか、あの方はお嬢様ではなくこの屋敷の奥様なのです。改めなさい」
「はい、申し訳ございません」
遠くから聞こえたセレスの声に咄嗟に反応しただけなのに、キッと睨みつけられては困る。勿論今のは呼び方を間違えたティナが悪いので何も言い返せないが、どことなくダルトン家の執事を思い出させた。
「お待たせいたしました奥様。如何なされましたか?」
「ああ、ティナ。忙しいのに悪いわね。もうそろそろアラン様がお戻りになられるから、出迎えの支度をしたいの」
「はい、奥様」
あれだけ求婚を拒否していたのに、結婚した今はこんなにも幸せそうに夫を迎えようとするなんて。微笑ましく思いながら、ティナはセレスの髪を梳かそうとブラシを持った。
さらさらと流れる黒髪。もう何年もこの髪の手入れをしてきたし、その役目を誰にも譲る気は無い。この世で唯一、自分だけが手入れを許されているのだという優越感を噛みしめながら、ティナはせっせと手を動かし続ける。
「もうこの屋敷には慣れた?」
「はい、もう随分と。奥様は如何ですか?」
「私はもう少しかかりそうね。…ティナに奥様って呼ばれるのも慣れないわ」
「それは私も同じですよ」
互いにクスクスと小さく笑いながら、主従兼友人の二人は短くも楽しい時間を楽しんだ。
髪を整え、少し崩れた化粧を直し終わった頃、屋敷の主が妻の出迎えを楽しみに戻ってきたのだ。
「おかえりなさいませ」
「ただいまセレス。今日も変わりは無かったかい?」
「はい、何事も滞りなく」
「それは良かった」
相変わらず砂糖を吐けそうだと思う程のあまったるい空気。新婚だから仕方ないとは思うのだが、正直アランの妻を見つめる瞳は少々見ていて恥ずかしい。何処に行っても、誰に向けても「俺の妻は世界で一番可愛くて美人で素晴らしい妻だ」なんて言っているのは屋敷の誰もが知っているが、彼は本気でそう思っているし、隠す事もせず妻を愛している。
「良いわよね、あんな風に愛されてみたいわ」
こそこそと物陰から夫婦のいちゃつきを覗いているメイドに一瞥をくれてやると、それに
気付いたのか慌てて持ち場に戻って行った。
羨ましいとか、愛されてみたいだとか、そういう事はティナにはよく分からない。セレスに勧められて巷で流行っている恋愛小説を読んでみたものの、何が良いのか全く理解できなかった。セレスに正直に感想を述べたが、困ったように微笑まれてしまった。
「あの、使用人たちが見ておりますので…」
「そろそろ慣れてくれても良いと思うんだけどな」
嬉しそうに微笑みながら漸く離れたアランと、顔を真っ赤にするセレス。仲睦まじくて大いに結構なのだが、毎日これを見せつけられる此方の気持ちにもなってもらいたい。セレスが可愛らしいから耐えられるティナと、見ているだけで恥ずかしすぎて「主夫妻の揃っているところに行きたくない」とまで言い出す使用人はそれなりに多い。
皆仕事だから耐えているだけで、本当に、見ているだけで恥ずかしくて堪らないのだ。
「さて、そろそろ可愛い奥さんが沸騰して倒れてしまいそうだから、じゃれ合いはこれくらいにしておこうかな」
ああ、本当にいい笑顔ですこと。
少しだけげんなりとした気分でアランを見送ると、まだ赤い顔のままのセレスがティナの傍に寄ってきた。
「お幸せそうで」
「死んでしまうわ!」
それは困りますと微笑めば、セレスはまだ赤く染まる頬を両手で挟み込んだ。