23.
本来の仕事を放棄して、プライベートを優先することの罪悪感。普段ならセレスが午前のお茶を欲しがる時間だな、なんて事をぼんやりと考えながら、手元でゆらりと湯気を立てるカップをじっと眺めた。
王都の貴族街から離れたエリア。貴族ではない一般市民が生活するエリアだが、周囲にいる人間は皆小綺麗な恰好をし、楽しそうに茶と雑談を楽しんでいる。
本当ならデイルと会う予定だったのにと不満げな視線を向かい側に向けると、気まずそうな顔をした男性と、今にも泣き出しそうな顔をした女性がカップを前に座る。女性は、ティナとよく似た顔立ちをしていた。
「久しぶりだな、元気そうで安心した」
十五年ぶりに会う、実の両親である。顔なんて覚えていなかったが、実際に顔を見てみれば、何となく記憶の奥底に憶えがあるような気がした。
「今更、と思うかもしれないけれど…どうしても会いたくて」
今更。本当に今更だ。じろりと睨みつけてみれば、父親はふいと視線を逸らす。母親はうっすらと涙を浮かべ、言葉を詰まらせた。
「今更、私に何か御用ですか。まだ何か、入用の物でもあるのですか」
「そんな…娘に会いたいという親心を分かってちょうだい」
「親心、ですか。十五年もの間、一度も会いに来ることもなく、金の無心はしっかりと…それのどこが親心なのです?」
じろりと睨みつけてみれば、ぎくりと気まずそうに肩を揺らす。そんな反応をされようが、十五年ぶりに会う両親への情などありはしない。まして、楽しみにしていた予定を潰されたのだ。不機嫌さを隠せなくとも文句を言われたくはない。
「まあ、今更何を言われようともどうでも良いですが…私も話がありましたので丁度いいです」
「ごめんなさい。貴方にばかり負担をかけたわ。とても申し訳なく思ってる」
母親がぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ハンカチを目頭に押し当てる。震えた声がか細く言葉を紡ぎ続けるが、今更なんだという感情が抑えきれない。
今更顔を見せられたって。今更詫びられたって。会いたくて堪らなかったあの頃は、一度だって会いに来てくれなかったくせに。
他の子供は一人として手放さなかったくせに。子供が増える度、送ってほしいと請われる金の額は増えたのに。どうして、どうして今更会いに来るの。どうして、私だけ。
ふつふつと胸の中に広がるもやもやとした重い感情が、恨み言として口から零れていきそうだ。
泣きたかったのは此方の方だ。まだ五歳の娘をあっさりと奉公に出し、娘の稼ぎを宛にどんどん子供を増やしたりして。妹と、あの時腹にいた弟だけならまだ許せたかもしれない。何故あれから増えに増えて七人もの妹と弟たちがいるのだ。
「それで?先程から要領を得ないのですが、本日は私に何のお話があってわざわざ王都までいらしたのです?」
すっと細めた目に見据えられる両親が、ぎくりと肩を震わせる。ああ、また金の無心だろうか。普段なら手紙を寄越せば終いの癖に、今回はわざわざ旅費をかけてまで会いに来たのは何故だろう。それだけ大金を望んでいるのだろうか。
「前に手紙にも書いたんだが…お前にもそろそろ家庭に入ってもらおうかと」
父が静かに口を開く。さも当然の事を言う様に。
「王都で働いているんだから、金持ちとか良いとこの坊ちゃんと知り合う機会くらいあるだろう?良いのはいないのか」
「何を」
それ以上言葉が出なかった。喉の奥に何かが引っ掛かってしまったような、見えない手に口をふさがれているような感覚。呆れとも怒りともいえない感情がぐるぐると頭の中を回って行く。
幼い娘に金を稼がせ、年頃になれば今度は世間体を気にして結婚しろと言い出しているのだ。どうせ近所には「親孝行な娘」として話しているのだろう。その娘がもう二十歳になっていて、王都で働いているとはいえまだ未婚であるという事を、田舎の人間は恥とでも言っているのだ。だから、わざわざ逃げられないように直接話しに来たのか。
「今良い人がいないのなら、田舎に帰ってきましょうよ。お父さんが良い人を見つけてくれるから」
まるでこれが当たり前で、一番良いとでも言いたげに、両親は嬉しそうな顔でティナを見る。王都で知り合った男と結婚すれば金蔓にしながら娘が未婚であるという恥を気にしなくて良くなる。田舎に帰れば、王都で働いていた孝行娘を欲しがる家の中から一番良い家に宛がう気なのだろう。
田舎の人間にとって、王都で働いていた娘を妻にするというのは自慢できることの一つだから。
「…十五年ぶりに顔を合わせた娘に話すのは、そのような内容ですか」
「もう二十歳だ。良い歳だろう?リリーは十八で嫁に行ったんだから」
「そうよ、お母さんは十七だったわ」
お母さん。お母さんって何だっけ。私のお母さんは、泣きながら娘を送り出す人。私の知っているお母さんは、優しく子供を見守りながら、時に厳しく躾け、眠る前に「大好きよ」と額にキスを落とし、傍に控える私に「貴方も休みなさい」と頭を撫でてくれる人。
恋しくて堪らない、親の愛情をくれたのは、あのお屋敷の、優しい大人たち。目の前で微笑むこの人たちではない。
「私も、お話があります」
もう良いだろう。途中から気付いていた。私は両親にとって都合の良い道具であって、可愛い娘では無いのだと。
最初は可愛い娘だったのだと信じたいが、離れて暮らし、金を送るうちに何かが変わったのだ。産んで五年間育ててもらった恩はとうに返した。
もうこれ以上、この二人にも、顔を忘れた妹にも、顔を知らない弟や妹にも何かしてやろうという気は起きない。
結婚なんてまっぴらだ。するのなら、心から愛した人とするのだ。親の為ではなく、心から恋焦がれた相手と自分の為に。それがデイルなら、どれだけ素敵だろう。セレスとアランのように幸せな家庭を持てるだろうか。いつか子供を産んで、小さな幸せを毎日噛みしめて、自分が欲しかった愛情を全て我が子に注ぎ込もう。
目を閉じ、目頭にツンと走る痛みを堪えながら、深く息を吸い込む。
「もう金輪際、私に関わらないでくださいまし」
言葉を失う両親が何か喚き出す前に、言いたい事を全て吐き出してしまえ。
心の奥底にいる幼い自分が、言いたかった事を喚き散らして煩くて纏まらない。
「産んでからの五年間、大変お世話になりました。残りの十五年間、貴方方に世話になった覚えはありませんし、私はとうに恩返しは済んだと思っております。今後の私の人生は、私の好きに生きていきますので、どうぞ私のことはお忘れください」
冷めてしまったティーカップの中身をぐいと飲み込み、ティナはにっこりと満面の笑みを張り付ける。
「私の事は、死んだとでも言っておいてくださいな」
最後の施しとばかりに代金より少し多い額をテーブルに置き、ティナは足早に店を出る。後ろからまだ名前を叫ばれているような気がするがどうだって良い。もうあれは両親ではない。ただの赤の他人なのだから、知らない人間に声をかけられても無視をしたって良いのだ。
肺いっぱいに空気を吸い込み、晴れ晴れとした気分で空を見た。まだ夕方にもならない半端な時間だが、どこからか夕食の支度をしているのか、美味しそうな香りがした。