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音の結び目  作者: いけおぢ年の差推進委員会
抽象音(中條 利昭)
32/40

Interlude

 師匠と出会った夜。『My Favorite Things』の感動冷めやまぬ拍手の中、三鷹直人氏が頭を下げた。彼の白髪は頭頂部まで美しかった。

「本日はご足労ありがとうございます」

 マイクを通さずとも、彼の声は充分に通った。

「古くからの友人であるマスターと、飲んだ勢いでイベントやろうってが言ってたのが、ちょうど七日前ですか」

 短いな。

 多くの観客たちも同じことを思ったのだろう。クスクスと笑い声が聞こえた。

「私からはほとんど宣伝していないので、こんなに人が集まってくださるとは思いませんでした。さすがはマスターのお人柄ですね。それに、どうも見知った顔が多くて不思議な気分です。生まれ育った地から離れなかったり、あるいは戻ってきたりという人がたくさんいらっしゃるのですね」

 三鷹直人氏はこのあたりの出身なのかな。もし小学校や中学校が同じだとしたら、ちょっと嬉しいかもしれない。

 私はそう思った。今では学校は別だったと知っている。

「いつもはクラシックのコンサートではクラシック、ジャズバーではジャズばかりを演奏しますが、今日はただの趣味ですので。力を抜いて、気ままに演奏していこうかなと思います」

 パチパチ、とまばらな拍手が蝶のように舞うと、三鷹直人氏はごく自然に言った。

「今宵は、月が綺麗ですね」

 あ、これは私から皆様への、愛の告白ですよ。

 黄色い歓声が上がると、彼は後から恥ずかしくなったのか、はにかんだ。

「調子に乗ってしまいました。申し訳ありません」

 隣の席の婦人は顔を両手で押さえて赤面していた。キュンキュンと胸が高鳴っているのが今にも聞こえてきそうだった。

「月といえば、昔から月の光をテーマにした曲は数多(あまた)生み出されています。作曲をする人間であれば、誰しも一度は書いてしまうと言っても過言ではないでしょう。古いものだとベートーヴェンのピアノソナタ第十四番『月光』が代表的でしょうか。最近だと『ムーンライト伝説』なんかがありますね。最近と言っても、もう二十数年前ですね。一昨日くらいのことに思えてしまうのが怖いです」

 どっ、と笑いが起こる。二十年以上前のことを『一昨日』と思えるほど私は生きていないけど、共感できる人は多いらしい。

 彼が膝に置いた手を鍵盤に乗せると、再び静かになった。

「さまざまな音楽家を魅了して止まない月。それを題に据えた名曲のひとつを、どうぞ」

 ラ♭とファの和音が宙を飛び、ファとレ♭で静かに着地する。水面に落ちる雫のように。

 クロード・ドビュッシーの『月の光』。

 さっきカーテンを閉じたときに私の脳内に流れた夜想曲だ。

 湖畔に落ちる水滴。水面に拡がる波紋。逆さまに写る木々のゆらぎ。呼吸よりも静かな情景。

 展開が進むにつれて、情緒豊かに景色が広がっていく。おなかをすかせた動物が現れたと思ったら、狩りを済ませたのか、それとも何も見つからなかったのか、いなくなって。すぐさま脚の長い鳥が湖畔に現れ、水のステージを震わせながら舞い、去っていく。そしてまた、静けさが反響する。

 モチーフが繰り返されるたび、雫が空気に触れる時間が伸びていくように感じられるのは、どうしてだろう。宙に浮いている時間がもどかしくて。落ちてしまうと浮いていた一秒が恋しくなる。

 その心理の動きは、まるで恋のよう。

 結果が出るまでは、つらくとも楽しくて。

 結果が出ると、成功であれ失敗であれ、あの浮遊した時間が失われてしまう。

 しんとした夜の空気。曇りなく輝く満月。

 情景の中、ぽつぽつと落ちる滴だけが温かかった。

 ――これは私から皆様への、愛の告白ですよ。

 同窓会のようなこの場で。

 『皆様』の中に私はいない。

 頭の中で鳴る音を止めたい。コンサート会場から部屋に戻りたい。

 でも、演奏が耳の奥から離れない。鍵盤を撫でる指が、瞼の裏から消えない。

 私は布団の中に潜り込み、赤ん坊のように丸まっていた。

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