20.
侍女たる者、何時如何なる時も感情を表情に出すべからず。ダルトン邸でセバスチャンに教わった事の一つだ。比較的感情表現豊かな自覚のあるティナでも、客人の前では基本的に無表情だ。だがそれでも、分かる人間が見れば僅かな表情の変化は読み取れるのだろう。
目の前で気まずそうにしている男は、見れば分かる側の人間だったらしい。
「お久しぶりです…」
うろうろと視線をさ迷わせながら、デイルは小さくティナに声をかける。夫を出迎えたセレスには既に挨拶を済ませているのだが、侍女であるティナにまで声をかけずとも良い。
「あの、あれ毎回やるんですか?」
あれ、とはこの屋敷の主夫妻が玄関ホールで熱い抱擁の後、周囲の人間などまるで目に入っていないかのような二人きりの世界のことである。もうすっかり慣れてしまっていたが、デイルにはそうではない。気まずそうに夫妻の方を見ないようにしながら、おずおずとティナに声をかけるしかなかった。
「我が主夫妻は仲が宜しいもので」
「つまり日常、と」
そんな声が聞こえていたのか、セレスは真っ赤な顔をしながらデイルに詫びた。まだ物足りないと不満げなアランをぐいぐいと階段の方に押しやると、小さく咳払いをしてにっこりと微笑んだ。
「いつも夫の仕事を手伝わせて申し訳ありません。お食事をご用意しておりますので、どうぞごゆっくりなさって」
「遅い時間に突然もうしわけありません。お心遣い感謝いたします」
騎士らしく恭しく腰を折りながら、デイルはセレスに礼を述べる。にっこりといつも通り人好きのする笑顔を浮かべ、腹の大きな奥方がいる屋敷に遅い時間に突然来た非礼を詫びた。
「大方仕事に付き合わせたからと、夫がせめてもの詫びとしてお呼びしたのでしょう。お気になさらないで」
「奥方はお優しいですね。俺はいつもこんななので、他の貴族の女性にはあまり良く思われなくて」
「まあ、そうでしたの。アドニス様はとても良いお方ですのに」
いつまでも玄関にいるのもなんですからと言いながら、セレスは食卓までデイルを案内する。奥方に案内してもらえるなんて光栄ですなんて軽口を叩いているが、すぐ後ろを歩くティナが気になるのか、そわそわと落ち着きが無いように見える。
ティナも同じようにそわそわとしてはいるのだが、仕事中なのだから落ち着けと自分に言い聞かせては、視線を真直ぐに向け、表情を引き締めることに専念する。
時折後ろを見るデイルの視線に気が付くのだが、その度に胸が熱くなるような気がした。
「さあどうぞ、お掛けになって」
ダイニングにデイルを招き入れると、セレスは椅子を勧める。既に食事を済ませているが、客人を一人で待たせるわけにもいかない。いつも自分が座っている席に座る事は分かっており、ティナが椅子を引くと腹を支えながら腰かけた。ダイニングで待機していた給仕がデイルの椅子を引いている姿が視界の端に見え、デイルはセレスの斜め向かいの席に腰かけた。正面に座るとアランが煩いからという気遣いだろう。
「奥方お腹大きくなりましたね」
「ええ、順調に育っておりますわ」
「もし女の子なら、隊長は過保護になりそうだ」
それはセレスも同意するようで、クスクスと小さく笑う。セレスの体が冷えない様にとひざ掛けを掛けてやると、デイルの方から視線を感じる。見られていることは分かっているが、今は反応してやることもない。セレスがちらりとティナに視線を向けてくるが、頼むから今は何も言わないでほしかった。
「我が家に女神が増える話か?」
着替えを終えたアランが楽しそうな話題だと言いながらダイニングに入ってくる。普段ならセレスの向かい側に座るのだが、今日はセレスの隣に座ることにしたようで、デイルの向かい側に座るかたちになった。
仕事を終えても上司と向かい合って座るのは気の毒なことだとティナは内心同情したが、恐らくこの二人は上司と部下でありながら友人のようなものなのだろう。三人が座るテーブルはとても穏やかな空気が漂っていた。
◆◆◆
「すみません、遅くまでお邪魔しました」
「またいらしてね」
食事の後、少しの酒を楽しむと、デイルは妊婦がいるからと月が高く上り切る前に屋敷を後にする。それでも遅くなったからと丁寧にセレスに詫びるのだが、セレスは気にするどころか楽しかったからまた来てくれと笑っていた。アランは妻が思いの外自分の部下を気に入っている事が嬉しいような、気に食わないような複雑な面持ちだが、デイルの事はアランも気に入りだ。そんな男を妻にも気に入ってもらえている事は、喜ばしいのか「落ち着いたらまた来ると良い」などと笑う。仕事を任せきりにして就業時間後も屋敷に通わせていた男が言うセリフではないだろうと、この場にいる誰もが思ったことだろう。
「それじゃ、俺はそろそろ」
「ああ、おやすみ」
最後に小さく頭を下げると、今度こそデイルは屋敷の扉を出て行った。見送りを辞退したのはデイルだったが、セレスはやはり気になるのか、落ち着かないようにそわそわとしている。
「やっぱりなんだか落ち着かないわ。ティナ、悪いんだけれど門のところまでお見送りしてきてちょうだい」
「畏まりました」
アランは気にする事はないと言うが、セレスがそう言うのなら、言う通りにするだけだ。玄関から出る事を詫びながら、ティナはほんの少し急ぎ足でデイルの後を追う。足音に気が付いたデイルが振り向くと少々驚いたような顔をしたが、それはすぐに嬉しそうな表情へと変わった。
「今日は話せないかと」
「奥様がお見送りをと仰せですので」
「それは奥方に感謝しないとだ」
門までの距離はそう長くはない。ほんの少し、いつもよりも歩幅を小さくしてしまうのは、少しでも長く話をしたいからだろうか。自分でも意味の分からない行動をしている自覚はあるが、デイルも同じように歩幅を合わせてくれるのが嬉しかった。
「やっぱり仕事中の侍女殿は格好良いですね」
「何です、突然」
「見てて思っただけですよ。出来る女!って感じで恰好良いなぁって」
褒められて悪い気はしないが、突然褒められても反応に困る。思わず顔を赤くしながら俯いてしまったのは失敗だっただろうが、今更後悔してももう遅い。デイルが小さく笑った声がした。
「ところで、今度また休みの日に俺と出かけてくれません?」
「本当に、何事も突然ですね貴方は」
「すみません。でも前から誘いたいなと思ってたんですよ。どうです?」
「…構いませんよ。若旦那様のお休みの日が私の休日ですので」
あっさりと了承された事が意外だったのか、デイルは目をぱちくりと瞬かせるが、すぐに嬉しそうに顔を輝かせた。ティナの前に立ち両手を握ると、「約束!」と笑いながら手をぶんぶんと上下に振った。
いつかセレスが言っていた「大きな子犬を見ているようなのよ」という言葉を思い出し、これがそういう事かと納得した。
「食事はアドニス様の驕りですよ」
「良いとこ探しておきます!」
デイルの背後に大型犬のようなしっぽが見える気がしたが、気のせいだろう。普段剣を振り回すような男が、人懐こい犬のように見えるとは、恋をすると可笑しな事を想像するようになるものだ。
「じゃあ、次の休みに会いませんか。昼の鐘が鳴る頃に、裏口に迎えに来ます」
「はい、お待ちしております」
この男に恋をしている。それを認めるだけで、こうも素直にデートの約束を取り付けられるのか。何を着よう。どんな化粧をしよう。普段使わない香水なんてものをしてみようか。あれこれ考えるだけでこんなにも胸が躍るだなんて知らなかった。
「あー…もう少し門まで長ければ良いんですけど」
「あまり長い道のりですと、管理が大変ですので」
デイルが言いたいのはそういう事ではない事くらい分かっている。口元を僅かに緩ませながら、ティナは門を開いた。
「では、お気をつけてお帰りくださいまし」
「そうします。おやすみなさい、侍女殿」
「はい、おやすみなさいアドニス様。良い夜を」
名残惜しそうに視線をさ迷わせるデイルが、そっとティナの手を取った。
まるで御伽噺の王子様や、騎士がするような小さなキスを手の甲に落とすと、照れ臭そうに微笑んで去って行く。
一瞬ぽかんと呆けてしまったが、何をされたのか理解した瞬間、ティナの頬は真っ赤に染まった。仕事中だとか、そんな事はすっかり頭の中から抜けていた。
「厄介な感情ですね…」
恋心とは、ティナにとって扱いに困る感情だった。