食人鬼の幼馴染の好物は。
その日はどうしてか本屋で立ち読みやら物色やらを長々としたい気分で、久しぶりに遅めの帰宅となった。
すっかり夜の帳が下りてしまい、肌を撫でる風はやや冷たい。
三月下旬は季節的に春と言ってもいいのだろうけれど未だに冬の残滓が漂っている、それもまた悪くはない。
少しくらい肌寒いのが自分には心地良くて過ごしやすい。
この余韻に浸たりたいがために散歩でもしてから帰ろうと、いつもとは違う道を通ったのだが、これまた季節とは関係なく妙な匂いが鼻孔を刺激した。
あまり嗅ぎ慣れない匂いは脇道の奥、ふらりと足がそこへ動いた。
光がすっかり届かなくなり虚のような空間になっていたそこには何か黒い人影が二つ見えた。
本来であればここは見なかった事にして素通り、若しくは踵を返して全力で逃げるものだったが今日の自分はどこかおかしい。
先ほど得た心地良さが悪戯に僕の心を麻痺させたのかもしれない。
脇道へと足を踏み入れる。
まあ、実のところもう一つ理由があったのだ。
その黒い人影の一つは、見覚えのある背中だった。それは小さな背中で、なんといってもその黒く絹糸のような綺麗な後ろ髪は印象的。
適度に撫でてみたい衝動に駆られる、この気持ちは男子ならば共有できるものではなかろうか。
CMのように、あれほど指で撫でるだけでサラサラと綺麗に一本一本がふわりと流れていくものなのか、試したくはない? 試したいよね。
しかし試すのは、今でない事は確実だ。
――グチャ、ボギャ。
そんな音はどういった表現をするべきであろうか。
簡単に説明するのならば何かが潰れる音、骨が折れる音、といったところだがもう少しひねった表現をしてみるとしたら……我ながら脳細胞一つ一つがこれといって優秀とは言えないために適した語彙を引き出せずにいる。
ならばここは思い切った感じでいってみよう。
――あれは何かが、何かを食べる音だ。
後の音はその際に骨が折れるか砕けた音だろう。
続く咀嚼音。さぞかしジューシーなものでも食べているようで汁のすする音さえ聞こえてくる。
この時点でやはり数メートル先で起きている事はただならぬ事に違いないのだが、足音を殺して僕はまだ一歩、二歩と進めていた。
同時に心臓の鼓動も跳ね上がっていき、もはやこの心音は背を向けているその人物に聞こえるんじゃないかという心配もあるが、いいやしかしそんな心配など意味があるのかどうか。
“気づいてもらいたい一心”で近づいているのに、聞こえるんじゃないかと心配するのはお門違いだろう。
我ならば馬鹿らしい思考を働かせたものだ。
思えば足音を殺すのも、何ともだなと、次の一歩は少し大きめに踏み込んだが、その右足は何かをクシャリと踏んだ。
心臓が喉から出てくるかと思った、僕は何を踏んだんだ? そんなに固いものではなかったようだが……。
ああ、空き缶か。
このご時世、ポイ捨てに関しては厳しくなっていく一方、やはり人目を盗んでポイ捨てする奴はこういった人通りが少ない場所ではポイ捨てし放題だ。
特に煙草のポイ捨ては多いね。これだから環境問題は一向に解決しないんだ。
「……あぁ?」
ポイ捨て云々のお話は、現状ではまったくどうでもよく。
僕としても別にどういうつもりもなく。
しかしながらどうにかしたい気持ちは……ん、まあどうしようもないので結局一周回るとどうでもよく。
意識を地面から目の前の少女へと移す。
交差する視線、宝石のような円らな瞳が睨むようにして僕を見る。
すくっと立ち上がっては、少女はゆっくりとこちらを振り向く。
おやおや口のあたりは血で真っ赤だ。メイクを失敗したにしては豪快だな。赤い口紅の量も使用する素材も間違えたんじゃないか。
血のように滴っているね。
……血だね、間違いなく。
間違えていたのは僕の思考で、明らかにメイク云々の話ではない。
「やあ」
「……どうして貴方がここに?」
「散歩」
その口は耳のあたりまで、まるで小学生が描く雷のような裂け方で到達していた。
漫画などで出てくる口裂け女とは違って、酷い裂け方をしているわけではなく、綺麗な裂け方。
だから素直に、綺麗だと、思った。
彼女は口元を拭い、右手に持っている何かを地面へ捨てる。
人の腕に見えるのは気のせいか。引きちぎったかのような断面、右手肘から上の部分は生々しい。
「何してるの?」
「食事」
「食事か」
何を食べていたのかは問うまい。
答えは既に出ている。言わばステーキを食事中の方に、今何を食べてるの? と聞くようなものだ。
大きく裂けた口は徐々に閉じられて元の、頬と唇に戻っていく。おおっ、見ていて面白い。
「驚かないんだ」
「いいや、結構驚いているよ。実は顔には出ないタイプでね。まさか幼馴染が人を食っていたなんて、思いもよらなかった。なんていうか、人を食ったような態度をとる人ではないからね」
軽い冗談を言ってみる。
「そんな態度はとらないけど、人は食うの」
「そのようだね」
やれやれ……。
冗談に乗ってくれると思ったのだがスルーか、悲しいね。
「逃げないんだ」
「どうして逃げる必要があるんだ? 幼馴染と会ったらそりゃあ世間話の一つくらいはするだろう?」
心臓の鼓動は相変わらず激しく脈動しているが、今は緊張からではなく、別の意味での脈動をしている。
「場所が場所だし、状況が状況だから」
「言われてみれば確かに世間話をするには、世間離れしたような場所すぎるか」
ここから先は足を進める事はできない。
きっと足の裏にはちょっとした粘着質のあるものが付着するだろうし、それは足跡となって僕の痕跡を残してしまう。
「こんなに散らかして、どうするの?」
「後片付けする人がいるから、大丈夫よ」
「そうなんだ。それなら安心だね。ハンカチ、使う?」
「いい。タオルあるから」
「準備がいいんだね」
「準備しないと、できないもの」
それもそうか。
例えるなら泥んこ遊びをすると決めているのに長靴や着替えなどを一切持たずに泥の中に飛び込みに行くようなものだ。
彼女は鞄からタオルと水を取り出した。
先に水で両手を洗い、次に顔にかけてタオルで顔を拭い、ふぅ――と可愛い吐息を漏らしては両手を拭う。
血を拭うのは慣れているようだ。
「メイク落ちちゃった」
「すっぴんでも十分に可愛いよ」
「……ぁそ」
ぷいっとそっぽを向いて、味気ない返事をする。
「警察に通報する?」
「どうして?」
「だって私、人を食ってたんだよ」
「通報しようとして、君に食われるというシナリオもありか」
「貴方、何を考えてるの?」
不思議そうに彼女は首を傾げた。
そんな仕草も可愛らしいなと思いながらも、僕は答える。
何を考えているのか、正直に。
「昔から気にはなっていたけど、ますます気になる存在になってしまったし、一緒に帰ろうと誘おうと思っていたんだけど、もしかしたら断られるかなと不安に駆られているよ」
「一緒に帰る? 私と?」
「そうだよ、昔のように。昔からのように。数か月前のように。久しぶりに」
「てっきり逃げると思った」
「どうして逃げるのさ」
「人喰いを前にしているのよ、貴方」
「僕の前には幼馴染と、人だった肉しかいないよ」
そう言うと彼女は深いため息をついた。
一体そのため息にはどんな意味が込められているのだろう。
僕が思うに、どこか呆れたような感情があったような気はする。何か彼女を失望させてしまったのだとしたら、それはとても辛い。
「帰りましょう」
「一緒に帰ってくれる?」
「別に、いいけど」
彼女の足音はニッチニッチと粘着性が混ざっていた。
足の裏にはたっぷりの血と肉片が付着しているのだろう。
赤い足跡もくっきりと地面に刻んでいる。これはこれで、俯瞰で見るならちょっとした芸術ではなかろうか。僕は美しいと思う。
彼女はまた鞄に手を伸ばした。
中から出てきたのは黒のゴミ袋と新しい靴だ。
靴を履き替えて、ゴミ袋には血痕混じりの靴を入れる。一度の食事で恐ろしいほどの出費だな。食費は大丈夫なのだろうか。
明くる日、いつもと変わらない朝が始まった。
てっきり僕には明日はこないと思っていたのだがどうやらそれは杞憂に終わったようだ。
彼女の胃袋の中で目覚めるのも、まあいいかなと思っていたのに。
思えばこの街は行方不明者が多いとの事で有名だ。
退屈な街だったしどこか別の街へ去っていっただけだろうとばかり思っていたがどうやら真実を知ってしまったらしい。
今日は久しぶりに早めの登校をして彼女を迎えに行った。
昔のように。昔からのように。数か月前のように。久しぶりに彼女と一緒の登校をする。
大学受験を控えているのもあって、徐々に幼馴染とも疎遠になっていたが、また昔のような付き合いをしたかった。
昨日を機に、本当の君を見てその気持ちは沸点に到達したかのようだった。
「誕生日、そろそろだよね」
「そうね」
彼女は、いつもと変わらず、今日もまた……美しかった。
昨日、人を食っていたとは思えない。逆にこっちが食っちゃいたい、なんて。
そういえば昨日の事はニュースにはなっていない。朝のニュースはこれといった事件は取り上げられておらず、あまり興味のない芸能人の結婚ニュースでもちきりだった。
誰々が交際を始めた、誰々が結婚した、誰々が別れたっていうのを一々ニュースにしなくてもいいじゃないか、なんて思いながら朝食を食べていた。
幼馴染の食事を思い出したものの、不思議と食欲が減退する事はなかった。もしかして僕は少し、変なのかな。
「どこか食事でもいかない? 君が本当に好きな食べ物って、何?」
「悪人の肉」
「悪人の、肉?」
「ええ、人は悪い事をするとね、その肉はとても美味しくなるのよ。知らなかったでしょ」
「知らなかった、勉強になったよ」
その味を知る事は今後もないだろう。
どんな味なのかは興味があるが。そして僕自身も、どんな味になっているのだろう。悪い事、これまでは具体的にこれといった悪事を働いた事はないが、ああしかし昨日は人が人を食べているところを見たけれど警察には通報しなかった。
このまま隠し通してしまおうとしている。これは立派な悪事だ。
ならば僕の肉は昨日の時点で美味しくなっているのだろうか。試食してもらうのも一つの手ではある。
「じゃあ誕生日ケーキは毎年贈っていたけど、今年からはやめたほうがいいか」
「いいえ、あれはあれで…………嬉しいわ。ああ、そう、その、食後の、ええ、食後のデザートとして」
「よかった。なら今年も贈るよ」
でもどうせなら君が喜ぶものを贈りたい。
悪人の肉、か。それを用意するにはどうしたらいいだろう。
僕が想像する悪人は、ぱっと思いつく悪人は一人いた。
一人いたんだけど、つい最近になってそいつは行方不明となった。
学校の、不良だ。時々僕を暇つぶしにいじめにくるような奴だった。行方不明と聞いて、今後は学校生活に不安を引き連れる事はないのだなと一人ひっそりと安堵していたが――いやしかし待てよ、と。
「最近、学校の生徒を誰か食べた?」
「どうだったかしら、食べたかも……しれないけど。ほら、スーパーの牛肉って何処産かはパッケージに表記されているけど何処の農場から来たかなんて載ってないじゃない?」
「そうか」
「ああでも、貴方は昔からの付き合いだから、他の人間より、区別できてるわよ」
「それは嬉しいね、うん、嬉しい」
「……一つ聞いていい?」
「何?」
「警察にも通報しないし、今日は普通に接してくるし、一体何が目的なの?」
「目的と言われても……」
彼女は困惑していた。
どうしよう、別にこれといった目的などない。今日だって昨日の事があったとはいえ、しかし最近幼馴染とは関係が疎遠だなと意識した結果、迎えにいっただけなのだ。
目的などない、他意はあろうと。
「強いて挙げれば、ただ君を知りたいって事かな」
「知りたい、ですって?」
「幼馴染なのに、君の事を全然知らなかったと昨日痛感させられてね」
「……ぁそ」
昨日と同じく、味気ない返事。
「君は僕を食べようとは思わないの? 気が変わって警察に駆け込むかもしれないんだよ」
「どうしようかしら。食べてほしい?」
「それも悪くない」
「でも貴方は美味しくないから、食べたくないわ」
「それは……残念だ」
どれだけ悪事を働けば僕は美味しくなって君の好きな食べ物になれるのかな?
悪事という下味はどれくらい漬ければいいのだろうね。
「何よ、自殺願望でもあるの貴方」
「どうなんだろう」
自分の事でありながら中々理解し辛い自分がいる。
しかし君に好かれたいという気持ちは、どうしてか今までずっと心の中で眠っていたようで、それは昨日呼び起こされた。
「……食えない人ね」
「君に食べてもらえるようになりたいよ」
彼女の好きな食べ物を用意するにはどうしたらいいか。
もう彼女の誕生日まで時間が無い。僕はどうにかして用意してあげたかった。
最初は悪人を探してみるとした。
夜の街を歩いていれば悪人らしき人達がいるにはいるが、人は見た目によらないという言葉が浮かぶ度にぱっと見の印象で判断すべきではないだろうと自分を叱りつけた。
結局のところ、深夜まで街をうろついては、躊躇しての繰り返しで悪人の用意などできもしなかった。
何より準備も不十分だ。
明らかに悪人っぽい奴がいても、さあどうするかっていう話だ。
人を無力化するために用意するもの。
先ずは縄、縛るために必要だよね。
次はそうだな、鈍器なんかがいい。頭をガツンと、意識を頭の外に追いやるに十分な攻撃力を持つものが最適であろう。
そして次に必要なものといえば、無力化した人間を運ぶ道具。
一番適しているのは車で間違いないのだがまだ免許も持っていない。
更には足がつかないためにも顔を隠すものも必要だ。
そして何より、人を傷つけるという度胸が、一番に必要だった。
なので、用意するものリストを頭の中で構築したもののそれらは用意される事無く、ならば手っ取り早く自分が悪人になればいいのではと、まるで頭の上に電球がぴこんっと浮かんだかのような気分になってコンビニへと立ち寄った。
悪人になるには。
……煙草を買って吸ってみるとか。
酒を買って飲んでみるとか。
万引きしてみるとか。
店員に絡んでみるとか。
……小悪党な事ばかりなら思いつくのだが、それら全てを実行したところで自分は果たして悪人になれるのか、疑問なところであった。
まあしかし。
試してみる価値はある。
ということで、一度に二つの悪事を働くべく酒を万引きしようと僕は手を伸ばした。
――が、その手を、何者かがすぐに掴んだ。おいおい、これから万引きするつもりであってまだ未遂だよ。
「何するつもりよ」
「……なんだ、君か」
「あら、なんだとはたいそうな言い草だこと」
「こんな時間にどうしたの?」
「小腹が空いたから、買い物」
「そうか。別に小腹も悪人で満たすわけじゃあないんだね」
「そりゃあそうよ。お菓子も食うし学校では学食でちゃんと人間の食事を摂ってるじゃない」
言われてみれば、思い返せば確かにそうだった。
昨日の印象ばかりが先行して、どうにも記憶に齟齬を生じさせていた。
「たまに小腹は悪人で満たすけど」
「夜の街をふらついて酒を万引きしようとしている奴は悪人に入るかい?」
「入らないわね。それをやっても、貴方は美味しくないわよ」
それは残念だ。
やはり悪人を見つけたほうがいいのか。
彼女は肉まんを買っていた。人肉まんじゃないよね? そう聞いたものの「馬鹿」というお言葉を頂いた。否定できない。僕は馬鹿だ。
肉まんは二つあった、んっと差し出されて近くの公園で僕達は肉まんをほおばる。
少し冷える夜で、丁度小腹も空いているとなるとたとえ肉まんであろうとも、なんとも美味しいものだ。
湯気も実に見た目から美味しさを彩ってくれている。たまらないねこれは。
しかし君に何か贈るつもりで彷徨っていたのに、結局君に肉まんを奢ってもらっているとは、何とも情けないな自分は。
「後少しで君の誕生日だ」
「そうね」
「また去年のような退屈なものを贈る事になってしまうな」
「……別に、それでも構わないわ私は」
「僕は構うよ。何が何でも君には、君が好きなものを贈りたい。悪人をすぐ見つけてくるか、これから悪事を働いて僕が美味しくなってみせるよ」
君のためにも、この想いは、加速していくばかりだった。
肉まんをばくばくと食べてエネルギーを補充した僕は、勢いよく立ち上がる。
しかし彼女は、僕の裾を引っ張って腰を下ろさせた。
「美味しいか不味いかじゃなく、そんな事をすると貴方は私の嫌いな食べ物になってしまうわ」
「……嫌いな食べ物、か。君の好きな食べ物になりたいのに、それは困ったな」
「貴方はいつだって…………私の好きな食べ物だったけど」
「えっ、でも僕は悪人じゃないんだろう?」
「そういう事じゃない。馬鹿」
あ、耳まで真っ赤になっている。
彼女の口端に亀裂が生じ、それは耳まで走っていく。
口を大きく開けて肉まんを一口で食べ終えた。
なんていうか……可愛いな。
それにしてもとんだ無駄骨だったのではなかろうか。
君の好きな食べ物を用意できなかったから、君の好きな食べ物になろうとしてみたのに、どうやら僕はいつの間にか君の好きな食べ物になっていたらしい。
それでも食べてはくれないようだが。
食わず嫌いならぬ。
食わず好きというものであろうか。