肆
──身体が、燃えるように熱い。
紅千代は晴臣の腕のなかからそっと抜け出すと、裸足のまま庭先にまろび出る。草履を履く暇すら惜しんで向かったのは、夜風にざわめく柘榴の木のもとだった。
繊月が投げかける銀のひかりに照らされて、婀娜な光沢を纏う紅い果実。熟れすぎた実のいくつかは地面に落ち、かぎ針編みの濃やかな木陰でひっそりと朱を咲かせている。紅千代はその場に頽れた。白魚のような指先が土に汚れるのも厭わずに、潰えて醜い最期を迎えた柘榴のひとつを掴み取る。
刹那、うつくしい顔が鮮血のいろに濡れた。腐りかけてぐずぐずになった果汁が白い顎を伝い、ぽたぽたと土を湿らせる。地面に裾野を広げる長い髪を振り乱し、滂沱の涙を流しながら、手が届く限りの柘榴を貪るその姿は気狂いのようだった。
「……っ、おさまら、ない」
いつもなら、ひとつ口にするだけでよかったのに──落ちている実を余さず食べてしまい、呆然と木を仰ぎ見る。紅千代の背丈では届かない、頭上に生っているものまでが欲しくて欲しくてたまらなかった。金色の瞳が釘付けになる一方で、もうどれだけ柘榴を食らおうが満たされないだろうことを悟る。
ついに訪れてしまったのだ、このときが。
熱に浮かされたように朦朧としていた。寝間着が着崩れてしどけない有様となった紅千代の、その身体は紅い果汁で濡れている。少女は土に汚れた素足でふらふらと寝所に戻り、しずかな寝息を立てる晴臣の傍に膝をついた。行燈の朧な灯りに照らされた彼の端正な寝顔を見つめる。短くもしあわせだったこの日々に、心のなかで別れを告げながら。
「赦して、くださいませ」
晴臣のうえにそっと跨った紅千代の肢体を、橙いろの灯りが舐めるように照らし出す。ひかりはちらちらと不安定に揺れ、まるでまぐわっているかのような男女の影を浮き彫りにした。壁面でなまめかしく蠢いた少女の影が、男の首に手をかける。
来たるべき終わりの日が今宵だっただけのこと。そう何度も言い聞かせるが、やはり押し殺しきれない嗚咽が途切れ途切れに漏れ出てしまう。ああ、と紅千代が悲嘆に暮れた吐息をこぼし、薄汚れた両手で顔を覆った、そのとき。
「──飢えが、抑えられなくなったか」
今しがたまで寝ていたとは思えない、はっきりとした男の声が耳朶を打った。やさしげで、甘やかさを含む聞き慣れた低い声であったが、今の紅千代を凍りつかせるには十分なものだった。
ゆるりと開かれた見えぬ目が、紅千代を捉える。
「熟れ落ちた柘榴が日毎減りゆくのを感じていた」
「……晴臣さま、」
「私は、鬼狩りの末裔だ」
螺鈿の鏡台が紅千代の本性を暴く。行燈の灯りを反射してぎらつくその鏡面に映るのは、多くの者に愛された姫君の姿ではない。額から禍々しい一本の角を生やした、──鬼の姿であった。
妖しい輝きを放つ金色の瞳から熱の珠があふれ、白磁の頬を濡らしていく。返り血さながらに肌にこびりついた柘榴の果汁と混ざりながら、涙はとめどなく顎を伝い落ちる。鬼狩りという言葉には然程驚かなかった。自分のような異形がいるのだから、それを狩る存在があってもおかしくない。
天花慈が鬼狩りの末裔なら、鈴鹿は鬼の末裔だ。祖先崇拝が根ざす家だったため、系譜を遡れば古い女鬼に辿り着くことを知っている。しかし連綿と続く血のなかで鬼の性質は失われていき、鈴鹿家は今や、普通の人間となんら変わらない形質をしているのだった。長い歴史で見ても、先祖返りを起こしたのは紅千代だけだろう。
生まれ持った稀有な相貌が神からの贈り物でなく、鬼の祖先から継いだものではないかと感じるようになったのは、十の時分。その頃から紅千代の身体は食事を受けつけなくなり、切り傷や擦り傷から滲む血の臭いに唾液が溜まるようになった。長らく微睡んでいた鬼の性が、少女の成長とともに目覚めはじめたのだ。紅千代は自分の身に起きていることを正しく理解できる、聡い子どもであった。変わらず食事を摂っては人目につかぬ場所で吐き戻し、夜毎襲われるおぞましい飢餓は寝間着の裾を噛んで耐え抜いた。悪化する衝動にも心を強く持ち、そうして晴臣に嫁ぐまでの五年、真実を隠し通したのだった。身内の誰ひとりに勘づかれることなく。
いかな青年に求婚されようと、紅千代はけっして頷かなかった。夫となるそのひとを殺め、骨の髄まで喰らう未来が見えていたからだ。
打ち明けられたならどれほど楽だったか。しかし人の血肉を欲する身体と知ってなお、愛してくれる者がいるはずもない。たとえ先祖を重んじる鈴鹿の人間であろうとも、実の両親であろうとも。
「あなたさまは、わたくしの正体を知っていて……縁談をお受けになられたのですね」
肯定を示す沈黙が返る。紅千代は晴臣のうえに跨ったまま、すべてを諦める笑みを浮かべた。
なにもかも終わりだ。求婚を断り続けるのに限界を感じたとき、柘榴が──血に代わる果実さえあれば、あるいは、と一縷の望みをかけたが。もはや柘榴では凌げないところまで来てしまった。今こうしているあいだにも、紅千代の唇からは唾液が伝っている。目の前のご馳走喰らいたさに。
「殺してくださいませ。どうかひと思いに。わたくしはもはや、娘とも呼べませぬ」
螺鈿の鏡台から必死に目を背けて嘆願する。涙と唾液、そして柘榴の果汁に濡れた自分の醜い姿を、これ以上見ることができなかった。こんなみじめな姿になってまで意地汚く生き延びることに、なんの意味があるだろうと思えてしまった。
もしかしたら晴臣との婚姻は、自分に齎された唯一の救いであるのかもしれない。生きている限り飢えに苦しむことを余儀なくされる、この憐れな少女を断罪するために遣わされたひとなのではないか。
「……紅千代」
低く掠れた呼び声に、紅千代の肩がびくりと震える。しかし、なにを言われるのだろうと怯える少女の手に重ねられたのは、晴臣のおおきな手のひらだった。今しがた彼を殺めようとした罪深い指先があたたかく包まれて、紅千代は戸惑いを見せる。
彼は、平素の微笑さえ浮かべて言った。
「喰らうといい。君の苦痛を一時でも満たしてやることができるなら、悪くない最期だ」
濁った双眸が疲れきったように細められた瞬間、紅千代は悟ってしまった。鬼の娘を狩るために此度の縁談を受け入れたと思われた彼だが、もとよりそんな考えを持ち合わせていなかったこと。歳の離れた妻を心から慈しみ、そして気にかけていたこと。
内に秘めた本懐が──死の願望が、あったこと。
晴臣は最初から、命を捧げるつもりだったのだ。悲しみが降り積もる日々で生への執着を失くしてしまった彼は、紅千代という、自死を正当化させる存在と出逢った。要らぬ命であるならば、紅千代のために使ってしまおうというのだ。
「ああ、ああ……酷なお方。どうしてそのようなことができましょうか。あなたさまが、あなたさまが斯様にやさしい所為で、」
乞われても手にかけることなど、できない。愛しいという感情を僅かにでも抱いたからには。しあわせになってほしいと、願ってしまったからには。
すすり泣く紅千代に晴臣の手が伸ばされる。骨ばった指先は宙を彷徨い、やがて柘榴いろの長い髪に辿り着いた。幼子をあやすような手つきで梳られるうち、紅千代の乱れた呼吸は落ち着いていく。
「……我が妻はまことに愛らしい」
晴臣はそう囁いて紅千代の細腕を捕らえると、両の腕に華奢な身体を迎え入れた。彼は少女の寝間着に散った柘榴の果汁が立ちのぼらせる甘い腐臭も、胸元に押し当たる禍々しい角も厭わずに、行燈の灯りのなかで穏やかに言葉を紡ぐのだった。
「きっと、悪い夢を見たのだろう。傍にいるから、安心してお休み」




