11.
ここ数日、ティナは落ち着きが無い。久しぶりにセレスが体調を崩しているからだ。熱は無いが、怠いのかベッドから起き上がることが出来ずにいた。食べやすい果物や、温かい飲み物をほんの少し腹に入れるだけ。何かあったかと思い返すのだが、特に思い当たることは無かった。
「奥様、ご気分は如何ですか」
「まだ少し…起き上がるのが辛いわ」
真っ白な肌を青くさせながら、セレスはか細い声で返事をする。目を開けるのも辛いのか、眉間にはうっすらと皺が寄っていた。
「何かお召し上がりになりましょう。果物を切って参りました」
「…いらないわ」
「また、侍女を殺したくなければと脅しましょうか?」
その言葉にセレスは少しだけ微笑んだ。もう暫く前の出来事を思い出し、ティナは胸が苦しくなってきた。アランが王都にいないからと、食事をする事を拒絶したあの十日間。骨が浮き出るまで痩せ細ったあの体を、また見ることになるのだろうか。
「分かったわ。でもあまり食べられないかも」
「食べられるだけで宜しいのですよ。ほんの少しだけでも」
背中にクッションを当ててやりながら、セレスを起き上がらせる。ここ数日まともに食べられていないせいで、背中はほんの少しだけ骨が浮いていた。
厨房で温めてもらったミルクと、小さく切った林檎を差し出す。しゃくりと小さな音を立てながら咀嚼しているが、すぐに口元を手で押さえて動きを止めた。
「ご気分が悪いのですか?」
こくこくと頷くと、吐き気を堪えているのか、セレスは苦しそうに息を詰めた。ベッドの脇に置かれていた桶を差し出すと、すぐに顔を突っ込み、胃の中の物を吐き出した。
何度も背中を摩り、苦しそうな呼吸を繰り返すと、セレスは漸く落ち着いたようだ。
「やっぱり、食べられそうにないわ」
「畏まりました。では一度下げますので、お腹が空きましたらいつでも仰ってくださいませ」
桶を片付けようと、ティナは盆と一緒に桶を持って立ち上がる。申し訳なさそうな顔をするセレスに小さく微笑んでから足早に部屋を出れば、仕事に行ったはずのアランが部屋に入っていった。何故今屋敷にいるのか疑問に思うが、さっさとこの桶を片付けなければ。早く戻らなければ。果物でさえ受け付けないのなら、何を食べさせれば良いだろう。それよりも、何故こんなにも体調を崩しているのか。最近食べたものが合わなかった?それとも何か負担になるような出来事があっただろうか。季節の変わり目というわけでもないし、何故なのか理由が思い浮かばない。
「あ…」
たった一つだけ、思い当たる事があった。侍女ならば、主の体の事もよく知っている。最後に月の物が来たのは、いつだっただろう。体の怠さと食欲不振、吐き気。それがもしも、思い当たる理由から来るものだとしたら。
ぐるぐると思考が纏まらない。一瞬立ち止まったが、ティナはまた足早に廊下を歩いて行った。
◆◆◆
「奥様、失礼してもよろしいでしょうか」
こんこんと軽くノックをしながら声をかける。少しの間を開けて、アランが扉を開けてくれた。最愛の妻が体調を崩して数日、もう仕事も手に付かないからと帰ってきたそうだが、もっときちんと仕事をしてほしいものだ。
「アラン様、お仕事はどうされたのです?」
「デイルに任せてきたから大丈夫だよ。あとで報告に来るそうだ」
「まあ…アドニス様に押し付けていらしたのね」
「妻が心配でね」
笑っているが、その手はセレスの手を握って離さない。再び横になっているセレスも、嬉しいのか申し訳ないのか、複雑そうな顔をしながらその手を握っていた。
どろり。胸の奥で何か嫌な感情が滲む。その場所は自分の場所なのに。子供の頃から、ウィリアムと婚約している時も、その後も、一番傍に居るのは自分の役目だったのに。
どうしてそれが、アランの場所になっているのか。夫なのだから当然だし、ティナはただの使用人で友人ではない。弁えているつもりだったのに、どろりとした重たい感情は、馬鹿正直に「悔しい」と主張していた。
「ティナ、連日付きっ切りで疲れているだろう。もう下がって良い」
「ですが…」
「俺が見ているから大丈夫だ。下がれ」
「…はい」
深く頭を下げ、ティナは大人しく部屋を出る。悔しくてたまらない。まるで子供がお気に入りの玩具を取られてしまったかのような、幼稚な嫉妬。屋敷の主に下がれと言われたら、大人しく下がるしかない使用人という立場が、生まれて初めて恨めしく思えた。
唇をきつく噛み、爪を食い込ませながら手を握り絞める。口の中に鉄臭い味が広がるが、そんな事はどうでも良かった。
セレスの幸せはティナの幸せ。そう思っていたのに。
こんなにも、悔しい思いをするなんて思っていなかった。
「最低だわ」
小さく呟く声は、広い屋敷の片隅で、誰にも聞かれず消えた。