5.雪原をわたる風のように
「いいか、姫。おれさまは十分に働いた。この分はたーんと褒美をいただいていくぜ。まずは酒、それから食い物、女だ」
「即物的な望みだな……」
指折るサーヴァに向け、ルーウォークは呆れた顔をしている。
相変わらずのサーヴァの言葉に、わたくしも苦笑した。
目が回るように忙しい執務室は、サーヴァの訪れを機に小休憩となっている。
サーヴァは、別れの挨拶に来たのだと言う。もう戦いもないだろうから、これで契約満了だと。
内乱の芽は摘んだ。
外敵に対しては、王国軍団長にルーウォークを指名し、再建の見通しが立ってきたところ。
サーヴァの言う通り、こうなると傭兵たちにとって王都は、逆に息苦しくなるだろう。
「だけど、寂しくなるわ、サーヴァがいなくなると」
「ついてきてくれてもいいんだぜ、姫さんの腕ならいい傭兵になるだろうしな」
「お前は本当にどうしようもないな。間もなく女王になんなんとする方を、傭兵に誘うとは何たることだ」
ルーウォークが荒く窘めて、わたくしはひとしきり笑った。
指揮官を失って混乱した王都は、すぐに降伏した。父と弟の首を見た途端、わたくしの意に添うと誓い、全ての武装を捨てたのだ。
アウレヒトの母ジーグレッタさまは、愛妾の地位を失い、王都より追放された。
教会は間髪おかずわたくしの戴冠の準備を進め、諸官は新たな主に現状を報告せんと多量の書類を差し出してくる。
あまりにもやるべきことが山積みで、くらくらする。野山を駆け回り、目の前を切り拓くことだけに注力していた時期が、少し懐かしい。
サーヴァはにやにやしながら、ルーウォークの横腹をつついている。
「そうは言うがな、旦那。おれがいなけりゃ、あんたの大事な姫さんだって危なかっただろ?」
「最初に、兵の統率がおかしいと気付いたのは私だ」
「もちろん気付いたのはあんただがね、おれが押さなきゃ戻らなかったじゃないか」
「それは……」
言葉を失ったルーウォークが目を逸らした隙に、サーヴァはわたくしに向けてウィンクを一つ。何を意味するものか理解できずに首を傾げていると、ルーウォークがそっと頭を下げた。
「姫……申し訳ありませんでした」
「どうしたの、ルーウォーク?」
「あの時、私はお傍を離れるべきではなかった」
「そんな。お父さまが何もかも見捨てて城壁の外にいるだなんて、誰も分かる訳がないでしょう」
「いえ、伏兵の危険は当然あったのです。ですが――アントガー侯爵が、その……リリフィア殿下と二人で話したいことがある、と。自分がいて姫を危険な目に合わせる訳がないと言って――私は愚かなことに、彼の言葉を信じてしまった」
どうやら、一計を案じたのはアントガー侯爵だったらしい。わたくしを揺さぶるタイミングを見計らっていたのだろう。
だけれど、そこをルーウォークに謝られては、彼も死にきれない。だって、実際にわたくしを――どころか、自身の命さえ守れなかったのだから。
わたくしは軽く首を振って、それをすべての答えとした。
侯爵は死に、わたくしは生きている。
侯爵領は、彼の弟君が継いだ。その命をもってわたくしに仕えてくれた分も、弟君には優遇を差し上げねばならない。
サーヴァが、面白そうな目でわたくしたちを眺めている。
「あんたら、相変わらずくっだんねぇこと謝ってんな。生きてんだからいいじゃねぇか」
「そういう訳にはいかん。誰もがお前のようではないのだ」
「まあ、どうでもいいけどな。……さて、姫さんよ。おりゃあ前に言ったな。総大将の首を取ったら褒美をくれって――あの約束、まだ有効か?」
寄って来たサーヴァの手が、わたくしの肩に伸びる。
もちろん、わたくしに触れる前に、ルーウォークが叩き落とした。
「そんな約束――いや、前国王と王子を退けたのは、お前じゃないだろう」
「くくっ、そうさ、おれじゃない。どっちが総大将か知らねぇが、武勲は姫さんと――あんたのもんじゃねぇのか、ルーウォークの旦那」
叩き落とされた手を振りながら、サーヴァがにやにやと笑って見せる。
「今しかねぇぜ、旦那ぁ。一番のライバルは黄泉路の向こう、二番目はこれから王都を出ていくところだぜ」
「余計なことを――いや、誰が二番目のライバルだ!?」
サーヴァは掴みかかってくるルーウォークの手を、するりと抜けた。
そして今度こそわたくしの肩をぽんと叩くと、そのまま執務室の扉へと向かっていく。
「サーヴァ――ありがとう!」
「じゃあな、姫さん。今度会うときゃ、一発やらせてくれ」
「お前、最後までそれか!」
怒声を浴びつつ、笑い声を響かせてサーヴァの背中は扉の向こうに消えた。
ルーウォークの大きなため息が後を追い、そうして執務室に静けさが戻ってくる。
「あいつは本当、最後までどうしようもないことばかり……」
「風みたいに自由なひとだったわ。わたくしたちとは違う世界のひとね」
――そう、わたくしは、彼のようには生きられない。
雪原を吹く風のように、清冽には。
父を殺し、弟を殺した今、投げ出すことは許されない。
わたくしは口を閉じ、自分の手のひらを見つめた。
ルーウォークの手が、肩に置かれる。
優しくて温かい、昔のままの大きな手。
わたくしを支える、愛しい手。
こほん、とルーウォークが空咳をした。
「何もかもが自由にはなる訳では、当然ありませんが」
見上げたわたくしを、夜空の色がまっすぐに見下ろす。
「――本当に、褒美をねだってもよろしいのですか」
一瞬、何のことだか分からなかった。
でも、すぐにさっきのサーヴァとのやり取りを思い出して――頬が、熱くなる。
「……あの、ルーウォーク」
「あのとき、あなたがいなくなるかも知れないと思った瞬間、心臓が止まるかと思いました」
肩に置かれていた手が、するりと下がってわたくしの手を握った。
そのまま、机の脇に跪いたルーウォークは、折り目正しい騎士の姿勢で、わたくしを見詰める。
「もうあなたをあんな目に合わせたくない。あなたの騎士に、常に姫の傍にいられる権利を、褒美としてくださいますよう――」
手の甲に、静かな口付けが降った。
その感触も何だか、アントガー侯爵とは全然違ってる。
目を見張ったわたくしは、あたふたと思いついたままを口にした。
「だ、だけど……わたくし、あなたより二十も下なのよ?」
「年なんて関係ないのでしょう?」
「わたくしはそうだけれども!」
「では、問題ない。そうでなくともこれほど不自由なのに、その上更に年齢で自分を縛るなんて滑稽だ。以前の私にもそう言ってやりたいですね」
「それならば嬉しいけれど、でも……」
お母さまは、とても優しい方だった。
穏やかな方で、声を荒げることなんて一度もなかった。
お父さまにはけして逆らわず、愚策を認め、窘めることなく、愛妾ジーグレッタさまの存在も許した。最期まで、お父さまに従った。
――わたくしには、きっとあんなことは出来ない。
「ねえ、ルーウォークは、お母さまのことが好きだったのでしょう……?」
声が震えるのを、隠せなかった。答えは「はい」に決まっている。
でも、聞かずにはすまされないことも、よく分かっていた。
ルーウォークは静かに目を伏せ、懺悔するひとのように穏やかな声で答える。
「ええ、愛していました。ずっとお傍にいたかった。なのにそれは叶わず、せめてあなたを守ろうと思いました」
「やっぱり、そうなのね。……あの、わたくし、頑張ってお母さまの代わりをするわ。もしかすると、うまく出来ないかもしれないけれど」
微笑みながら言いたかったのに、勝手に涙が溢れてきた。
慌てて隠そうとしたけれど、繋がれた手がそれを許さない。
ルーウォークは苦笑して、わたくしの代わりに涙を拭ってくれる。
「結論が早すぎますよ、殿下。最後まで聞いてください」
「だ、だって……」
「いいですか? 殿下のお母さまは、幼い頃からそれは大人しく物静かで、淑女の見本のような方でした。私はか弱いあの方を、何とか守って差し上げねばと思っていた」
「わ、わたくしは――」
幼い頃からだなんて。既に今のわたくしには、どれもうまく出来ていないことに愕然とする。
言葉を失ったわたくしの頬に、大きな手が添えられた。
「あなたは、あなただ、リリフィア殿下。私の後を追って何もかも吸収し、女だてらに剣を持ち馬を駆る。困苦から逃げ出さず、国を背負って立とうとする強さを――今の私は誰よりも愛している。あなたこそが、私の風だ」
唇が寄せられた。
一瞬、後ろに逃げかけた頭は、ルーウォークの手に遮られて少しも動かない。
息がかかるほど近くで、夜空の瞳が私を見ている。
その口元に、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「私を色仕掛けで落とそうとした方が、何を怯えてらっしゃるのやら」
「や、やだ! 忘れて……あのときはわたくし、必死だったの!」
「今は、必死ではないとおっしゃる? 私はもう必要ないですか」
「――そんな訳ないじゃない! 今だって、ルーウォークがわたくしから離れるなんて嫌に決まっているでしょう!」
言い切って、わたくしの方からもルーウォークの首に手を回した。
ぎゅっと目を閉じて、間近にあった唇に自分の唇を触れさせる。
心臓が高鳴って、呼吸を忘れてしまいそう――
「二度とお傍から離れません。リリフィア殿下」
「わたくしも。絶対に守ってみせるわ。あなたも、この国も――」
それでこそ私の殿下だ、と笑ったルーウォークが、もう一度わたくしに口付けをくれた。