13.
まだ主の体調は戻らない。むしろより悪くなっているようだったが、アランは心配しつつも嬉しそうにしていた。セレスの腹に新しい命が宿ったからだ。まだ二人きりを楽しみたいと言っていたくせに、いざ子供ができたとなると嬉しいものらしい。
仕方が無いので、アランが在宅している時の看病は譲ってやる事にした。
「若旦那様、奥様、お食事をお持ちいたしました」
匂いで気分が悪くなるセレスの為に、極力匂いが弱いものばかりを運んでいる。柔らかいパンと、シンプルなスープ。アランは一日のうちほんの少しの時間寝室を離れ、足りない食事を摂りに行くが、共に居る時は同じメニューを望んだ。
「本日の朝食は、パンと野菜のコンソメスープ、それと果物をお持ちしました」
「今日は食べられそうかな?」
「…ごめんなさいティナ、スープは下げてもらえるかしら」
コンソメの香りが少々きつかったらしい。かなり薄味に仕上げ匂いを抑えていても、敏感になった嗅覚には充分すぎる刺激だったようだ。だが、パンと果物だけでは少々栄養価的に心許ない。
「一口も食べられそうにないかい?」
「ごめんなさい」
「良いんだ。落ち着いて食べられるようになったら、その時食べれば良い」
真っ青な顔を何度もこくこくと上下に動かし、スープを下げようとするティナに申し訳なさそうな顔を向ける。にっこり微笑んで、盆をアランに渡すと、ティナはそのままスープを手に部屋を後にする。
悪阻というものがどのような物か、ティナにはよく分からない。セレスが言うには、終わりの見えない船酔いのようだと説明されたが、船酔い経験が無いティナにはやっぱり分からなかった。
「ティナ、奥様はどう?」
「スープの香りで気分が悪くなられたようです。若旦那様と共にパンと果物をお召し上がりになられるかと」
「そう。悪阻はそのうち落ち着くけれど…いつ終わるかは人によるから」
「マーサさんはご経験がおありなのですか?」
げんなりした顔で、マーサは大きく息を吐く。一度経験した事があるそうだが、産む直前まで体調が優れなかったのだと言う。
「仕事も一度は辞めようと思った程よ。夫が侍女としての仕事に誇りがあるのなら続けて良いと言う人だったし、一度辞めて戻るような事も出来ないと思ったから耐えたけれど」
マーサの夫は数年前亡くなったそうだが、その時の子供は今も元気に軍人として働いているらしい。産む前も、産むときも辛かったと懐かしそうに目を細めているが、セレスの体調は心配なようで、食事を運ぶ度にティナに様子を聞くようになっていた。
「甘い果物がお好みなのか、比較的よくお召し上がりになられております」
「そう。それなら落ち着くまで果物を中心に出しましょうか。水分も摂れるから丁度良いわ」
「はい」
手に持ったスープを厨房に戻さなければ。軽くマーサに頭を下げ、足早に廊下を進む。恐らくもう暫くしたら、アランに呼ばれて寝室に行くことになるだろう。それまでに温かい白湯を二人分用意しておかなければ。
「料理長、申し訳ありません。スープは少々香りが強かったようです」
「そりゃ申し訳ない事をした。こんだけ薄くしても駄目かい」
「そのようで」
「妊婦に野菜は必須だって聞いたんだが…食えないもんは仕方ないな。後で温め直して賄いにしちまおう」
少々粗野な物言いをするが、料理長の腕は確かだ。勿論主へは丁寧な物言いを心がけているようだが、もしこの家以外で働く事になったら一瞬で首が飛ぶだろう。
差し出されたスープをどことなく寂しそうな顔で鍋に戻すと、料理長はティナに向き直る。
「お前さんは食ってるのか」
「はい、美味しくいただいております」
「なら安心だ。お前さん奥様がここに来る前断食に付き合ってたって聞いたから心配でな」
流石に悪阻故の食欲不振に付き合うことはしない。正確には先回りしたセレスに全力で止められただけなのだが。おめでたい話なのだから、付き合わせて倒れられる思い出にしてくれるなと。
「今日も食後に白湯か?」
「はい。お体を温めたいそうです」
「妊婦は茶も飲めないのか…」
「何やら体にあまり宜しくないそうですよ」
医者に控えろと言われた時のセレスは、相当ショックを受けたのかがっくりと項垂れていた。お茶を飲みながらの読書やおしゃべりが好きなのに、それすら駄目だと言われ、すぐれない体調に耐えねばならない。落ち込むのも無理はないだろう。
結婚生活は幸せそう。だが妊娠するというのは、幸せなことばかりでは無いのだ。
「俺の嫁さんも相当しんどそうだったもんなあ…毎日吐いてたかと思うと、俺に染み付いた料理の匂いが嫌だから寄るな!って怒られたり…かと思えばあれもこれもって食べまくってたし」
妊婦のことはよく分からない。ただ一つの救いは、セレスが精神的には元気であること。時折まだ平らな腹を撫で、嬉しそうに微笑んでいるのだ。気分が悪いのは、この子が育っている証拠なのだから、それくらい耐えられると笑っていた。
その姿を見ていると、不思議と「羨ましい」と思うようになった。あれ程結婚に興味が持てなかったのに、子供を身籠るというのが羨ましくなったのだ。その前に相手を見つけなければならないのに。
「ほれ、お呼びだぜ」
厨房の入り口からティナを呼ぶメイド。寝室でアランが呼んでいるのだろう。紅茶の代わりに白湯が入ったティーポットと、二人分のカップを台車に乗せると、ティナはまた寝室へ歩き出す。
「ああそうだ。奥様に何か食いたいもん無いか聞いといてくれ。なるべく用意するからよ」
「はい、承りました」
早く、終わりの見えない船酔いとやらが治まりますように。胸の中で祈りながら、ティナは足早に廊下を進んでいった。