第4話
ウィリアムがお城を発って、もう二週間になる。こんなに長い間来てくれないのは初めてだった。一週間とか間が開くときは、合間に手紙をくれていたのに、今回はカードの一枚も届いていない。
『君が一番幸せになれる道を選びたいんだ』
それが、最後に聞いた彼の言葉だった。私の幸せと言いながら、私の知らないところで決めようというのかしら。私の言葉を、どれだけ本気にしてくれたのかしら。もっとちゃんと、何回も言えば良かった。いいえ、そもそももっと前から言っておけば良かったわ。
ありがとうって。助けてくれて、育ててくれて、綺麗なお城を作ってくれて。私は幸せだから、ウィリアムにも幸せでいて欲しいのに。ふたりでずっと仲良く暮らせれば、私はそれで満足なのに。革命だとか王様だとかもどうでも良いの。私は──彼が好きなだけなのに。
いつもの図書室で、本を広げたまま、溜息ばかりを零していると──かちゃ、と茶器が置かれる音が私の意識を惹き戻した。それに、鼻をくすぐるお茶の香りが。
「旦那様がいらっしゃらないと寂しいですね、お嬢様」
「エリオット……」
「この爺でよろしければ、お話し相手を務めさせていただきますが」
お盆を手に微笑んでいたのは、執事のエリオットだった。よろしければ、なんて言いながら、私が答える前にさっさと向かいに腰を下ろしてしまう。思えば、この二週間、私は使用人たちに対してもとても無口だった。それを、心配してくれたのかしら。申し訳ないとは、ずっと思っていたんだけど。でも、私だってずっと考え込んでいたのよ。でも、それでも、そろそろ聞かない訳にはいかないのかしら。
「……貴方たちも、知っていたのよね……?」
「はい。申し訳ございません」
少し迷ってから尋ねてみると、エリオットは深々と頭を下げた。何を、とか詳しく言わないでも通じたこと、変な言い訳を聞かずに済んだことにほっとして、私の舌と気持ちはほんの少しだけ軽くなる。ウィリアムと違って、エリオットは私の聞いたことにすんなり答えてくれそうだった。
「黙っていたのはウィリアムの言いつけ?」
「それもありますが……今のこの国に、王女様の居場所はないから、でしょうか。王女様などではない、可愛らしい無邪気なお嬢様でなければ、クローディア様は今日まで生きていることはできなかったでしょう」
でも、あっさりと教えてもらえるのだって、良し悪しだったかもしれないけれど。私に毒を呑ませようとしたお母様のお顔を思い出してしまって、美味しいはずのお茶の味が苦く感じられてしまう。王様と王妃様が死んでしまったのだもの、王女様だって生きていてはいけなかったのね。私も、気付いているべきだったわ。
「ウィリアムは私を助けてくれたのよ……」
彼が申し訳なさそうにしていたのが、ますます訳が分からなくなる。私から奪ったといっても、それが私を守ってくれたんじゃないのかしら。王朝が滅んだら、生き残りの王族はみんな殺されてしまうものでしょうに。私は、王女じゃなくなって、かえって良かったはずなのよ。
そんなこと、口にするには長すぎるのだけれど。エリオットは、短い呟きから言葉にできない思いをくみ取ってくれたようだった。いつも絶やさぬ笑顔が、優しく頷いてくれる。
「はい。王妃様からも、その後も、お嬢様がご存じないところでも。あの方がこれほどお嬢様を大切になさっていると、信じられない者も大勢おります」
「マリーとかライラとか……?」
「はい。この私も、屋敷の他の者たちの何人かも、最初はそうだったのです」
どうせ、ライラたちのことも気付いていたんだろうな、とは思っていたの。知らないのは私だけだったんでしょう、っていじけてもいたの。だから、エリオットが頷いた時は、今度は苦しかった。でも、それ以上に驚いた。エリオットも、他の人たちも、私を助けようとしていたなんて! そんなこと、全然気づかなかったのに。
「……嘘」
思わず目を見開くと、エリオットは微笑んでクッキーを勧めてくれた。そうね、私はここのところ食欲もなかったから。ウィリアムに会えないことで、世界の何もかもが色褪せてしまっていたの。
「クローディア王女様については、色々な者が色々な噂を信じています。母君様と一緒に殺されてしまったとか、外国の宮殿で民もなくお情けに縋って生かされているとか。幽閉されて虐待されていると信じている者もおりますね。かつての私のことなのですが」
きっと、ライラたちもそうだったのね。お城に入る前も入った後も、ウィリアムと言葉を交わす機会もあったでしょうに。エリオットは気付いてくれたけれど、あの人たちは何にも見ようとしなかったのね。私がウィリアムを大好きなことも、彼の訪れを心待ちにしていたことも。このお城の暮らしは、とても幸せだということも。
「ウィリアムはそんなことしないわ……」
クッキーの甘さが、じんわりと身体に染みわたるみたいだった。そういえば、朝は食事をいただいたかしら。昨日の夜は? スープくらいしか食べなかったかも。私は、お腹が空いていたのかしら。
「はい。国を亡くした王女様がこれほど幸せに暮らしているとは、誰も信じないことでしょう。だから、このお城を──お嬢様の世界を守る手伝いをすることにしたのです」
「じゃあ、誤解は解けたのね? 貴方たちも賛成なのね? ウィリアムは何も気にする必要はないわ。今まで守ってくれてたなら、何も変わる必要はない……そうはいかないの?」
何度も頷いてくれたエリオットなのに、今度だけは静かに微笑むだけだった。それだけでも、ダメなのね、って分かってしまうのに──エリオットは言葉でもはっきりとつきつけてくる。
「お嬢様は賢いからご存じでしょう。滅びた国の末裔というものは、扱いが難しいものなのです。しばしば争いの火種にもなってしまう」
「ええ。ライラたちはそうしようとしていたのでしょう。でも、ウィリアムは違う」
私は生きていてはいけなかったのかもしれないのね、と思ったばかりだった。だから、エリオットの言うことはよく分かる。でも、それなら──あるいは、だからこそ。私はこのお城に閉じこもっているべきではないのかしら。今まで通り、何日かに一度、ウィリアムを迎えるの。外のお話なんか知りたがらない。ただ、彼が一時休める場所であれば良い。どうして、それではいけないのかしら。
「ですが、人は中々信じられないのです。王家の血を引く方が、王女だった方を手中にして何も考えていないはずはない、と」
私が何か口を挟む隙を与えず、エリオットは私の目を覗き込んだ。
「道は、大きく分けてふたつです。あの方以外の者にお嬢様の保護者になっていただくか、反発や疑いがあるのを承知で、引き続き旦那様にその立場を務めていただくか。その上で、お嬢様はまた表に出ていかなければならないのです」
「だって、ウィリアム以外の人だって企みがあるのでしょう? 誰だろうと、誰かは疑うし嫌がるのではないの?」
「はい。ですから、次に旦那様がいらっしゃった時には、お嬢様から説得していただくのが良いでしょう。私どもでは、力が足りませんで、面目のないことなのですが」
もう一度、エリオットの灰色が混ざった旋毛を見ることになって、私は目を瞬かせた。夜更かしをして窘められたり、はしゃぎすぎを軽く叱られたことはあったけれど、エリオットが謝るなんてことは今までなかった。それが、今日の短い間に二回も起きるなんて。
それに、力が足りなかった、って……エリオットたちも、私のためにウィリアムと話をしてくれていたのかしら。全然気づかなかったけれど。私の味方をしてくれていたということなのかしら。でも、それなら、エリオットでさえウィリアムの気を変えることはできなかったということになってしまう。
「説得……私に、できるかしら」
「はい。誰もが──あの方ご自身でさえ、ずっとこのままという訳にはいかないと考えていました。誰もが様子を窺っていた。あの方を出し抜こうと、暗躍する者も出始めていた。でも、お嬢様、貴女は誰よりも早く行動を起こされた。その勢いのままに進まれると良いでしょう」
「勢い……?」
癇癪を起こしたみたいに詰め寄って、それで何日も来てくれなくなってしまっているのに。なのに、前と同じで良いのかしら。自信がなくて、曖昧に言われたことを繰り返すと、エリオットはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。とても、珍しい雰囲気の笑顔。
「あの方はいまだにご結婚されていません。もちろん、お子様もいないのですよ」
どうやら彼は、ウィリアムを説得する手掛かりをくれたようだった。