壱
鈴鹿という華族のひとり娘、紅千代のうつくしさは天女に喩えられるほどだった。
滑らかな白皙の膚に、華奢な肩を瀑布のごとく流れ落ちる柘榴いろの長い髪。神秘を纏う金色の瞳で見つめられた者は文字どおり金縛りにあって動けなくなり、愛らしい唇で微笑みかけられた者は、男のみならず女までもが虜になってしまう。
その美貌は紅千代の成長とともに磨かれてゆき、彼女が十五の誕生日──結婚を許される歳を迎える頃には、まばゆささえ覚えるものになっていた。鈴鹿家には言わずもがな、噂を聞きつけた男たちからの縁談が数多舞い込むことになる。あるときは由緒正しい鍛冶屋の長男。あるときは和紙工房を営む誠実な好青年。あるときは異国の見目麗しい若君……と、鈴鹿の敷居を跨ぐ者は絶えない。紅千代の両親はこれを己らの利益に繋げようと卑しい謀を巡らせることもなく、愛娘のしあわせを切に願い、繰り返し彼女にこう告げるのだった。好きな殿方のもとへ嫁ぎなさい、と。
しかし、紅千代の返答は決まってひとつ。
「なりません。わたくしは独り身でよいのです」
その姿勢があまりに頑なで、両親はほとほと困り果てた。いかなるときも娘の意思を尊重してきたふたりだが、こればかりは是とすることもできない。添い遂げる相手を見つけ、慈しみあい、そうしていつの日かあたたかな家庭を築いてほしかったのだ。大切なひとり娘なればこそ。
紅千代もまた、身勝手な振る舞いをしている自覚はあった。それぞれに目も綾な贈り物を携えて訪ってくれる男たちや、さいわいを願ってくれる両親、家人。彼らの好意を踏みにじるしかできない自分が厭わしかった。ほんとうに独り身でいたいわけではない。それどころか年頃の娘らしく、幸福な結婚をして子どもを儲ける未来像に憧れてすらいる。
けれども──。
「紅千代、いくらお前の望みだろうと、嫁ぎたくないというのを聞き入れてはやれない。なにがお前を頑なにさせている?」
夕餉の席でのこと。たまりかねたように口火を切った父の向かいで、紅千代は身体を強張らせた。
彼女の膳はほとんど手がつけられておらず、蒸し鮑や蕪の煮物が、すっかり冷めてしまった碗のなかでてらてらと照明を跳ね返している。止まったままの箸を握る指に、緊張から僅か力が込められる。
「どうしても……嫁げと仰いますか」
問いには答えず、震える声でそう呟いた娘を前に両親は顔を見合わせていたが、やがてそのどちらもが沈痛な面持ちで頷いた。娘の懊悩を理解してやりたい、彼らの表情からはそんな気遣いの片鱗が見て取れたが、当の本人が口を噤んでしまうのでは解決の糸口など見つからない。
「父さまとお話したの。好いひとがいないのなら、紅千代、あなたが頷くお相手を探すわ。たったひとりの愛する娘ですもの、しあわせになってほしいと思う親心もどうかわかって頂戴ね」
「ひとりで抱え込まず、言いなさい。お前のためであれば私たちはなんだってするのだから」
慈愛に満ちた母と父のまなざしを受け、紅千代がそれまで必死に装っていた気丈さはとうとう剥がれてしまった。ほろりと金色の双眸からあふれた涙が、白磁の頬を伝って畳を濡らす。
嫌、嫌と首を振って拒み続けるのも限界だった。この日もいくつかの縁談を断っており、意気消沈する男たちの姿や、頭を下げる両親の姿を見ていた。十五にもなれば多くの娘が巣立つというのに。自分の所為で周囲が振り回されるのにはもう、耐えられない。高価な求婚の品ばかりが日々虚しく積もっていき、紅千代の心を抉るのだ。
「……わたくし、柘榴が食べとうございます」
すべてを話すことができない代わりに、吐息に近い声が唇を割った。白魚のような指先から箸が滑り落ち、一向に減らない豪勢な膳のうえで音を立てて散らばる。紅千代はうつくしい顔を手のひらで覆うと、ついにさめざめと泣きだすのだった。
「かの果実の生る木を所有する殿方がいらっしゃったなら、喜んで、その方のもとに嫁ぎましょう」
◆
──かくして花野風わたる頃、紅千代の輿入れが執り行われた。
鈴鹿家の花嫁行列は深まる秋の山中に分け入り、紅葉が織りなす天蓋に守られながら蛇腹道をゆく。
一歩ごと立ち止まるようなゆるやかさであるのは、十五年の月日をともにした家人らが紅千代との別れをいたく惜しんだ所為だろう。この門出を言祝ぐ心に偽りはなかったが、うつくしくのびやかな姫の存在は鈴鹿の皆がなにより愛したものだったのだ。
「姫さま、ご覧くださいませ。見事な紅葉が彼方まで続いておりますよ」
「素晴らしい秋晴れの日です。きっと、天に坐す神も此度のご結婚を祝福しておられるのでしょう」
漆塗りの嫁入り駕籠を担ぐ男たちがしみじみと語りかけてくる。白無垢に身を包んだ紅千代は駕籠のなかで長らく俯いていたが、彼らの声に頤を上げ、小窓の御簾を絡げると緩慢に空を仰ぎ見た。
雲ひとつない晴天であった。
紅葉の枝々に分かたれた、勿忘草いろの淡い空。幾筋ものまばゆい陽光が梢の隙間から降りそそぎ、枝先を離れた葉がそのひかりと戯れながら舞い落ちてくる。はらり、はらり、と音もなく土に降り積もる鮮烈な赤は、紅千代のゆく道をふさわしいいろに染めあげていた。
(……ほんとうに、嫁いでしまうのね)
恐ろしい──その感情が一番に胸を衝いた。
小窓から忍び込む、澄んだ山の冷気に睫毛が震える。紅千代はふたたび御簾をおろし、膝を抱えて蹲った。豪奢な駕籠のなか、薄くわだかまる影に同化するようにかたく身を縮こめて。紅を差した唇をきゅっと引き結び、こみあげる嗚咽を噛み殺す。
これから嫁ぐひとは、幼い時分より天皇の右腕として刀を振るってきた名誉ある男だという。彼は隠居に際し、神楽山と呼ばれる紅葉がうつくしい山の領地と、立派な柘榴の木を賜ったそうだ。この国で神の果実と信じられるそれは、天皇だけが所有し、口にすることを許された代物であったから、いかに篤い信頼を寄せられているかは明瞭である。
「だから心配せずとも大丈夫よ」そう言って母は笑み、父も首肯して紅千代の髪を撫でたのだった。娘の要望を備えるばかりか刀術に秀でた婿候補が見つかり、両親はさぞ安堵したことだろう。斯様なひとがいるのなら、と紅千代も半ば項垂れるように頷いて、此度の縁談はまとまった。
しかし両親でさえ知らぬ秘密を、紅千代はひとり抱えている。いかな青年が求婚に訪おうと首を振り続けた、年頃の娘らしからぬ態度の所以を。
やはり不安は拭えない。すぐにでも引き返して住み慣れた屋敷の奥に閉じ籠もりたかったが、無慈悲にも駕籠は目的の場所へと着いてしまう。
「──姫さま、ご到着!」
従者の晴れやかな声が響き渡ると同時、地におろされたのだろう駕籠の揺れがおさまった。俯いたまま母の手を借りてちいさな箱の内より出でる。瀟洒にしつらえられた敷石に草履のつまさきが触れ──途端、薄らな闇に縋っていた紅千代の視界を、やわらかな陽光が包み込むように白く満たした。
軽い眩暈を覚えて数度瞬く。束の間弾けた景色が徐々に戻ってくるにつれ、眼前に建つおおきな屋敷と、異様な存在感を放つ赤い実の生る木が認められた。あれが柘榴だろうか。
秋風がそよぎ、ざわざわと重たげな葉擦れの音が谺する。かぎ針編みのようなその木陰から一歩踏み出して、白日に面を晒す人物がいた。紅千代よりふたまわりほど年嵩に見える、上背のある男だ。
名を、天花慈晴臣。
彼こそが神の果実を所有するひとであり、紅千代の夫となるひとである。




