微熱に侵されて
名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
騒がしい駅の構内で、聞き間違えかと思ったが、半ば無意識に声の方へと振り返った。
振り返った先に居たのは数年ぶりに見るスーツ姿の同級生だった。
幼さが抜け男らしくなっている彼は俗に言う元カレだ。
「やっぱり小林だ」
「………佐々木くん、久しぶりだね」
たっぷり間を開けて口から出た言葉は当たり障りのないことだった。
「仕事帰り?」
「まぁ、そんなところ」
本当は少しばかり早めに早退をして、一度家に帰って着替えて来たところだけれど。それを伝えた所で変わることはないので黙っておく。
彼は「へぇ」と小さく声を漏らし、まじまじと観察するように上から下へと視線を動かす。
確かに、着替えてきたから仕事着ではないし、ちょっと小綺麗にしてるけど、そんなに可笑しいかな。
観察されるのが居心地悪くて、言葉を付け足す。
「映画、行こうと思って。今から行くところなの」
「映画?彼氏と?」
…びっくりした。
元カレに「彼氏と?」なんて、聞かれることは別に可笑しくないし、世間話程度だろう。
けれど、彼は、佐々木くんは、そんなことを聞くようなタイプではなかったはずだ。大人しくて、どちらかと言えば教室で少人数で静かに過ごしているような人だった。
そんな彼から彼氏がいるのかと聞かれることに驚いた。
「…聞いちゃまずかった?」
「別に。ひとりで行くつもりだったから、そう見えるんだと思って」
「ひとり…」
ひとり、のところを繰り返さないで欲しい。
お一人様の映画鑑賞だって良いじゃないか。現在の私には一緒に映画に行くような男性はいないのだ。同性にいたっては既に何人か誘って振られている。予定が合わないのもあったが、見る内容に、周りの友達は興味がなかったようだ。
「ひとり、なら、俺も一緒に映画行っても良い?」
「…見るの、純恋愛ものだよ?それでも良いの?」
違う。本当に聞きたいところはそこではなくて!
何故一緒に見るのか、とか。
見る内容も聞いていないうちからその発言の理由とか。
「うん、大丈夫。だから、一緒に行っても良いかな?」
「…好きにして」
映画を見始めてしまえば隣に誰が居ようが集中してしまうし、大した問題ではないのだ。
そう、きっと。問題はない。
駅に直結した映画館に行けば、上映時間はすぐにやって来て、立ち話をする余裕もなく座席に着くこととなった。
座って隣を見れば、本編前の広告を見てる彼がいて。その横顔が懐かしいと思った。
中学生の終わりから高校生の始まりにかけて、長くない恋人期間だった私達。その頃の”付き合う”は、たかが知れていて、二人で遊ぶくらいが精一杯だった。その中で映画を見に来たこともあった。
当時、視力が少し悪かった彼は映画の時に眼鏡をかけていて、いつもと違うその姿に胸が高鳴ったものだ。
ゆっくりとした時間。ただ隣に居てくれるだけで幸せだった。
優しく笑いかけてくれる表情が好きだったな、と、今更ながら思い出される。
なんで別れたんだっけか。すぐに思い出せないのだから大した理由ではなかったのだろう。違う高校で距離が出来たとか、そんなんだった気がする。
じっと横顔を見ていれば、流石に気づいた彼がこちらを見て視線が合う。
何故か恥ずかしくなり、あからさまに視線を反らし下を向く。ちょうど広告が終わって本編が始まるところだったので、これ幸いにとスクリーンを見ることにした。
だから、彼が動いたことなんて、触れられるまで気づかなかった。
「っ!?」
声を出さなかった私を褒めてほしい。
予告なく触れられた手を見れば、抵抗が無いことを良い事に手を繋がれる。
それも、恋びとつなぎと言われるやつだ。
何をしているだ!と講義のつもりで彼を見れば、愉快そうに微笑んだ後、私の耳元に顔を寄せ、小さな声で告げた。
「嫌じゃなければこのままで。ね、歩美」
ぞくり。
久しく相手がいない私には刺激が強すぎる…!
一度、彼を睨みつけるように見て、そのままスクリーンに支線を戻す。
何も言わないのは、映画館だから。
抗議しないのは、もう本編が始まってしまったから。
手を離さないのは…。
結局。
映画が終わるまで手を繋いだままだった私達は、離すタイミングを失い、繋いだまま映画館を出ることとなった。
もっとも、タイミングを失ったと思っているのは私だけかも知れないけれど。
そのまま、会話少なめに夕飯に誘われ、特に用事もなかったので行くことにした。
向かった店は大衆居酒屋で、金曜日にしては時間が遅めだからだろうか二人で個室に案内されるくらいには空いていた。
夕方から映画を一本見たため、夕飯には遅く時間になってしまった。二人揃ってお腹が空いてきたこともあり、適当に食べるものを注文し、早々にお酒を飲み始める。
「乾杯」
短く言われた言葉に、軽くグラスを合わせる。居酒屋に入るのも、そこで一緒にお酒を飲むのも、付き合っていた頃からすればとても大人な行動に思えた。
実際には、お酒を飲むくらいで大人だと思う時期はとうに過ぎていて、今だけの感覚なのだろうけど。
乾杯と、お酒を口にして直ぐにおつまみが運ばれてき、お腹を満たすご飯にはならないが、食べずに置いておく訳もなく、箸を付けて食べ始める。黙々と食べる私はどう映っているのだろう。
チラリと彼を見やれば、微笑む表情が目に入る。
「…何」
「いや、まさか映画ならず酒までご一緒してくれるとは思わかなったから」
「そんなの…」
とても嬉しそうに微笑まれた。
なんでそんな表情するの。ご飯なんて、手を繋ぐよりもハードル低いと思うのだけれど。
違うのかな?
どことなく女慣れしたなぁと感じて少しムッとする。
「ねぇ、歩美。隣おいで」
「…っ!!なにを…!」
掘りごたつになっている座席の隣を軽く叩いて、呼びかけられた。それも、とびっきり優しい声で。
なぜ、ここぞと言うときばかり下の名前を呼ぶのか。付き合っていた時みたいに優しい声を向けるのか。
「…何、企んでるの」
純粋な好意として受け取れるほど子供ではなくなってしまった。素直に隣に行くには時間が立ち過ぎてしまったのだ。
「何も。隣に来てほしいだけ」
「隣、行くだけだからね」
話すのは正面でなくても出来るから。
心の中の言い訳は誰に向けたものなのか。グラスを持ち、ゆっくりとした動作で彼の隣へと座り直す。
座ってから、後悔した。映画館の続きみたいで、隣に座るのはとても緊張する。手を繋いでいる訳でもないのに、彼側の体から熱が募っていくようだ。
押し込めて、意識的に思い出さないようにしていた記憶が溢れてくる。
決して長くはなかったその期間は、時間が立ったからか、大部分が綺麗な思い出だ。
温かいなぁ…。
「達哉…」
今日、始めて彼の名前を呼んだ。付き合っていた時の呼び方。
ああ、綺麗で純粋な恋愛は出来なくなってしまったけれど。今隣にある温もりもりを離したくはないと思う。
お酒の入ったグラスを持ったまま、寄りかかるように彼へと体を倒した。何も云わずに受け止めてくれたのだから、彼も嫌ではないのだろう。
受け入れて貰った事実に喜びつつも、それをすぐさま表現は出来ずに、誤魔化すようにお酒を口に運ぶ。
お酒が強い方ではない。
けれども、お酒で失敗するほど飲んでいる訳でもない。
でも、お酒のせいにしてしてしまおうか。
優しい手付きで頭を撫でられれば、もっとというようにすり寄ってしまう。
「歩美、猫みたいだね」
「…は?」
甘ったるい雰囲気を出してたかと思いきや、まさかの猫発言。思わず今までの雰囲気も忘れて低い声がでた。寄りかかっていた体を起こして、批難の目を向ける。
「ごめん、怒らせる気はなくて。警戒してた猫が、気を許したみたいだなって」
「…なにそれ」
言われてみればそのとおりなんだけどさ。
確かに警戒してたし、アルコールが入ったあたりからもう良いかなぁと絆されたけど…!
「歩美、可愛い」
「……チャラい」
「本当のこと言っただけなのに?」
そうところがチャラい!
そんなキャラしてなかったでしょう。もっと内気な感じで、恋愛なんて馴れていないって感じで。
…馴れたんだ。私もそれなりに恋愛をしてきた。彼だって同じように、誰かと恋愛して、今の彼なんだ。
映画館で横顔を見たように、今度は、正面をまじまじと見つめる。
昔かけていた映画館での眼鏡はしてなかった。髪も色は黒で変わらずだけれど、ワックスを使って社会人としてきちんと纏められている。昔はその髪に触っていたのに、今触ったらベタベタしそうだ。
昔とは違う、今の彼がいる。
「歩美、おいで」
それでも、名前を呼ぶ声は変わっていない。離していた体を、今度は彼の胸に額をくっつけた。
「狡いよ」
「狡い?」
「狡いよ…。名前を呼ぶのも、優しくするのも…」
錯覚する。彼が私のことを好きなんじゃないかって。私が彼のことを好きなんじゃないかって。
「…顔上げて」
言われて言葉にゆっくりと顔を上げれば、彼はちょっと困った表情をしていた。
一度、何か言いたげに口を開いたが、声にはならず、そのまま閉じてしまう。不思議に思って首を傾げるが、それにも表情を変えずに少し笑うだけ。
「先に謝っとく。ごめん」
言い終わるのが先か、唇に彼のソレが触れるのが先か。
キスされた。触れるだけの彼らしい優しいキス。
恋人ではないし、そんな話をしていた訳でもない。先に謝っとくとは、そういう事か。
抵抗することもなく、彼の行動を受け止めていれば、気を良くしたのか、深いキスに変わる。大人なキスだなぁ、と頭の隅で考える。
困った事に嫌じゃないのだ。大人になって、綺麗な恋愛は出来なくなったけれど、誰でも良くなった訳でもなかったから。
好きになったわけではない。
思い出しただけなんだろう。好きだった頃の気持ちを。
「…付き合おう」
「へ…?」
彼も同じように思い出しただけだと思ったのに。
だから、付き合うとかそんなことはなくて。その場限りの盛り上がりで、明日には忘れてしまうような、そんな熱だと思ったから。
「嫌?俺は、きちんとしたい。流されているだけだと思われるかもしれないけど、今、離したくないと思ったのは本当だから。だから、離れないように、引き止めていられる理由が欲しい」
真剣な表情で、真っ直ぐにこちらを見て話す彼に、少し泣きそうになった。
「…うん。嬉しい」
私も彼も好きだとは口にしてないけれど。大人になった私達にはこれくらいの理由で良いのかもしれない。気持ちは後からでもついてくるだろうし、ついてこなかったらその時はまたさようならをすれば良い。
その方法を、私達は知っているだろうから。
今はただ、この気持ちの良い熱にうなされていたい。