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19.

初恋はとうの昔に済ませていた。幼い頃、ダルトン家に野菜を運び込んでいた八百屋の若旦那相手だった。若旦那といっても、まだまだ若い男で、店を継ぐ前に顔を覚えてもらいに来ているのだと笑っていた。まだ子供だったティナには、その男はとても穏やかで、大人の男に見えていた。勿論子供を相手にするはずもなく、いつの間にか嫁をもらったと聞いて泣いたのは良い思い出だ。

それからもう何年経っただろう。久方ぶりの恋心をどう扱えば良いものか。持て余した感情はもやもやと渦を巻き、溜息の数を増やしていた。


「ティナ、仕事に集中なさい」

「申し訳ありません、マーサさん」

「…何か悩みでもあるのですか?ご両親が近く王都にいらっしゃるとの事ですが」


恐らくセレスが話したのだろう。家族なのだから、少しでも時間を作って会わせてやってほしいとでも言ったのだろう。

気を使ってもらえるのは有難かったが、正直今更会いたいとは思わない。


「両親に会うつもりはありません。私はいつも通り、仕事に専念致します」

「そう言うのなら、溜息ばかり吐いていないで仕事なさい。まるで物語の恋する乙女ですよ」


呆れたように言うマーサの顔を凝視しながら、思わず動きが止まってしまう。みるみるうちに顔が熱くなっていくのを感じるが、それを見たマーサは目を見開いた。


「おや、意外ですね」

「あの…どうか誰にも言わないでくださいまし」


にやにやと緩む口元を手で隠しながら、マーサは楽しそうに笑いながら首を縦に振る。普段真顔ばかりのくせに、珍しいこともあるものだ。だが、今回はからかわれているのは自分である事を思い出し、ティナはほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。


「そんな顔をしても、顔を赤らめていては怖くもなんともありませんよ。さあ、お喋りはこれくらいにして仕事に戻りますよ。奥様がそろそろお散歩をと仰せでしょうから行ってきなさい」


さっさと行けと背中を押され、ティナは大人しくセレスの元へと急ぐ。マーサの事だから、誰かに余計な事を言う心配もない。若い女性のように色恋の話を好むのは意外だったが、業務時間外のマーサは面倒見も良く、若い使用人たちの母親のような存在だったことを思い出した。きっと何か相談すれば、快く乗ってくれることだろう。

まだこの屋敷に来てからそう長くは無いが、マーサになら何かと相談出来るような気がした。


◆◆◆


今日もゴールドスタイン邸の庭は美しい。色とりどりの花が美しく咲き誇り、至る所から甘い香りを漂わせている。セレスはゆっくりとした足取りで庭を歩き、ふっくらと膨らんだ腹を撫でた。


「奥様、少しお休みになられませんか?今日は少々気温が高いですから」

「そうね、そうするわ」


夏用のゆったりとしたドレスを着ているとはいえ、妊婦に夏の日差しは堪えるだろう。庭の片隅にあるいつもの木陰に座り込むと、セレスはティナに差し出された水を美味しそうに飲み干した。いくら自宅とはいえ、貴族の奥方が地面に直接座るなと何度も言っているのに、「芝生があるから大丈夫」なんて意味の分からない事を言って笑うのだ。もう何も言うまい。


「今日も元気ね、可愛い子」

「よくお動きになられますか」


よしよしと腹を撫でながら、愛おし気に声を掛ける。腹の中の子は、外の音が聞こえているのだと教わってから、セレスはよく腹に向かって話し掛けていた。それはアランも同じで、「お父様だよ」だとか「今日も良い子にしていたかい?」なんて話し掛けてはデレデレしている。


「これだけ元気に動いているのだから、女の子だったらきっとお転婆ね」


くすくすと笑いながら、生まれてくる子供の性別はどちらだろうと想像する。楽しそうに、嬉しそうに。沈み込んだ顔など、もう暫くの間見ていない。


「男の子なら、きっととても良い騎士になるわ。あの人の息子だもの」

「楽しみですわね」

「ええ、ティナも抱いてやってね」


ただの使用人に我が子を抱いてやってくれと言う主がどれ程いるだろうか。心の底からの本心を言っているのが分かるだけに、なんと答えれば良いのか分からない。勿論抱いても良いのならば抱いてみたい。だが、使用人という立場を考えると、恐れ多い気がしてならなかった。


「ごめんなさい、困らせたかしら」


即答出来なかったことで、ティナが困っていると思ったのだろう。申し訳なさそうな顔をして、セレスは小さく詫びた。何度言っても使用人に詫びるなという言葉は聞き入れられない。もう何度マーサに窘められているだろうか。


「友人に我が子を抱いてほしいと思うのは、いけないことかしら」

「…ですから、私は使用人です。友人と仰っていただけるのは光栄ですが」

「子供の頃は友人だったわ」

「もう良い大人です」


まるで子供のように頬を膨らませ、拗ねたような顔をするが、ティナにその顔は通用しない。きっとアランならば困った顔をして必死に機嫌を取るのだろうが、もう十年以上共にいるティナには可愛らしい我儘としか思えない。


「良いじゃない!使用人を友人のように思う主だっていても良い筈だわ」

「良くありません。身分の差は明確にすべきです。使用人には使用人の立場があるのですから、あまり子供のような事を仰せにならないでくださいまし」

「何よ、ダルトンの家にいた時よりも堅物になったわね」

「奥様は我儘になりましたね」


思わず出た軽口に、セレスはにんまりと満足げに笑う。時折ゴールドスタイン家の若奥様ではなく、ただのセレスティアになりたい時もあるのだろう。金獅子と名高い夫は未だに社交界での人気が高いし、その妻であるのならば、求められるものは多い。いくら愛する男と共にいられるとはいえ、重圧に疲れることはある。ほんの少し休憩をしたい時は、こうしてティナに甘えるのが常なのだ。


「いつもいつもゴールドスタイン家の奥方のままじゃ疲れるわ。今は休憩」

「休憩中は、私はセレスティア様の友人として接してほしい…という事ですね」

「そうよ。良いじゃない、たまには童心に戻りましょう」


これ以上文句を言わせないようにする為か、セレスはティナの手を引いて隣に座らせる。仕方なく抵抗せずに腰を降ろせば、セレスは嬉しそうに微笑んだ。童心に戻りましょうと言われても、子供の頃とは違う。互いに大人になったし、セレスはこれから母になるのだ。だがそれでも、子供の頃から変わらず、自分を傍に置いてくれるのが嬉しかった。


「本当に、貴方様は我儘が上手になられました」

「そうかしら?」


にっこり微笑んでいるが、以前よりも確実に我儘を言うようになった。無理難題を言うようなことは無いが、時折ほんの少しの我儘を言う。主に相手はアランなのだが、ティナにも甘えてくれるのは嬉しかった。


「ところで、ずっと気になっていたのだけれど…最近ティナの元気が無いように思えて心配なのよ。何かあった?」

「ご心配をおかけして申し訳ございません。大事ありませんので、ご心配なく」

「でも溜息ばかり吐いているじゃない。ご家族の事?」

「いえ…両親が来ることは大して気にしていないのですが…」


うろうろと視線をさ迷わせるが、セレスは諦める気は無いようだ。じっとティナの顔を見つめている。新緑の瞳はキラキラと太陽の光を反射しているように見えて、ティナはその瞳に見つめられると何も言えない。


「…誰にも、言わないとお約束してくださいますか?」

「勿論よ!」


顔を真っ赤にしながらも、もじもじと言葉を紡ぎ始める侍女に、セレスは真面目な顔で耳を傾ける。最近想い人が出来た事。それがこの屋敷に時折訪れる男で、友人としての付き合いはあっても関係性を変えるのが怖い事、恋人になりたいのかも分からない事。ぽつぽつと少しずつ白状するように言葉を吐き出していくと、セレスは目をまんまるに見開きながら、興奮したように口元を両手で抑えた。何処となくふるふると震えているように見えるのは気のせいだろうか。


「ティナが恋をしているだなんて!」

「奥様、落ち着いてくださいませ。お腹の御子に障ります」

「落ち着いていられるはずないわ!だってお相手がアドニス様なのでしょう?とってもお似合いだわ!」


そういえば、主は人の色恋話を聞くのが好きだったなと思い出す。年頃の女性らしいなと思って見守ることが常だったが、話相手が自分で、話題の提供者となると話は別だ。なんとも背中がむず痒い。きゃあきゃあと楽しそうにしているが、元気が無かったのは恋煩いだったのね!と納得されると少々居心地が悪い。


「最近アドニス様はお仕事で屋敷にいらっしゃる機会も多いのに…あまりお話している姿は見ないわね」


いつも自分の後ろに控えている姿を思い出したのか、セレスは僅かに眉間に皺を寄せてティナを見る。


「私の侍女だから離れない、私を最優先と思って離れないのね?」

「それが侍女ですから」

「それじゃあ誰かに取られてしまうわ。少しくらい大丈夫だから、アドニス様とお話していらっしゃいな」


そう言われても、素直に「はいそうします」とは言えない。侍女は主の身の回りの世話をするのが仕事だし、デイルはあくまでアランの客人として扱うのだ。主を放り出して客人と仲良く話し込んでいる使用人がどこにいるのだろう。


「でもまずはアドニス様がいついらっしゃるかよね。よくいらっしゃってはいるけれど、最近は前ほどいらっしゃらないし」

「若旦那様がきちんとお仕事をしていらっしゃる証拠では?」

「そうね。大丈夫だと言っているのに心配性なんだから…」


困ったような口ぶりだが、顔は全く困った様子が無い。愛されている幸せを噛みしめながら、セレスはまた腹を優しく撫でた。


「さあ奥様、そろそろ屋敷に戻りましょう。日に焼けてしまいます」

「そうね、そうしましょうか」


膨らんだ腹が邪魔なのか、なかなか立ち上がれないセレスに、ティナはそっと手を差し出す。子供の頃、転んだセレスに同じように手を差し出したことがあったことを思い出し、何だか懐かしい気分だ。

セレスは嬉しそうな顔をしてその手を掴むと、手を引かれて立ち上がる。ドレスに付いた砂埃を軽く払うと、二人はゆっくりと屋敷に向かって歩き始めた。


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