弐
箱入り娘なれど、紅千代とて初潮を迎えた一人前の女。夫婦となった男女が励むべき夜の営みの知識については、必要なものとして事前に母から教わっていた。曰く、初夜と呼ばれるものがあると。
夫を持つ以上、子をなすこともまた妻の務めに含まれる。熟れた果実を思わせる色香を纏いながら、少女性を脱ぎきれていない紅千代の身体は未成熟のさなかにあるが、課せられた責務を果たすために覚悟を決めて初夜へ臨んだのであった。まさか、予想外のことが起きようとは夢にも思わずに。
「──あっ!」
嫁入りから一夜明け、台所で慌ただしく立ち回っていた紅千代がちいさな声をあげる。吸い物をあたためるため竹の筒にふうふうと息を送り込んで薪を焚きつけていたら、その隙に白米の釜が吹きこぼれてしまったのだ。ぱたぱたと駆け寄り、火力を調整する手つきは不慣れでそそっかしい。
なんとか朝餉の膳を整え終わる頃、背後で床の軋む音がした。肩を跳ねさせ、少しだけぎこちなさの残る笑顔で振り返った紅千代を、ゆるりと抱擁したのは歳の離れた夫である。
「おはようございます、晴臣さま。宴の残りもので申し訳ありませんが、朝餉の支度ができますゆえ」
「ああ。構わない。昨日の今日では君も疲れているだろうに、ありがとう」
いえ、と上気した頬を隠すように俯いて答える。
晴臣の言葉はなにも、褥をともにしたことを仄めかすものではない。ただ純粋に、嫁入りでの負担や疲労を気遣われたのだろう。というのも──夫婦となったふたりが昨晩まぐわうことはなかったのだ。ひどく緊張して侍った寝所で、晴臣はしかし、紅千代を両の腕に迎え入れるだけで眠りに就いた。
「環境の変化もある。あまり無理はせず、少しでも体調が悪くなれば言うように。……姫君に炊事をさせるのもほんとうはどうかと思うんだが」
「鈴鹿の屋敷でも家人に混ざってしていましたし、好きなのでお気になさらず。得意というわけではなくてお恥ずかしいですけれど、わたくしも嫁いだ身、旦那さまのために尽くせるよう頑張ります」
健気な返答に、晴臣は微笑した。吐息のようにこぼされた低い笑い声が紅千代の耳朶をくすぐる。
「私は恵まれているな」
背後から伸ばされた武骨な手に顎を掬われ、顔を上向かされる。頭ふたつ分ほど身長差のある晴臣がゆっくりと屈み、彼の影に覆い被さられるかたちとなった紅千代は硬直した。
気分はさながら、狼に捕食される子うさぎだ。
「……っ」
朝の労働で薄っすらと汗ばんだ少女の額に、男の唇がやさしく押し当てられる。
紅千代の金色の瞳は瞬きを忘れた。無造作に撫でつけられた晴臣の黒髪がひと房こぼれ落ちて、彼の目元にかかる様を間近で凝視してしまう。物憂げな双眸。密着した背中越しに感じる胸板の熱さ。匂い立つような大人の男の色香──。
くずおれかけた紅千代の腰を片手で容易く支えると、晴臣は思い出したように独り言ちた。
「柘榴を取ってこなければ」
姫君のご所望だったな。そう言って真白の羽織を翻す晴臣の広い背を、声も発せないままに見送る。庭先に出ていった彼が柘榴をひとつ携えて戻ってくるまで、紅千代は我に返ることができなかった。
少し触れられただけでこれなのだから、初夜など百年早い。歳の差を気遣われたにせよ、未成熟な肉体を憐れまれたにせよ、昨夜なにごとも起きなくてよかったと今更ながらに安堵する。しかし、はしたないことばかり考えている自分に気づくや否や真っ赤になり、不埒な思考を振り払うように朝餉の膳を運んだのだった。
居間では、晴臣が囲炉裏に火を熾していた。ささやかに燃える薪の匂いと、沁みるような仄あたたかさが紅千代を包む。囲炉裏を隔てて向かいあった夫婦は、声を揃えて食前の挨拶を口にした。そうして間を置かず、紅千代から発せられた言葉がある。
「左奥は柿と蕪の白和え餡です。その右の平皿が鮪のお刺身。あとは手前に白米と、お吸い物のお椀がございます。熱いですからお気をつけて」
晴臣が頷き、膳のうえをなぞるような仕草を見せる。手探りで吸い物の椀を探し当てる彼の様子を、紅千代はじっと見守った。
少女の夫となったこの男は、盲であった。視覚を生まれ持たなかったという彼の双眸は白く濁り、知らぬ者が見れば慄くような様相を呈している。
実際、昨日初めて対面したときは紅千代も怯んだものだったが、男の心根は穏やかな物腰に顕れていた。緊張で強張った身体から力が抜けるのに然程時間はかからず──一夜明けた今、ふたりきりで会話することにも抵抗はない。夫婦となった実感がまだ薄く、笑顔は僅かに芯が残ってしまうけれど。
ふと祝いの席の記憶が思い起こされて、はっとした紅千代は居住まいを正した。
「昨晩は、その……わたくしの親族がご迷惑を」
宴は賑やかだった。港の程近くに住む鈴鹿家は、晴臣の屋敷に色鮮やかな海の幸を持ち込んで振舞った。紅千代が落ち着きすぎているくらいで、元来、鈴鹿という血筋は陽気な性質である。騒々しさは懸念したとおり、日暮れまで続いたのだった。
「いいや、私も楽しかった。あれほど賑やかな宴は久しかったし、なにより、君が皆に愛されているとわかったのでね」
ゆるやかに微笑むと、晴臣は湯気の立つ吸い物をひとくち啜る。椀を置いたその手は次いで器用に箸を取り、つややかな白米を掬って口に運んだ。
彼の所作は洗練されて美しく、紅千代の目を奪う。視覚を頼らずとも鋭い把握能力があるようで、いまだに盲目と信じられないほどだ。
「君の花嫁行列には町じゅうの人々が見物に駆けつけただろう。世の男の恨みを買ってしまったかな」
「そ、そんな。あなたさまほどの誉れ高い方に娶っていただいて、わたくしのほうが畏れ多いです」
それに、と紅千代は奥の寝所へ視線を向ける。
「……あんなに素敵な贈り物まで」
障子に濾された朝陽を浴びて輝くのは、黒漆の見事な鏡台だ。花と鶴の螺鈿細工で煌びやかに飾り立てられたそれは、晴臣からの歓迎の品だった。
子どもがたくさん産まれても十二分に遊ばせてやれるだろう広さの屋敷に、ふたり。開放的な居間と繋がる濡れ縁からは、豊かに生い茂る常緑庭木や、荘厳な灯篭が眺められる。山の湧き水を引いた曲水が濡れ縁の真下にまで迫り、そのなかに放たれた宝石のごとき錦鯉たちが生き生きと尾をひらめかせて水飛沫をあげていた。
清廉な水流の音に重なり、鳥の囀りが響き渡る。近くの梢でじゃれあっているのだろうか、と紅千代は生え揃った睫毛を伏せた。自然に囲まれて迎える朝の麗らかさ。まだ異質なものに感じるこの心地よさを、いつの日か、当たり前に享受するようになれたなら──。
「紅千代」
「はい」
「君も、ちゃんと朝餉を摂っているだろうか」
「はい。いただいておりますよ」
紅千代は吸い物の椀をことりと置き、彼の濁った双眸に向けて微笑んだ。
見えぬとはいえ鋭い感覚を持つこの夫に、嘘を嘘と悟らせぬよう──紅千代の前に並べられた朝餉の椀、それはいずれも空である。晴臣が手ずから取ってきてくれた、柘榴を載せた一皿を除いて。
「……美味しゅうございますね。晴臣さま」
熟れた柘榴は心臓に似たかたちをしている。手で割り開いた断面から覗く赤黒い実が、蠱惑的に艶めいて少女を誘惑していた。たまらずちいさな口でかぶりつけば、待ち侘びた甘酸っぱい果汁で唇が濡れそぼつ。あふれ出るそれに拙く舌を這わせながら、紅千代は声の伴わぬ問いかけをした。
──ご存知ですか。柘榴は血の味がするのです。




