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音の結び目  作者: いけおぢ年の差推進委員会
柘榴忌(青造花)
27/40

伍(最終話)

「ん……」


 小鳥の囀りに耳をくすぐられ、紅千代は誘われるように睫毛を持ちあげた。あらわになった金色の双眸はまだ微睡みのさなかにあり、眠たげだ。

 隣に晴臣の姿は見えず、寝具には彼の名残りを感じさせる皺だけがある。それをぼんやりとなぞっていた視線はふと、螺鈿の鏡台に吸い寄せられた。映し出される柘榴いろの長い髪は縺れていたが、障子に濾された朝陽を浴びて輝いている。泣き疲れて眠っていたあいだに晴臣が身を清めてくれたのか、土に汚れたはずの手足は綺麗に拭われて、柘榴の果汁が散った寝間着も新しいものに変えられていた。

 昨晩の出来事はほんとうに悪い夢であったのかもしれない。そう錯覚してしまうほど、鏡のなかの少女はいつもどおりである。白皙の肌に滑らかな額。禍々しい角などは──見当たらない。


 ぱちぱちと、火の爆ぜる心地よい音が居間から聞こえていた。気怠さの抜けない肢体を動かしてのろのろと顔を出せば、ちいさな足音を捉えた晴臣が振り返る。囲炉裏鍋を杓子で掻き混ぜながら、彼はなにひとつ変わらない微笑を浮かべた。


「おはよう」


 紅千代は立ち竦むばかりで、答えられなかった。以前のように、妻の顔をして挨拶を返せるはずもない。それより謝らなければならないことを自覚していたが、なにから口にするべきか判じかねた。

 そよ風が庭園の木々を揺らし、錦鯉の泳ぐ曲水に穏やかな波紋を立て、ふたりのいる居間に流れ込んでくる。紅千代は晴臣の背後に佇んだまま、その黒髪がやわらかく靡くさまをじっと見つめていたが、隣に座るよう促されて重い足を動かした。清めてもらった素足で歩み寄り、人ひとり分の間隔を空けてぺたりと座り込む。晴臣は昨晩の出来事に触れるでもなく、ただ器用に鍋の中身を椀によそった。


「ほら、君の分だ。食べなさい」


 差し出された椀を両手で受け取る。ほこほこと湯気を立てるそれは、いろとりどりの野菜を煮込んだ水炊きだった。包み持つ両手にじんわりと熱が広がってゆく。気を配られているのを肌で感じながら、紅千代はふうふうと椀に息を吹きかけ、おそるおそるひとくち啜った。身体の芯からあたためられる感覚に、凝り固まった緊張がほぐされていくようだ。


「美味しゅうございます」


 目頭が熱くなる。ささやかに燃える薪が、ぱちとちいさく弾ける。


「美味しゅう、ございます……」


 それは自分を偽り続けた紅千代が久方ぶりにこぼした、紛れもない本心だった。

 記憶の糸を手繰り寄せても、この五年間の食事はつらいものでしかなかったはず。異形であることを隠すため無理やり喉奥に押し込む食べ方を続け、晴臣のもとへ嫁いでからは、盲目につけ込んで彼を欺いた。なにを口にしても味覚の琴線に触れることはなかったのに、このひとはどこまでも、紅千代の苦しみをやさしく攫ってみせる。


 よく煮込まれた、ほろりと崩れる野菜を噛みしめる。調味料を使わない素朴な味わいが頬の内側に沁み、はらはらとあふれる涙を誘った。泣いてばかりの情けない姿を悟られたくなくて唇を引き結ぶが、きっとすべて、見抜かれているのだろう。

 柘榴いろの髪が昨晩と同じ手つきで梳られたとき、たまらなくなって紅千代は吐露した。


「晴臣さま、わたくし、あなたさまと生きたい」


 髪に差し込まれた手の動きが止まる。

 庭木のざわめき、滔々と流れる曲水のせせらぎ、爆ぜる薪の音──それらに掻き消されてしまいそうだった囁きは、しかしはっきりと晴臣に届いた。甚だしい身勝手さを忌みながら、紅千代の舌はなお縺れて思いを伝えようとする。一度あふれだした感情を止める術など、未熟な少女は知らないのだった。


「もしも赦していただけるのなら、あなたさまにふさわしい妻となれるよう、精一杯、努めます。だから……だから、」


 紅千代の金色の瞳、そのちいさな鏡に映る晴臣の濁った双眸が揺れる。まるで、白濁した視界に鮮やかな柘榴いろを見出そうとするかのように。

 ほんとうは夢見ていたのだ。幸福な娘のひとりとして生まれ育った屋敷を巣立ち、赤い糸に導かれて出逢った運命の相手と添い遂げる未来を。望んだところでけっして叶わぬと自身に言い聞かせ、遠い日に諦めたはずのさいわいは、けれど晴臣と過ごすなかで芽吹いてしまった。この先も彼とともに在りたいと、胸が締めつけられる願いを抱いた。


 異形の脅威はいまだ紅千代のなかに眠っているだろう。それでも晴臣がいてくれるならば、どんな苦痛にも耐えられるという予感めいたものがあった。あたたかな朝餉が紅千代の一部を取り戻してくれたように、名状しがたい兆しがあらわれつつある。

 傍にいたい。そしてこんな自分でもいつの日か、彼の生きる意味になれたなら──。

 空になった椀が手から滑り落ち、転がる。抱きしめられるより早く晴臣の胸に飛び込んだ紅千代は、その鼓動すら掻き抱くようにして彼に縋りついた。


 螺鈿の鏡台のうえで、ちいさな花器に生けられた小花がそよぐ。清廉な白が揺れている。





 了

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