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音の結び目  作者: いけおぢ年の差推進委員会
柘榴忌(青造花)
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 晴臣と過ごす日々は穏やかだった。

 庭園を望む居間で一緒に朝餉を摂った後は、見頃を迎えた紅葉のなかを散策したり、町におりて呉服屋や甘味処を巡ったりする。山と町の往復は半刻ほどかかるものだったが、話しながら歩いているとあっという間に到着するので苦ではなかった。

 夜は濡れ縁に並んで座し、降ってくるような星空のもと晩酌に付き合う。凛とした虫の音に耳を澄ませ、やがて睡魔が忍び寄るまで酌をするのだ。

 晴臣はいつの日も紅千代を丁重に扱った。歳下だからと軽んじる素振りを見せず、出かける際は必ず少女の足音を聞き、鼓膜に届く微かな振動をよすがに歩調を合わせた。常に気遣いを忘れぬやさしい夫。嫁入りから七日が経つ頃には紅千代のぎこちなさも抜け、彼女は蕾の綻ぶような笑みを浮かべるまでになっていた。もっともその表情を、晴臣が目の当たりにすることは叶わないが。


「……わたくしは、妻としての務めを果たせているのでしょうか」


 ふと不安が口を突いたのは、いつものように山のなかを散策しているときだった。

 青空を覆い隠すほどの紅葉の天蓋。まだらに散る木漏れ日が首筋にかかり熱を生む。嫁入り駕籠から見あげたいつかの風景と同じように、枝先を離れた葉が舞い落ちては、濡れた岩道にしっとりと降り積もってゆく。目の醒める紅い跡となって。

 渓流の傍に佇んでいた晴臣が振り返る。紅千代は秋風に靡く長い髪を押さえながら、慌てて言葉を付け足した──否。口を滑らせた。


「しょ、初夜も、ありませんでしたし……」


 瑣末なことかもしれないが、気にしないようにすればするほど、それは紅千代の心を曇らせる問題となった。一時は安堵したとはいえ、いまだ純潔である身が妻として欠けたる証のように思えてならず、不安になってしまう。彼に一度も求められないのは自分に原因があるのだろうと。

 晴臣は盲だが、三年前からひとりでこの神楽山に住んでいた身。優れた把握能力もあって介助をほとんど必要としないため、十五歳の紅千代にできるのは炊事や洗濯がせいぜいだった。


(わたくしは貰ってばかりで、なにひとつお返しできていない……)


 それに晴臣は、額への口づけはしても唇に触れることがない。ほんとうの意味では迎えられていないように感ぜられ、それが紅千代は悲しかった。

 暫しせせらぎの音だけがあった。不意を突かれたように黙していた晴臣だったが──やがて彼は声を立てて朗らかに笑った。幾度となく目にしてきた物憂げな微笑ではない。初めて見る表情だ。


「我が妻はまことに愛らしい」

「っ、揶揄わないでくださいませ! わたくしは真剣に……真剣に悩んでいたのですよっ。こんな子どもを宛がわれて、あなたさまはほんとうは、迷惑に思っているのではと……」


 言葉尻は勢いをなくして掻き消えた。晴臣が歩み寄ってきたかと思うと、前触れもなく紅千代を抱擁したのだ。着物に焚きしめた香のかおりが、少女の鼻先でふわりと立ちのぼる。

 晴臣はよく、こうして紅千代を抱きしめる。それは夫が妻にするというより、父が娘にするような慈しみ方であったが、彼のあたたかい腕に包まれると紅千代はいつも落ち着くのだった。遠慮がちに背中へ手を回せば、晴臣の低く甘やかな声が降る。


「務めという考えに固執する必要はない。君はよく尽くしてくれているし、手料理は私の楽しみだ」

「では、なぜ……」

「心を開いてくれるのを待っている」


 いつの間に摘んだのか、晴臣の手には白い小花があった。骨ばった指先が紅千代の横髪を掻きあげ、あらわになった耳に花を挿す。柘榴いろの髪に咲いたその清かな白は、血だまりに舞い込んだひとひらの雪を思わせた。

 壊れ物に触れる手つきでそっと頬を撫でられる。紅千代の表情を捉えようとしているのだろう、指先がゆっくりと少女の肌をなぞり、沈黙に秘められた本心を探る。晴臣の顔を見あげた紅千代は、抱きしめられている華奢な身体を震わせた。

 ──見えぬはずの彼の目に、すべてを見透かされたような気がしたのだ。


「……このような目を生まれ持ったために、視覚以外の感覚が人並外れて研ぎ澄まされた。あらゆる機微がわかるようになってしまった」

 晴臣がしずかに笑む。翳のある微笑だった。

「君はいつも、悲しそうだ」


 するりと離れゆく指先は悟ったのかもしれない。紅千代の表情が今にも泣きだしそうに、くしゃりと歪められたことを。


「……わたくしは、自分のことが大嫌いなのです。髪も瞳も人間らしいいろをしていない。鈴鹿のなかで、わたくしだけが異質でございました」


 歓迎の品として贈られた、螺鈿細工のうつくしい鏡台。それに向き合って身支度をするたび、紅千代は鏡面に映る自身の姿に打ちのめされる。

 輪郭を縁取る艶やかな長い髪の柘榴いろ。人が持ちえぬ神秘を宿す瞳の金色。両親の髪や瞳は鴉の濡れ羽いろだというのに、その特徴のなにひとつ受け継がなかった。国でも例を見ない稀有な相貌を、鈴鹿や町の人々は「神の寵愛を受ける姫」と讃えたが、紅千代だけは恐ろしさに震えていた──。


「似た者同士かもしれないな。私と君は」


 晴臣のやさしげな声にはっとして、知らず俯けていた顔をあげる。濁った双眸と視線が絡んだとき、いつか町で聞いた噂話を思い出した。


 天花慈は代々、古くから伝わる刀術を磨き、天皇にお仕えする侍を輩出してきた家柄だった。盲目にも関わらず──あるいは盲目ゆえに突出した才能の持ち主であった晴臣は六つでお役目を受け、主上のために人生を捧げて影の右腕を務めたという。

 しかし三年前に起きた権力争いの謀りで、天花慈の失脚を目論む者たちに血縁者が皆殺しにされた。晴臣は唯一生き残ったものの疲れ果て、しずかな余生を望んだそうだ。そうして神楽山と柘榴が、二十六年間の奉公の対価として下賜されたのだと。

 屋敷に閉じ籠もることの多かった紅千代は世間に疎く、初めて耳にする話ばかりだったが、市井では有名な噂らしい。そして晴臣が噂を否定しないということは、それすなわち事実なのだろう。ただひとり残された痛みは、苦しみは、どれほどのものか。


 紅千代はか細い声で謝った。多くを喪失し、遙かに過酷な人生を歩んできた晴臣の前で、自分だけが苦悩を抱えているように振舞ってしまったことを恥じる。紅千代には生まれながらの欠落も、討たれた親族もなく、恵まれた環境で愛されて育ったのに。


「帰ろうか。じきに日が暮れる」

「……はい」


 はらはらと舞い落ちる紅葉は、木々がこぼす涙のようだ。まったき紅の風景のさなか、真白の着物を纏う晴臣は神聖な存在として目に映る。

 彼はなぜ、娘を娶ってほしいという両親からの申し出を受けたのだろう。差し伸べられたおおきな手を取りながら、紅千代はぼんやりと考えた。誰にも靡かぬ娘を手に入れて優越に浸る器のちいさい男には到底思えず、華族との伝手を欲する卑しい男にも思えない。幼少期から命賭けの責務に就いていた晴臣には、望まないながらも築かれた巨額の財があるのだから。


 けれど答えを知るのがどこか怖ろしく、問えないままに夜が更ける。漆黒の薄絹を幾重にも重ねたような闇が神楽山を覆い、静寂の満ち満ちた寝所では、ぬくもりを分けあうように身を寄せて眠る夫婦の微かな寝息だけが響いていた。

 やがて差し込む明け方の光芒を除いて脅かされるはずのない闇は、しかし──夜半、金色の淡いひかりに乱される。晴臣とともに眠っていた紅千代の瞳が、突として強く開かれたのだ。

 夜毎襲いかかる、悪夢のような衝動のために。


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