第1話
ウィリアムと初めて会った時の記憶を、私は何度も夢に見る。起きている時でも、はっきり目蓋に浮かべられるくらい。
その記憶は、最初は恐怖に満ちている。
『クローディア。我が儘を言ってはいけません。全部、お飲みなさい』
緑色の目を吊り上げて怒る、金の髪の綺麗な女の人は、私のお母様だろう。私の髪と目の色は、お母様からいただいたのね。
『だってお母様、変な臭いがするんですもの』
小さな私は、泣きながらお母様に訴える。頬を涙が伝っていたのも、お母様がガラスの器を口に押し付けようとしていたのも、覚えている。とても、怖かったのも。
『貴女の好きな林檎の果汁でしょう。蜂蜜もたっぷり入っているの』
『でも──』
『良いから!』
ガラスの器が、前歯に当たってがつんと音がした。林檎の甘さと、味わったことのない苦みが口の中に広がった。吐き出そうとしてもお母様が口を抑えていて許してくれない。
『ごめんなさいね、クローディア。お母様には貴女を守ってあげられない。お父様もいらっしゃらなくて。彼らの手に落ちるくらいなら……!』
お母様も泣いていた。大人の人が泣くのを、私は見たことがない。あの頃も、大きくなった今でさえも。どうしてお母様が泣いていたのか──理由は、今なら分かる気がするけれど。
『お母様も一緒だから……。クローディア、一緒に……天の国まで……』
私を抱きしめながら、子供みたいに泣きながら、お母様も何かを飲んだようだった。とても苦くて──苦しくなる、何かを。苦しくなるものを吐き出したいのに、喉にも舌にも力が入らなくて、身体から力が抜けていく。目の前が、真っ暗になっていく。
そうして、私はしばらくの間意識を失っていたはずだ。目が覚めたのは、扉を破る音と、沢山の男の人の声と足音によって。焦ったような、怒ったような──あんな大きな声と音が沢山したのも、多分あの時だけだと思う。だから私は、怖くて目が覚めたんだと思う。それに、口の中がずっと苦くて、気持ち悪くて、頭がぐらぐらとして。
『王妃は!?』
『駄目だ、死んでる……!』
『遅かったか』
『王女も一緒のはずだろう』
声と足音が、倒れている私の方に近づいてきた時も、怖かった。何が起きているか見えないし分からないのに、身動きひとつできなかったから。でも──あの声が聞こえた。
『良かった、この子は生きてる……!』
ウィリアムの声だ。彼が、来てくれた。
彼の声は、あの時から変わらず優しかった。聞くだけで安心することができた。頼っても良い人、守ってくれる人の声だと。だから、私は震える指を必死に伸ばして、彼の服を掴んだ。その頃には、どうにか目も開けられるようになっていて──
『怖かっただろう。もう、大丈夫だ』
彼の顔を見て、また泣いた。怖かったり悲しかったりしたからじゃない。もう大丈夫だと思ったから。理由もなく感じたことだけど、私の直感は正しかった。
あれから十年、私は一度も痛みや苦しみを感じたことがない。ウィリアムが用意してくれた、小さなお城で、綺麗なものや素敵なものに囲まれて。楽しく幸せに暮らしている。
少なくとも、今のところは。
図書室で本を読んでいる私のところに、執事のエリオットが昼食を運んできてくれた。お茶の時間のお菓子もあるから、パンにチーズやハムを挟んだ程度の軽食だ。手を汚さないようにという気遣いでもあるんでしょう。
籠に入れた昼食を置きながら、エリオットは私に微笑んだ。ずっと私のお世話をしてくれている彼の髪には白いものが、顔には皺が目立ってきている。でも、穏やかな笑顔と優しさは変わらない。庭師もコックもメイドも、このお屋敷にいる人たちは、ほとんどは好きな人たちばかり。
「今夜は旦那様がいらっしゃるそうですよ、お嬢様」
「本当に? お洒落をしてお迎えしなきゃ!」
「お勉強が終わったら、スザンナがドレスを選んでくれるでしょう」
「ええ!」
うきうきとして、パンを手に取った──その楽しく弾む気持ちは、でも、すぐに萎んでしまった。パンを載せたナプキンと、お皿の間に、小さな紙が折りたたまれて挟まっているのに気づいたのだ。
取り出してみると、紙には細かな字が記されている。手紙だ。内容は、大体想像がつくけれど。念のため、開いてみる。
クローディア殿下
高貴な身分の御方が反逆者に囚われていることを大変痛ましく存じております。
一刻も早く正当な御立場を回復なされるよう、まずは救出申し上げたく存じます。
次の新月の夜、庭の楡の木の──
ほら、やっぱりね。私は小さく溜息を吐くと、手紙を細かくちぎってランプの蝋燭にくべた。大体、こういう手紙は読み終わって内容を覚えたら燃やしてください、って書いてあるもの。最後まで読まなかったとしても、言われた通りにしてあげるなら良いわよね、きっと。
「今度は誰かしら……」
パンを食べ終わって、ナプキンで手を拭って、本の続きに取り掛かりながら、私は呟く。エリオットのはずがない。コックのジェームズも、違う。彼がこのお城に来てから三年は経っているもの。ジェームズがパンを切ってお皿に並べて──しばらくは、厨房に置いておくんじゃないかしら。エリオットがちょうど良い時間に取りに来るまで。その間に細工ができるのは、誰だったのかしら。
ウィリアムは、だいたい二、三日に一度、お城を訪ねてくれる。一週間とか十日とか間が空くことも、たまにはあるけれど。今回は一昨日来てくれたばかりだったから、はしたなく抱き着いたりなんかしなかったわ。私ももう小さい子供ではないし。淑女らしくスカートの裾を摘まんで、優雅にお辞儀をして迎えたのよ。
「クローディア、可愛いお姫様。昨日と今日と、どうだったかな?」
「寂しかったわ。もう少しで泣いてしまいそうだったの」
晩餐の席で、私は小さく唇を尖らせてウィリアムに甘えた。彼が泊まってくれなくて泣いていたのは、ずっと小さいころまでだった。でも、彼にずっといて欲しいのは今も変わらない。あんまり我が儘を言って困らせたりはしないけど、このお城は居心地が良いと思っていて欲しいけど、来てもらう度に忘れられないように伝えなきゃ。私はウィリアムが大好きだということ。本当は、毎日だって会いたいということ。
「でも、若い女の子が入っただろう。彼女が話し相手になるんじゃないか?」
「ライラのことね」
十年前に私を助け起こしてくれた時から変わらず、ウィリアムは格好良い。私のよりも少し濃い、蜂蜜色の髪。深い青い色の目は、本で見た海の色みたい。いつでも優しく私を見つめてくれるの。抱き着いたら、私を軽々と持ち上げてくるくる回ってくれたものよ。今ではそんなことしないけど、背が高くて頼りになるのは変わらない。よく、お仕事で疲れた顔をしているけれど、お城でゆっくりして癒されて欲しいと思っているの。……そんな彼に、こんなことを言いたくはないんだけど。
「彼女──ライラね、お母さんが病気なんですって。おうちに帰らせてあげても良いかしら」
「ライラに母親はいないはずだが……聞き間違いか、違う人のことじゃないかな?」
あら、そうだったの。失敗してしまったかしら。少し眉を顰めたウィリアムに、私は素知らぬ顔で首を傾げた。
「……ごめんなさい。今のは嘘よ。本当はね、ライラとはあんまり上手くやって行けそうにないの」
「そうか……」
だって、ナプキンの陰に手紙を仕込んだりするんだもの。一番の新入りだし、みんなに聞いたら、お昼時に厨房に行けたのは彼女だけみたいだったから、間違いないと思う。反逆者って、ウィリアムのことらしいんだもの。そんな人と仲良くなんてできないでしょう。
ジェームズが作ってくれたスープを味わいながら、ウィリアムは何か考えているようだった。彼がやっと口を開いたのは、真鯛の香味焼きが届いてからだ。
「上手くやって行けないのと思うのは気が早いんじゃないかな。少し、様子を見てみたらどうだろう。クローディア、君は友達もいないんだから」
友達なんて、ウィリアムやお城のみんながいればいらないと思うんだけど。今までもずっといなかったんだし。鯛のぱりっとした皮を味わいながら、私はしばらく考えた。
「……他の人だったら頑張れるかも。でも、ライラは嫌よ」
そして、結論を伝えた。にっこりと、ウィリアムが薔薇のようだと言ってくれる微笑を浮かべながら。
「……そうか」
お皿を下げてもらいながら、つまりは、またたっぷり考えてから、ウィリアムは頷いてくれた。
「仕方ないな。誰か、代わりの子を入れるようにしよう」
ほら、彼は私に甘いのよ。大体のおねだりは聞いてくれるの。時々──本当に時々、おかしなことを言い出すだけで。お城の外に出ないか、とか、お友達を作らなきゃ、とか。
ウィリアムがくれた世界は綺麗で温かくて落ち着くの。ここから出る必要なんてないし、他に誰もいらないのに。