第21話『新たな狗』
アズィールさんと自室に戻ったは良いものの…
「やる事がありません…。」
独り言のつもりで呟くとアズィールさんが
「あー…あ!じゃあ文字のお勉強致しましょうか!」
と気を利かせて下さいました。そうだ、文字のお勉強しないと皆さんにご迷惑を掛けてしまいます。
「そ、そうですね!
教えていただいても宜しいですか?」
「えぇ!お任せ下さい!バアルさん程では有りませんがちゃんとお教え出来るかと思われます!じゃあ俺ノートとペンと本を持ってきます!」
満面の笑みで答えて下さったアズィールさんは足早に部屋を出られた。私もその間に何かしよう。えーと…椅子は二脚あるので足りますね。
あと何が必要でしょう。うーん…ん?後ろから何かの視線を感じるような…。
そう思って紫色に染まる空を見せてくれる窓の方へ振り向く。けれど誰も居ません。
「私の気のせいですね。あれ?」
よく見たら棚の上に水槽が…。アレは確かウェパルさんがメンダコさんを入れていた物…。取ろうにも高い棚なので手が届きません。脚立はこの部屋の何処かにありますかね。
そう思って思い当たる場所を探しましたがどこにもありませんでした。その分、昨日ティリア様と出会ってすぐに入れてくださったお風呂でお話していた塗り薬をドレッサーの引き出しの中から発見しました。
ちゃんと使わないと。水槽は後ほどアズィールさんに取っていただきましょう。
「ユムル様!お待たせ致しました、入室しても宜しいでしょうか!」
アズィールさんが戻られました。
「はい、ど、どうぞ!」
「失礼致します!」
入室なされたアズィールさんは片手に5冊ほど積み上げられた本の塔をお持ちです。また片手にはティーポットとカップが乗ったトレイを持っていました。どうやって扉を開けたのでしょう…?
「机失礼致しますねぇ。よいせっと。」
ズシンという音が聞こえるくらい重い本の塔を片手で…凄いです。
「ユムル様、お席にお着き下さい。
まずは紅茶でリラックスです!そうすれば集中力が上がって頭が働きやすくなりますよ!」
紅茶を注いでくださるアズィールさんに従い椅子に座る。紅茶の柔らかな良い香りがしてきました。
「はい、どーぞ!良い感じに入れれましたよ!
アズィールオリジナル茶葉ブレンドです!」
彼はにぱっと笑いながら高そうなソーサーに高そうなカップを置いてくださった。
「わぁ…とても良い香りです!頂きま…」
また視線?
「ユムル様?」
向かい側で立っているアズィールさんが首を傾げたので背後には誰もいなかった…となるとやっぱり私の気のせいですね。
「すみません、何でもないです。紅茶、頂きます。」
「はいどーぞ!」
「……とても美味しいです!」
素直に感想を言うとアズィールさんの笑顔がもっと輝いた。
「良かったぁ嬉しいです!ブレイズさんに学んだかいがありました!」
「アズィールさんは勉強熱心ですね。」
「へへ…ユムル様程ではありませんよ。それ飲んだらお勉強しましょう!」
「はい!お願い致します!」
…
「はぁあ…。」
広々とした謁見の間にティリアの大きな溜め息が響く。彼が足を組んで頬杖をつく玉座の隣でバアルは無表情で拍手を送った。
「お疲れ様でございました。このバアル、貴方様の強さに惚れ惚れしてしまいました。」
「揶揄わないで。この姿になると暫く元に戻せなくなるんだから貴方は掃除せず傍に居なさい。血の匂いも消えていない此処にユムルが何かの間違いで来ないように。」
今の謁見の間は柱や床に血溜まりや血飛沫を残しており、使用人達が掃除をしている最中だった。
「畏まりました。傷1つ無く相手の返り血で染まるそのお姿で玉座に座る坊ちゃんは先代様のよう。お美しいですよ。」
「ま、パパの顔とスタイルだけは好きよ。」
「ふ…素直ですね。」
「うっさい。アンタもケルベロスの餌にするわよ。」
「それは困りますねぇ…。おや?」
バアルがふと入口を見たことが気になり、ティリアも視線を追った。
「何?」
「シトリが居ませんね。」
「あら……って何ですって!?あの子…
透明になって何するか分からないじゃないっ!!」
…
「という事ですが…どうでしょう?
まずは1字ずつ覚えていくというのは。」
アズィールさんの教え方が分かりやすくて文字に関して理解が出来ました。
「はい、ただ文字が違うだけで読めれば問題ない事が分かりましたのでそうさせて頂きます。」
「えぇ、それが良さそうですね!
お疲れ様でしたユムル様!」
開いた本を積み重ね始めるアズィールさんに御礼を言わねば。
「アズィールさん、私の我儘に付き合って下さり本当にありがとうございました。とても助かりました!」
「お、お役に立てて何よりですっ!もうすぐ夕食のお時間ですので宜しければそのままお寛ぎ下さいね!」
「ありがとうございます…あ、そうだ。
アズィールさん、お願いが…。」
「何なりと!」
「あの水槽を取っていただきたくて…」
「水槽?」
私が棚の上を指さすとアズィールさんが目で指の先を追います。
「あ!あれウェパルのですね!アイツ勝手に入って勝手に置いたな!!なんと無礼な!少々お待ち下さいね…っと。」
生やした翼で浮いて水槽を取って下さいました。
着地して中を見せてくださる。
「あ、これクラゲが入ってますね。」
白や水色の半透明な身体を持つクラゲさんがふよふよと水中を漂っていました。
「クラゲさん…真ん中のお花みたいな模様が可愛らしいです。」
アズィールさんは水槽に付いていた紙に気付く。
「紙があります。えーと…?」
“クラゲ君をユムル様にあげます。ご飯は隣にある粉末を適当にあげてください。癒されますよ。僕がクラゲの状態を確認しにお部屋へ通わせて頂きます。”
「…ですって。相変わらず汚い字だなぁ。餌適当はダメだろう…。」
「あ…あはは…1回にどれだけの量の餌が必要か聞いてきましょうかね。」
するとアズィールさんが慌て始めました。
「あ、お、俺が聞いてきます!
ユムル様はお部屋から出ないで下さい!」
扉の前に立ってしまいました…。
「何故ですか?」
と聞くと首を横に思いっきり振るアズィールさん。
「な、何でもですっ!俺聞いてきます!!」
あ、出ていってしまいました。…大人しくしていま…
また視線…。アズィールさんもいらっしゃらない事ですし思い切って…!
「あ、あの…!そこに誰かいらっしゃるのですか…?」
なんて…私ったら何して
「透明化がバレましたか。
嗚呼、流石でございます…!」
私は目を疑いました。窓のすぐ側で何も無い所から人が現れたのですから。ティリア様と同じくらいの身長の細身で髪の毛が腰より長め、前髪まで真っ黒ぱっつんさん…声からして男性ですね。瞳も黒…私と同じです。それに女性も羨む白い肌、首にベルトのようなチョーカーが付いています。
アズィールさんと一緒のお洋服…つまり使用人さん。何故此処にいらっしゃるのでしょう…。
「ど、何方ですか…?」
震えた声で尋ねると男性は頭を下げました。
「こうしてお話するのは初めてですね。お初にお目にかかります。
ボクはシトリ=グラシャラボラス。貴女様の狗です…!」
頭を上げたシトリと言う方の表情は蕩けそうなお顔です…。って私のい、狗!?す、少し怖い方です!
「え…と…」
言葉に詰まっているとシトリさんは私に近づいて私の手を掬い、跪いてしまいました。
「何なりとご命令を、ご主人様!」
「ご??ごしゅじ?」
「はい!」
眩しい笑顔ですっ
「な、何故ですか?
シトリさんのご、ご主人様はティリア様では…?」
「確かにそうですがボクは貴女様に仕えたい。」
わ、私?シトリさんの手は少し力が篭もりました。
「昨日の人間という脆い生物にも関わらず自己犠牲を厭わないという貴女様の痺れるお話、あのティリア様にあのバアル殿を使って抑える行動力!」
う…あのティリア様に、バアルさんを使って……確かに使ったと言われるに等しいことをお願いしてしまいました…。改めて言葉にされると心苦しいですね…。
「このシトリ、感服致しました…!故に貴女様の狗になりたいと思いました。ストレス発散から殺しまで何なりとお申し付け下さいませ、ご主人様!」
早口でキラキラした視線が辛いです!
それに殺しと仰ったような!
「あ、あの…」
「はい!ストレス発散にボクを痛めつけて下さって構いませんよ!!ボクにとっては寧ろご褒美ですが!!」
息を荒くして興奮されてます…!シトリさんは危ないお方です!!!だ、誰か助けて下さいっ!
「「ユムル様!」」
チュチュさんとアズィールさんです!良かった!!
「チッ…邪魔が入った…。」
「こらシトリ!!ユムル様から離れろ!」
「バカ猫に指図される覚えはない。」
ベッと舌を出してアズィールさんのお話を拒否してます…。
「シトリ君!お片付けサボっちゃダメだよ!」
「何のことでしょう?」
チュチュさんのお話にもお惚けしてます…。
「し、シトリさん…お話聞きましょう…?」
「畏まりました!」
「「差が酷いっ!!」」
「ボクはユムル様の狗。
ユムル様とティリア様以外に興味はありません。」
肩を抱き寄せられ私の頭に顔をスリスリなさっているシトリさん。アズィールさんは震える手で彼を指差す。少しだけ血のような匂いがするような…気のせいでしょうけど…。
「ユムル様、コイツ極度のドMなんですよ!
危ない奴です!」
「どえむ?」
「痛めつけられるのが好きな人の事ですよ!」
「え…!?」
そんな危ない事がお好きだなんて…!
「ふふ、だってそれが快感なんですもの。
仕方ないでしょう?」
頬に手を添えてうっとりするシトリさんに恐怖の感情を覚えてしまう。でも…
「シトリさん…。」
「はいっ!」
「ご自分を大切になさって下さい。
貴方が傷付くのは嫌です…。」
「え。」
シトリさんの目から光が無くなりました!
お、怒られる…!ですがこれで嫌われたのなら!
「ご主人様…
嗚呼、何とお優しいのでしょうっ!!
このシトリ=グラシャラボラス、
ユムル様に一生ついて行きますっ!!」
怒られたり嫌われたりするどころかもっと気に入られてしまったようです!どうしましょう!
更に今抱擁されています!
「チュチュさぁん…アズィールさぁん…」
「多分ユムル様の事なら言うこと聞きます!
俺らじゃダメです!」
「えぇ…!?し、シトリさん!
すみませんが離れて下さい!」
「な、何故ですか…?ボク悲しいです…。」
涙目です!?更には幻覚なのかワンコさんの尻尾が下がったようにも見えます。
泣かれてしまってはどうしようも…
「騙されないで下さいユムル様!
チュチュ知ってるんですよ!その顔が嘘だってこと!」
チュチュさんの言葉にシトリさんはむっとなさる。
「心外な、嘘ではない。
ご主人様と離れるなんて辛すぎますでしょう?
拒絶の為に罵倒して頂くのなら構いませんが。」
「しません!」
シトリさん、本当にアズィールさんとチュチュさんのお話を聞かないのですね、どうしましょう。
困っているとアズィールさんが呆れながら口を開きました。
「おいシトリ、ユムル様に恋愛感情抱くと若様に殺されるぞ?」
「恋愛感情だと…?ボクにそんなモノあるか。
ご主人様に失礼だろう。」
「は?」
シトリさんは私を離さずに話し始めました。
「ボクがご主人様に抱いているのは絶対的な服従心、一生の奴隷でありたいと願う気持ちだけだ。
それ以上でも以下でもない。」
服従心!?奴隷!?
私には耐えられなかったものです…。
シトリさんは凄いですね…色々な意味で…。
「それと痛めつけて頂きたい。
この細くしなやかな手で打たれたい、首を絞められたい。小さなこの御御足で踏みつけられたい、小さなこのお口で罵られたい…
嗚呼、是非今すぐにでも全て行って頂きたいっ!」
ゾワゾワと鳥肌がっ!
こ、怖いです!助けて下さい…っ!
「てぃりあさまっ!」
つい口からティリア様のお名前を出してしまうと
「ユムルから離れなさい!この駄犬!」
「ぐぇっ」
本当にティリア様のお声が聞こえ、シトリさんから解放されました。
よく見るとティリア様がシトリさんの首根っこを掴んでいます。
「嗚呼ティリア様、
もっと強く引っ張って頂きたく!」
「黙りなさい。
アンタの要望は聞いてないわシトリ。」
「はぁいっ!」
怒られているのに嬉しそうです…。
「ユムルを困らせないでちょうだい。
殺されたいのかしら。」
ティリア様がギロリと睨みつけるとシトリさんは興奮気味に思いを伝えました。
「死なない程度に痛めつけられたいとは思っておりますぅっ!」
「そう言われてやる訳ないでしょお馬鹿。
ご褒美あげて何になるのよ。」
パッと手を離したティリア様は私の傍へ来て下さる。
「それは残念です。ご主人様は非常にお優しいのであまりしてくれなさそうですし。」
「あ、アンタ…ユムルをご主人様にしたの!?
やめてちょうだい!
可憐で純情なユムルが変になっちゃうわ!」
「無理ですよ。ボクの忠誠心は伊達じゃないので。
ユムル様の狗となったからにはお傍で働かせていただきます!報酬は叩いて頂くだけで十分です!」
「わ、私…そんな事したくないです。シトリさんはシトリさんです。私のワンコさんじゃないです…。」
シトリさんの勢いに押されつつ思いを伝えるとティリア様は眉を下げてしまいます。
「そうね、ユムルの下僕としての狗では無いわね。
だけどコイツは空飛ぶ犬の悪魔なの。一応犬よ。」
「え!?」
そうなのですか!?驚きの視線を向けるとシトリさんは息を一段と荒くする。
「ご覧になりますか?!
足を思いっきり踏んで頂ければ直ぐにでも姿を変え」
「黙らっしゃい馬鹿犬。
ユムルが嫌がる事しないで。」
「……はぁい。」
あれ?急に素直ですね。
な、何を考えていらっしゃるのでしょう…?
「ボクは貴女の狗ですから。
ご主人様の喜びはボクの悦び、ご主人様の悲しみは
ボクの哀しみです。ボクの1番は貴女ですから。」
し…
シトリさんが初めてまともに見えました…。
「ユムル様!騙されてはいけません!シトリ君は痛めつけられたいーとか自分1番ですから!」
チュチュさんが私の手をとりました。
するとシトリさんから「グルルルル…ッ」という唸り声が聞こえます。
「ひぇえっ!」
怯えたチュチュさんは私の後ろに隠れてしまいました。
シトリさんは寂しそうなお顔で私を真っ直ぐに見つめてきます。
「嘘じゃないですもん。
勿論、痛めつけてくださるなら歓喜ですが…ご主人様はティリア様と同じではございませんからボクはずっとお仕えしてるだけ。ね?従順な狗でしょう?」
「シトリさん…」
「それに要望を無視されるなんて放置プレイみたいじゃないですか!それはそれで興奮するんですっ!!」
先程芽生えた感情を一瞬で潰されました。
「ったく…仕方ないわね。ユムル、耳貸して。」
「はい。」
ティリア様が私の左耳に囁く。
「あのね…シトリにこう言いなさい?」
…え。




