第2話
ウィリアムは私にお勉強も教えてくれる。彼がお城に泊まったり、そうでなくても、ゆっくり何時間も過ごすことができたりする時だけだけど。読み書きに、お食事のマナーやダンスのステップ。庭の草花の名前や、空模様の変わり方。星を繋ぐと現れる物語に、季節はどうやって巡るのか、とか。小さい頃の私は飽きっぽかったから、ご褒美のお菓子や玩具も用意して、とても辛抱強く先生を務めてくれたと思う。
それに、歴史も教わったことのひとつ。この国の興りと盛衰、その時々にどんな戦いがあってどんな王様やお妃さまや貴族たちがいたか。どんな風に絵に描かれて、どんな風に戯曲に歌われたのか。
その歴史も、とある一点で途切れてしまうのだけど。とある王様の輝かしい業績を綴った巻の続き、その先の歴史が描かれた本は、どれほど探してもお城の図書室に見つけることはできなかった。
「この方は、私のおじい様かしら。それともひいおじい様……?」
図書室にある中で一番新しい時代を描いた本の、金箔押しの題字を撫でながら、私はそっと呟いた。
ウィリアムのすることは中途半端なの。私に勉強を教えなければいけないとは思っているけど、全部は教えない方が良いとも思っているのね。だから、歴史のお勉強が途中で止まってしまうのよ。
お母様に毒を飲まされた記憶は、私の初めての記憶じゃない。とても小さい頃のことだから、霧に包まれたようにぼんやりとしてはいるけれど、幾つかのことは覚えているの。このお城では、わざわざ口に出したことはないけれど。
昔々、私が暮らしていたところは、このお城よりもずっと広くて煌びやかで、沢山の人が行き来していた。私が小さかったからそう思うんじゃないはずよ。あんなに大きくて輝かしい場所は──王宮というところではないかしら。
お父様とお母様のことも少しだけ覚えているわ。本当に少しだけだけど。お名前も知らないし、お父様にいたってはどんなお顔だったかも分からない。でも、おふたりがなんて呼ばれていたかは間違いない。陛下というのは、王様とお妃様に対してだけ使う言葉のはずよ。
小さい私に跪いたり、手を取ってキスをしたりしてくれた人たち。子供の目線だと、靴とかベルトとか上着の裾にあしらわれた紋章がよく見えるものよ。獅子や鷲、一角獣。それらの紋章も、耳に微かに残るその人たちの名前も、歴史の本でよく見るものだった。
ここまで揃えば簡単なことよ。私は王女様だったのね。戦いに負けたりとかで、囚われの身になるよりは、って。自ら命を絶った人のお話も読んだもの。ウィリアムが読んで聞かせてくれることはなかったけれど、ひとりの時間が長すぎて、図書室の本はみんな読んでしまったから。
お父様に何かあって、お母様は私と一緒に天に召されるおつもりだった。そこを、ウィリアムが助けてくれたのよ。
「それだけで十分なのに、ね……」
昼間のお城では、私以外の人たちはみんな、何かしらやることがある。だから、私の溜息を聞くのは私だけ。たとえ誰か話し相手がいたとしても、私を悩ませることを打ち明ける訳にはいかないけれど。
この国に何があって、今はどうなっているのか。ウィリアムは私をどうするつもりなのか。きっと、私には言ってはいけないことになっているんだもの。彼がちゃんと教えてくれないのは、多分そういうことなんでしょう。
彼が私を利用するつもりなら、まだ良いと思う。今までこんなに良くしてくれたんだから、この後何をされても仕方ないと思うの。たとえ殺されたとしても、私のウィリアムへの感謝は変わらないわ。そもそも命を救われているんだから。
でも──何となくだけど、そうじゃないんじゃないか、って思えてならないの。だって、ライラみたいに私を助けてくれようとする人が後を絶たないんだもの。ええ、そういう人たちの秘密のお手紙からも、私は何となく事情を察することができた。
ライラたちは、すごく頑張ってお城に忍び込んだ、みたいな言い方をするの。みんな揃って似たようなことを書くものだから、ちゃんと読まなくても大丈夫ね、って思ってしまうくらい。みんな、私のことをとても心配して、ウィリアムを罵りながら私を助けてくれるって言うの。
きっと、ライラたちは勘違いしているんでしょうけど。だって、ライラの家族のこともしっかり覚えていたウィリアムなんだもの、私をどうにかするつもりがないかどうかだって調べた上でお城に来させているはずよ。ライラとは仲良くしたくないって言ったのに、私のおねだりは大体聞いてくれるはずなのに、辞めさせるのを渋ったくらいだし。だから──ウィリアムは、私を追い出すつもりなんじゃないかしら。私を助けたがってる人たちに、押し付けようとしているじゃないかしら。
私、最近は彼の考えていることが分からなくて怖いの。
それでも、ウィリアムは前と変わらない間隔でお城に来てくれて、私を安心させてくれた。少なくとも、私を嫌いになったのではない……と思うのだけど。
今日は、ウィリアムは私に新しいドレスを持ってきてくれた。お城に沢山用意されていたような、ベルを逆さにしたような、裾がふんわりと膨らむデザインではなくて、もっとすっきりしたシルエットのもの。胸元から足元へ、流れるような布のラインが上品、かしら。ええ、ウィリアムが私のために選んでくれたというなら、どんなものでも嬉しいんだけど。彼はいつでも、私に似合うドレスやアクセサリーを見立ててくれるんだから。
「流行りのドレスもよく着こなしているね、クローディア」
「ええ……」
ドレスの色は、花が咲いたような柔らかくて可愛らしい薄桃色。でも、ドレスの裾を躍らせるようにくるりと回ってみても、私の心は萎んでしまう。ウィリアムが意味の分からないことを言うから。流行り、というのは、お城の外で起きていることらしいの。でも、それなら私には関係ないことではないのかしら。ただ、私に似合うから選んでくれたのではないの?
私が疑わしそうに見つめているのが分かったのかしら、ウィリアムはわざとらしいほどにっこりと微笑んで両手を広げた。
「他のどんな令嬢もお姫様も、これほど美しくはないだろう。……どうだろう、そのドレスを着て、よその子たちにご挨拶なんて──」
「嫌よ」
小さい頃の私だったら、ウィリアムの胸に飛び込んで頷いていたのかしら。でも、以前だったら、彼はこんなことを言わなかった。私を追い出そうとなんかしないで、お城に閉じ込めていてくれた。私が首を振ることで、彼の顔が強張ってしまうのは悲しいけど──でも、仕方ないことなのよ。
「クローディア……使用人では話し相手にならないと思ったから」
「エリオットたちは好きよ。でも、他の人はいらない」
「同年代の友人が、君には必要だ」
「必要ないわ」
ライラたちもウィリアムも、私に何が必要かを私よりも知っているように言うの。でも、それを決めるのは私ではなくて? 私に何も聞かずに決めつけようとしているように思えてならなくて、だから、私は面白くなくて仕方ないの。
不満を込めて、私は唇を尖らせた。
「私は、貴方さえいれば良いのよ、ウィリアム」
もしかしたら、彼は何も分かってないのかもしれないと思ったの。だから、私が何を望んでいるか、何を恐れているかを、一度はっきり言っておかなければいけない気がしたの。