Ending
私は師匠宅の近所のカフェにいた。
入り口そばの鏡に写る自分の目元を確認する。
だいじょうぶ。腫れはほとんど目立たなくなっている。
爽やかな晴天だった。冬らしい空気だけど、風がなく日向が明るいため、春の予兆が感られる。
師匠はストレートティーとポロネーゼを頼んだ。何になさいますか、と尋ねられたので同じものを会計のお姉さんに伝えると、師匠が自然な仕草でクレジットカードを出した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
番号札を貰い、テラスへ向かう。
外に出ると、師匠は奥の席へ手を振った。先に到着して紅茶を飲んでいた女性も手を振り、立ち上がる。
師匠の奥さんだ。
「初めまして。三鷹由紀子と申します」
白のワンピースに身を包む由紀子さんは清らかだった。たった二言の挨拶だけで、きゅんとしてしまう。
「ここにはふたりでよく来るのです」
円形テーブルの席に座りながら師匠は言う。
私から見て二時の方角には由紀子さん、十時の方角には師匠。正面にはお店の窓に写る自分たちが見える。窓下の花畑には桃色のシクラメンが咲いていた。
「実は一昨日も来てまして」
知ってます、とは言えない。
「今度は佐野さんと三人で来たいと、話していました」
「あわよくば今日、ってね。美希ちゃんの予定が空いててよかったわ」
由紀子さんは有名な楽団のコンサートマスターだ。そんな方と同席して緊張しないわけはないし、現にさっきまでまるで食欲も湧かなかったけど、いまでは不思議とリラックスができていた。
「この人ったら、あなたのことをずっと褒めてるの。デレデレと」
「デレデレとは、してないよ」
「してた」
どうやら師匠は尻に敷かれるタイプらしい。
「この歳になって、このような新しい刺激を頂けるなんて思ってもなかったのです。あんまり面と向かって言えないでいましたが、嬉しくて」
紅茶が運ばれてくる。ありがとう、と夫婦がナチュラルに言ったのに合わせて私は頭を下げた。
師匠は紅茶を手に取り、香りを味わう。
「まるで孫のように思っています」
ふと師匠の部屋の似顔絵を思い出す。孫が描いたと師匠は言っていた。額に入れて飾るなんて、はっきり言って親バカだ。
私もお爺ちゃんの似顔絵を描いたことがある。さすがに額には入れてなかったけど目立つところに飾られていて。あまりに下手な絵だからそれを見るたびに恥ずかしくなって、一年後には「外して!」と懇願した覚えがある。それ以来あの絵は見ていないけど、大事に保管されているらしい。私が訪問するときだけ外しているのかもしれない。
ひょっとすると師匠も私のお爺ちゃんと同じことをしていたり。
「もしも美希ちゃんさえよかったら」
由紀子さんは言う。
「これからもこの人をよろしくね」
「たまに土曜日にも来てくれれば、きっと妻も喜ぶよ。土曜日は私がいないことが多いけれど」
「そのときは私が美希ちゃんの師匠になるわ。DTMはあんまり明るくないけれど、音楽理論や楽器のアーティキュレーションなら教えられる」
「佐野さん、断っておきなさい。指導側に回るとこの人は鬼になる」
「ちょっと。変なこと教え込まないで。もう若くないんだから、そんなことはしないわ」
昔はしてたんだなあ、と笑う口元を私はティーカップで隠す。由紀子さんが大声を出すのは想像できなかったけど、音楽に対して一歩も譲れないプライドを持っていることは、なんとなく伝わった。
借りてきた猫になっていた私は、勇気を持って口を開ける。
「私なんかでよかったら、その、これからも」
「『私なんか』なんて言わないの」
由紀子さんは否定形で私を肯定した。
「主人は優しすぎるくらいの人だけれど、音楽についてお世辞は言わない。ましてや第三者である私に、なんとも思ってない人の話を喜々としたりしないわ」
厳しいまなざしがふわっと緩むと、私は由紀子さんから目を離せなくなった。
「この人の弟子なら、自信を持ちなさい。あなたなら、誰かのおかげでもなく、自分で夢を叶えられる。行き詰まったときは、私たちを最大限利用しなさい」
師匠はほんのり赤面しつつも頷いていた。
「そうですね。『大人』と書いて『利用する道具』と読むくらいがちょうどいいと思います。私たちは、喜んで佐野さんの背中を押しますから」
私は少しずつ気づかされていた。
師匠の物語に、私が存在していたと。
冷静に考えてみたら、当たり前のことだった。業界の第一線で活動している師匠の物語が、既に終わっているはずなんてない。長編連載の最新話に、私は登場しているのだ。そして、この物語の魅力を一層盛り上げる権利を、私は持っている。
由紀子さんは問う。
「美希ちゃんの夢は、なに?」
私の野暮な感情は叶わなかった。様々な障壁を乗り越えて大切な人の隣に立つことはできなかった。でも、そのことは散々泣き散らかして流してきた。昨日までは引きずっていたけれど、今はもうだいじょうぶ。短い短いあの恋は、宝箱にしまったのだ。
「私の夢は、作曲家です。作曲家になって、師匠に『この曲を弾きたい!』って思わせるような曲を書きたいです!」
「頼まれれば、いつでも弾きますよ」
「頼まなくても師匠が弾きたくなる曲を目指します」
この人たまに美希ちゃんの曲弾いてるけどね、と由紀子さんが暴露すると、師匠と私はふたりして慌てた。
帰宅後、すぐにPCを立ち上げた。
『M1.wav』のファイル名称を変更する。ずっと決まらなかったタイトルが、お昼に決まった。これでこの曲を供養できる。
最後に改めて聞き返してみる。
半拍の休符から始まる歪んだ鍵盤のメロディー。上手とは言えないBメロのピアノ。上がるようで上がりきらない、ドロップ前のビルドアップ。
どれもテーマなきテーマのために創った。深い感情は込めず、具体的な情景も思い浮かべず、様々な物語に対して八十点となるラインを目指した。
ドロップの主旋律も、淡々とした印象を受ける。しかしその裏には、ポルタメントのかかった調子外れの音が隠れている。メロディーの隙間で、ちょっぴり目立とうとしてる不器用な子。
あれは、私だった。
想いを打ち明けたくても打ち明けられない。こっそり匂わせることしかできない。自分自身と向き合うことすらできないでいた、あのときの自分。
テーマがないことがテーマ、と言ったのは嘘じゃない。
確かに、この物語は私のための物語じゃない。
でも、私は自分の気持ちを完全に無視することはできなかった。だから、こんな音を入れた。
私も、主人公のひとりだから。
アップロードが完了しました、の文字がPCに映る。ネット上でさえ人見知りな私がこっそり創った曲なんて、果たして誰が聴くのか。
もし、聴いてくれたのなら。
「届け」
誰かの人生に。
願わくば、この曲が誰かのBGMになりますように。
祈るようにノートパソコンをスリープさせる。モニターが暗転すると、そこには私が写っていた。
劇中曲参考音源プレイリスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PLKKjdwMZGRwOaZ6IWOwXu0X0d0oqELepL




