最終話
ひとりになると、狭い家のなんと広く感じることか。柱に残る新しい傷跡も、もう増えない。
さすがに同情した人が、いくつかお見合いを持ってきてくれたけど、とてもそんな気になれなくて断った。
青葉が感じたはずの寂しさを、ぼくも抱えなければいけない気がして。
おかしいもので、そんなことにも人は慣れる。
黄金色の稲穂が重そうに頭を垂れるのを見て、雀が悪さしないように見張るカラスたちに手を振る。勝手な習慣は、いつの間にか村の子供達も真似するようになった。
手を繋いで駆けていく後ろ姿を眩しく眺めながら、家路につくのも。
細く煙が立つのに気が付いたのは、もう家の前に来てからだった。
訪ねてくる人などいない。自分たちのように訳有りの人間でも入り込んだんだろうか。
おそるおそる、中を覗いてみると誰かが鍋を火にかけていた。
誰、と声をかける前にその人が振り返る。
「アオバ、お帰り」
驚きすぎて、動けなかった。夢じゃなかろうかと頬を抓ってみた。
痛いと思ったとたんに、今度は青くなる。
「アタリ! 帰れなくなるって!」
「うん。暇を頂いてきた」
飄々と、変わらぬのんびりした調子で笑う。
笑い事ではない。
「そんなことをしたら、アタリが!!」
ぐいと手を引いて、何とかお山に帰そうとしてみるも、反対に抱き寄せられて動けなくなる。
「せっかく呪をかけたのに。いつまでもひとりでいるから。俺はアオバを一人にしないって決めたのに」
「ひとりじゃない。お山には子供達もアタリも姫様もクラマも……」
「うん。右近も左近ももう十八で、立派になった。だから、俺はまだ出来ることをしにきた」
宮で出来ることは無くなったのだと、暗に告げる。
アタリの大きな手がそっと腹を撫でた。
「俺の子を産んで。アオバ。出来るだけ早く。一日でも長く、俺が娘と居られるように」
「……姫様は?」
「起きたよ。相変わらずだ」
「クラマは?」
「毎日ぼやいてる」
「いなくなる方を、どうして選んだの」
「アオバだっていつかいなくなるだろう? アオバのいる時を、一緒に過ごしたい」
「……一緒に、舞いたい」
「もちろん。いつでも」
姫様には届かなくとも。
来年には子を産んでいるだろう。きっと双子の女の子だ。
数年がまた飛ぶように過ぎてしまう。
それでも、それぞれが、それぞれの、ありったけの幸せをかき集めて過ごせたら。
ぼくは、アタリの腕の中で、敢えて未来は見ないことにした。
見なければいけないものが、見えない未来に、目隠しをされないように。
※ ※ ※
エピローグ(右近)
簡素な箱に、それを見つけたのは左近だった。
母が使っていたという部屋がそのままになっていると聞いて、掃除をした時に何か面白い物でも――父から母への恋文とか――ないものかと箪笥をひっくり返していて見つけたのだ。
見つからないように、でも大事そうにしまってあった箱に、これだ! と思ったのに、蓋を開けてみると刺繍の施された四角い布がいくつか入っているだけだった。
「何だと思う?」
左近はしきりに首を傾げている。
ひとつ取りだしてみると、細長い紐が左右上部についていて、短いふんどしのようでもあった。
よく見ると、春夏秋冬季節ごとの色や刺繍を凝らしていて、改めて母は手先が器用だったのだと感心する。
「判らん。アタリに聞こう」
アタリは宮では父と呼ばれるのを嫌う。つい、情に流されそうになるのだとか。
夕餉の支度で厨房にいる時を狙って、箱を差し出す。
「何だ?」
ふたを開けて、ちらと見るとアタリは目を瞠った。
「どこで、これを」
「母の部屋です」
「アオバの……ああ、らしい、な」
小さく息をつくと、何やら考え込み始めた。
「それ、なんですか?」
「たぶん、姫様の面だと思うんだが……」
ああ! と俺も左近も手を打った。それから同じように腕を組む。
「姫様、そういうのするかな?」
「いつも白い面だよな」
「多分、俺がいる間はしないと思うから、俺がいなくなったら差し上げてみてくれ。気が向いたらお使いになるかもしれん」
アタリは暇をもらうと決めたようだった。
寂しいけれど、母の元に行くのだと聞けば、送り出さない訳にはいかない。俺には左近がいるけど、母はひとりだ。それが、十年に満たない暮らしになるのだとしても。
朝、里に下りたカラスたちが夕方お山へ戻ってくる。アタリはことあるごとに里の様子を聞いていた。だから、俺を山へ返してから五年、誰とも暮らす気のない様子に業を煮やしたのだ。
アイツはこのまま放っておけば一人で死ぬつもりだと。
まあ、アタリが行けば行ったで、彼が元の時の流れに流されることを嘆くんだろうけど。
※
言われた通り、アタリが宮を出てから姫様に奉納してみた。
「これは?」
「は。母……以前仕えていたアオバの箪笥から出てまいりました」
「アレの……?」
顔を顰めた雰囲気が伝わってくるが、面の向こうではそうかどうかは分からない。
姫様は箱の中を思いの外じっくりと眺めると、「本当に、可愛くない奴よの」と呟いて扇子で箱を押しやった。
「片付けましょうか?」
「よい」
左近の問いにも素っ気なく答えるが、受け取るようだ。
脈はないな、なんて二人で軽口をたたいていたんだが、ある日冬の間で雪見をなさっている姫様が、紗を重ねたようなその面を着けているのを見てしまった。
柔らかそうな衣装によく合っていて、お顔が見えないのにとても美しく感じる。
母はよく「姫様はとてもお綺麗なの」と話してくれたけど、世辞でもなんでもなく心からそう思っていたに違いない。母の作った面はそう思わせるほど姫様にぴったりだった。
姫様のお顔は見る者によって違うというが、自分にはどう見えるだろう(父は拝顔した時に、思わず母の名が零れてしまったのだそうだ。父と母が受けた仕打ちの元が解ると、なんとも微妙な気持ちになる)。
不躾にもしばらく見つめてしまって、気付かれた時は心臓が飛び出すのではないかと心配した。
もしも拝顔する機会があったとしたら……きっと、とてもお綺麗に見えるんじゃないかな……
慌てて頭を下げつつも、どきどきと高鳴る胸が、それを予感させた。
※ 青葉眩しき山神さまの二葉葵・おわり ※




