16.
セレスが妊娠してから数週間。漸く吐き気は収まったらしく、少しずつ日常を取り戻しつつあった。勿論体は冷やさず、茶も飲まず、高いヒールの靴は避ける等、気を遣う場面は多々あったが、屋敷の誰もが新しい命を心待ちにしており、温かく見守っていた。
「いつになったらお腹が目立つようになるのかしら」
「さあ…私は妊娠経験がありませんので何とも…暑くなる頃には目立つようになるやもしれません」
まだ殆ど平らな腹を愛おし気に撫でるセレスは、もう既に母の顔をしていた。柔らかいソファーにゆったりと腰掛け、窓の向こうを見ながらのんびりと過ごしている幸福そうな主を見つめながら、ティナも柔らかく微笑んだ。
「サティアから手紙が来たの。おめでとうと書いてあったわ」
「それはよろしゅうございました」
「それと、両親からも。今度屋敷に来るそうよ」
「楽しみですわね」
にこにこと嬉しそうに微笑みながら、祖父母が来るのだと腹を撫でながらまだ見ぬ我が子に話しかける。あんなにも体調が悪くなったのに、腹の中の子が愛おしくて堪らないのだと言う。ティナにその気持ちは分からなかったが、セレスが幸せだと笑うのならば、ティナにとっても幸せなのだ。
「奥様、お体を冷やされませんよう」
そう言いながら、マーサがセレスにひざ掛けをそっと掛けてやる。いつも神経質そうな顔をしているのに、ここ暫くのマーサはセレスを見る時だけはとても穏やかな顔をしていた。かつて自分が妊娠していた時の事を思い出させるのだと言っていたが、他の使用人たちからは「子供が好きな人だから、楽しみでしかたないのだ」と言われている。
「それにしても退屈だわ。アラン様ったら、集まりの予定を殆どお断りしてしまうんだもの」
夜会やパーティー等、殆どの誘いを断られたことがつまらないらしい。妊娠しているからと酒を断るのは簡単だが、疲れる場所な事に変わりはない。大人しく座っていられるような集まりばかりではないし、未だに「寝取られ令嬢」と嫌味を言う者もいる場所に、セレスを連れて行きたくないと言うアランの我儘だった。
「どうしても衣装が重たくなりますし、大事を取っての事です。暫しの御辛抱を」
「だからってお茶会までお断りしなくたって…」
「若旦那様は奥様と、お腹の御子がご心配なのですよ」
マーサが小さく微笑みながら慰める。セレスは少し考えると、マーサに視線を向ける。
「ねえマーサ。お産って痛むのでしょう?お母様は二人産んだけれど、どちらも大変だったと仰るの」
何だか怖いわ、と不安そうな顔をしながら訴えると、マーサはまた微笑んで、遠い記憶を掘り返した。
「痛むには痛みます。ですが、その痛みに耐えた後のご褒美を思えば、耐えられるものですよ」
「ご褒美?」
「十月十日、腹の中で育てた我が子をこの手に抱けるのです。それはそれは幸福な瞬間ですよ」
見たことが無い程、柔らかい笑顔。初めてそのような顔を見たと、ティナは目を見張る。
初めて聞く産声と、初めて抱いた温かさと、小さな体の重み。それら全てが、痛みと苦しみを全て忘れさせてくれるのだと。
「不思議な事に、赤子を抱くと痛みも苦しみも綺麗さっぱり忘れてしまうのです」
「本当に?」
「ええ、少なくとも私は忘れてしまいました」
その言葉を信じられないのか、セレスは僅かに眉間に皺を寄せながら自身の腹を見つめる。初めての妊娠。これから何が起きるのか全く想像が出来ないということは、幸せでありながら恐ろしくもあるのだろう。
それを理解しきれない自分が、何となく不甲斐ないような、もどかしいような気持になった。
「まずは少しお痩せになりましたから、御子の為にももう少しお食事をお召し上がりになられませ。奥様は少々細すぎます」
「そうね。頑張るわ」
ゆったりと頷く主を見つめながら、マーサとティナは優しく微笑んだ。