4.共に負う弦音
太陽が天高く上る正午。
既に布陣は完成している。あとは、わたくしの合図を待つだけ。
時間だ――わたくしは陣の前に出て旗を振る。
投石器の綱が切られ、弩がぎゅんとしなる。
轟音と共に、城壁が崩れ始めた。
「――進め! 王宮だ!」
ルーウォークが剣をかざして叫ぶ。
傭兵たちが後に続き、アントガー侯爵麾下の一部もそれを追った。
わたくしの周囲を守るのは、アントガー侯爵とその側近のみ。
ルーウォークの強い進言と、アントガー侯爵の主張で決まったことだ。
――わたくしの反対は、聞き入れられなかった。
「こちらへどうぞ、王女殿下。主戦力はルーウォーク殿に任せておけば良いでしょうが、斥候も伏兵も、寄ってこないとは限りませんから」
「ありがとうございます。でも、わたくしも心だけでも彼らと共に戦いたいの」
あくまで陣幕には戻らぬわたくしを見て、アントガー侯爵は苦笑して首を振った。
「あなたは美しいひとだが、頑なな方だな。私との婚約の件にしても」
「……そのお話は一度お断りしましたし、急かすのはおやめくださいと何度も申し上げておりますが」
「急かすなんて。ただ疑問を口にしているだけですよ。私との結婚、あなたにとってはメリットしかないはずだ。戦に勝つまではもちろんのこと、勝った後も、傾いた国がそう簡単に立ち直るとはまさか思っていないでしょう? アントガー侯爵領の資産があれば、楽になる」
侯爵の言葉はまさに正論で、わたくしは何も答えられなくなる。
一際強い風が吹いて、陣幕がばたばたとはためいた。
アントガー侯爵は風がおさまるのを待って、わたくしの傍へ歩み寄ってくる。
「ルーウォーク殿を、愛しているのですか?」
「――!?」
とっさに否定しようとして、その前に顎を強く掴まれた。
覗き込んでくる空色の瞳は、ちらりとも笑っていない。
「アントガー侯爵、何を……!」
「あなたは確かに美しい。だが、私はね、美しいだけの女ならあなた以外にも多く知っている。それでも私があなたを求めるのは、あなた自身に価値があるからじゃあない。それはお分かりですね?」
「あなたは王配の地位が欲しいのでしょう。それくらいはわたくしにだって分かります!」
「理解していてなお、私を退ける理由は何ですか? 小娘とは言え一国の王女、駆け引きも計算もしっかりとお出来になるはずだ」
強く睨み付け、手首に両手をかけて引き離そうとしたけれど、顎にかけられた手は緩まない。男の力――ルーウォークにはついぞ感じたことのない恐怖が、背筋をかけのぼった。
アントガー侯爵の整った顔が、近付いてくる。
「私だって鬼ではない。あなたがあの騎士を傍に置きたいと言うなら、それを許す甲斐性くらいはある。これほど甘い条件、私でなければ出てきませんよ」
何を仄めかされているのか分かって、とっさに感じたのは怒りと恥辱だった。
だけど、一瞬の後、冷静な方のわたくしが、並べたてられた条件を計算し始める。
人材、資産、大貴族の後押し――婚姻はその契約書だと思えばいい。
それに、何より大事な条件――ルーウォークのこと。
ルーウォークと一緒にいられる……?
いいえ、わたくしがそれに頷いたとして、ルーウォークはどう思うだろう。屈辱的だと――破廉恥だとは感じないかしら。ちょうど今、わたくしがそう感じているように。
だけど、だけど――
ルーウォークはわたくしから離れないと誓ったのだもの。わたくしが誰の妻を名乗ろうが、ずっと傍に仕えてくれるはず。
そう――お母さまに、そうしたように。
「――わたくしは」
唇が近付く。
わたくしの囁きを吸い取るように、三日月型に歪められた唇が。
「わたくしは」
「黙って……」
「わたくしは――イヤです!」
目の前にあった頬を、渾身の力で張った。
ぱーん、と良い音が響き、一瞬よろけたアントガー侯爵が目を見開いてわたくしを見る。
「……ど、どういう」
彼の言葉はそこで途切れた――永遠に。
唇からたらりと赤い血が垂れ落ち、理解不能の顔が自らの胸元を見下ろす。
心臓を一突きに貫いて、胸板から刃が生えていた。
後退ったわたくしの肩を、誰かがぐっと掴む。
振り仰げば、そこにいたのは――
「――お父さま……?」
――何故ここに。
アントガー侯爵の身体が、どさりと地に落ちる。
突き刺さった剣を引き抜いて、正面に立つアウレヒトがつまらなそうにこちらを見た。
「お父さま、だなんて。反逆者の癖に、まだ娘のつもりなの、義姉さん?」
「全くだ、アウレヒト。妃によく似た可愛げのない娘だが、せめて命だけは助けてやろうと、遠くへ送ったのに――このようなことになれば、それも帳消しだ」
お父さまが、背後からわたくしの喉を、二の腕で締めあげてくる。
ぐう、と喉が鳴って、声を上げることが出来ない――いや、声が出ようとも無駄だ。
周りにいたアントガー侯爵の兵は皆、主より先に血の海に倒れ伏している。
お父さまとアウレヒトが伏兵を率いてきたのだろう。周囲が手薄になったのを見計らって、司令部の陣幕を襲ってきたに違いない。
「ここまで来るのに、あれだけ時間をかければな。座して死を待つ必要もない、我らはとっくの昔に王宮を脱した。壁の向こうに大多数の兵は残したが、最後の一兵まで戦えと言いつけてある。攻め込んで来た反逆者が我らの不在に気付くには、まだしばらくは時間のかかることだろう」
「そもそも義姉さんさえいなければ、僕らと争おうなんて思う者はいなかったはずなのにね」
「……わたくしの、せい」
わたくしは正義ではない。
そう言い聞かせてきたはずだったのに、この戦いが自分だけの、自分のせいと聞けば立ち続ける力さえ抜けるようだった。
わたくしの顔から思いを読み取ったのか、アウレヒトが寂しげにため息をつく。
「小さい頃はよく遊んだよね、義姉さんのこと、覚えていたよ。苦しませるつもりはない。すぐにアントガーの後を追わせてあげる」
血濡れた剣を握って、アウレヒトが近付いてくる。
息が苦しくて、うまく力が入らない。足がもつれる。
ああ、息が――風はどこを吹いているの?
わたくし、ここで死ぬのかしら。
何もかも途中で――まだ、言っていないことがあるのに――ルーウォーク!
わたくしの声が聞こえたかのように、戦場のざわめきが一際大きくなった。
がんがんと鳴る心臓に重なるように、雄たけびが響く。
「――リリフィア殿下ぁ!」
低い声が戦場に轟いた。
わたくしの名を呼ぶ、聞き慣れた――誰より愛しいひとの声。
涙で滲むわたくしの目に、城壁を越え、戻ってくるルーウォークの姿が映る。
「転進して戻ってきただと!? まさか――」
お父さまの腕がわずかに緩み、悔しげな呻きが聞こえた。
憎しみしか感じないその声に、わたくしの頬を涙がつたう。
「――さま、お母さま……お許しください……」
呟きを聞き付け、お父さまが鼻で笑った。
「我が娘ながら殊勝なことだ。せいぜい天国に行けるようにしっかり祈っておけ。向こうについたら、先に行った奴らによろしく伝えてくれ」
アウレヒトが間合いに入る直前、わたくしは緩んだ背中に負っていた剣を、後ろを見ぬまま引き抜いた。
後ろ手に振った刃が、父の脇腹を傷付ける。
「――ぐっ……!?」
「父さん!?」
「お許しください、お母さま! わたくしは、罪もなき慎ましやかな娘には、なれませんでした――!」
緩んだ腕をすり抜け、父の背後に跳ぶ。
広い背中に向け、振り上げた剣を阻むものはなかった。
一刀のもとに、父の首が飛ぶ。
「――クソっ!」
残された身体が倒れきるより先に、アウレヒトは踵を返して逃げ出そうとした。
呼吸を取り戻して咳き込むわたくしのもとへ、誰よりも早くわたくしの騎士が駆け戻ってくる。ルーウォークだ。
その肩の向こう、抜き身を掲げてアウレヒトを追っていくサーヴァの姿が見えた。
「――殿下、リリフィア殿下! 大丈夫ですか!?」
「っ……だ、いじょうぶ、です、わたくしは。それより、アントガー侯爵が……」
「間に合いませんでした……。もう息がありません」
「では、せめてここでアウレヒトを――!」
アウレヒトをこのまま逃がせば、戦は長引く。
この戦いには、ここで決着をつけなければ。
「弓を――ルーウォーク、弓をください」
ルーウォークは一瞬、目を見開き、それから抱えていた自分の弓を差し出した。
わたくしは立ち上がり、矢をつがえる。
サーヴァが勢子よろしく、アウレヒトを平地へ追い立てるために駆けて行った。
無防備な獲物は、背中を見せている。
わたくしは弓を向ける。
呼吸が浅いせいか、指が震える。
目が霞んで、的が曇る――ああ、わたくしたち、幼い頃はこうではなかったのに。
父でも弟でもないと言いながら、なぜわたくしの目からは涙が溢れ続けるの。
ぎりぎりと、弦が鳴る。風に触れ、弓が苦鳴を上げているように。
「――失礼」
そっと、背中に温かい熱が寄り添った。
大きな手が、握った弓をわたくしの手ごと上から握る。
矢羽を掴む手に、手が添えられた。
「ルーウォーク……」
「リリフィアさまだけが負う罪ではありません。共に――」
指先が、矢から離れた。
ひゅんと風を切って飛んだ矢は、アウレヒトの背中をまっすぐに貫いた。