2.身代わりの姫
勢子たちと合流したところで、鹿狩りを邪魔した者の正体は、あっさりと判明した。
「――王女殿下!」
笑顔で駆け寄ってくる相手は、よく見ればわたくしも面識のある方だ。
旅装用の地味なマントを羽織ってはいるが、内に纏うのは希少な白狐の皮で飾った上衣。輝くような金髪も空色の瞳も、美々しい方の多い王宮ですら目だっていたのをよく覚えている。
「アントガー侯爵……ですか?」
「そうですとも、親愛なるリリフィア王女殿下」
優雅な手つきで礼をする姿は、五年前とほとんど変わらないように見える。当時は侯爵家を継いだばかりだったはずだ。わたくしより八歳上とお聞きしていたから、今は二十二、三というところだろうに。
今もまだ、少年のように伸びやかで、屈託のない笑顔を浮かべている。
乞われるままに片手を差し出し、口付けを手の甲に受けた。
呼称については、きちんと訂正しながら。
「わたくしはもう王女ではありません、アントガー侯爵。お父さまからこの狭くひ弱な北の領土を与えられた、辺境の家臣に過ぎませんわ」
アントガー侯爵の笑顔が、一瞬、混ぜ物をしたように濁った。
わたくしの背後にルーウォークの姿があると気付いて、すぐに朗らかな表情に戻ったけれど。
「これはこれは、元騎士団長殿ではないですか。リリフィア殿下と共にこちらにいらっしゃるとはお聞きしていましたが、お変わりないご様子で何よりだ。以前にお会いしてからもう五年も経つと言うのに、いくつになってもお若いですね」
「侯爵閣下もお変わりないようで。口だけはよく回る」
ルーウォークが辛辣なのは、今の表情を見ていたからだろう。
取り付く島もない受け答えに辟易して、アントガー侯爵はわたくしの方に向き直った。
「リリフィア殿下、今日はあなたをお迎えにまいりました」
「迎え、とは……」
「正統なる王位継承者である御身を、長くこのような辺境に置き、無沙汰をして申し訳ありませんでした。どうか、今こそ我らの前に立ち、導いて頂けますよう……」
「――わたくしの今の立場を知っていて、そう言うの?」
問い返しても、アントガー侯爵はちらりとも表情を変えなかった。
ルーウォークが青ざめた顔で彼を睨み付けている。
今のわたくしを王女と呼ぶことがどんな意味を持つのか、わたくしにだって理解できない訳ではない――
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鹿狩りはうやむやのまま中止となり、ルーウォークとわたくしはアントガー侯爵を連れてヴィットレガル城へ戻った。
城内の一室、質素なサロンにアントガー侯爵を案内し、ロッロおばさんに淹れてもらったお茶で一息つく。
「いやあ、いいお茶ですね。上級品ではないのでしょうが、丁寧な仕事だ」
「それはどうも。すべて領民の手によるものですわ」
「領土をうまく経営しているようですね。王宮で蝶よ花よと育てられた王女殿下の手腕とは思えない」
「……ここはお礼を言うべきところでしょうか」
つんと顎を上げて不愉快を表現したけれど、アントガー侯爵はただ笑って受け流した。
「褒めているのですよ、ええ、心から。先の鹿狩りも、お見事でした」
「誰かさんのおかげで、獲物はゼロになりましたけれど」
「ただ獲物を追うだけのものではないでしょう、鹿狩りは」
冬空のように冷たい目が、わたくしを見据える。
見抜かれた気がして、ぞくりと肌が泡立った。
「あなたの指揮は良かった。己の手兵をどのように伏せるか、戦術を学んだものの配兵でした」
「――リリフィア殿下に向かって、無礼であるぞ」
ルーウォークが窘める。その声に籠った怒りに気付いてか、アントガー侯爵がびくりと肩を震わせた。
「いいの、ルーウォーク。控えなさい」
「……はっ」
わたくしの唇は、多分笑っていると思う。
――ある意味、待ち望んだ瞬間なのだから。
わたくしの答えを待たず、アントガー侯爵は余裕の笑みを取り戻す。
貴族らしい、鷹揚でしたたかな笑い方。
「王女殿下は、王都の状況をご存知でいらっしゃるのでしょう? ――ヴィットレガルに兵を集めているのは、そのためだ」
「あら、あれは兵ではありません、勢子ですわ。辺境には王都のニュースなど遠くて、何も伝わってはおりませんもの」
「そんなはずはない。ここのところ、王都では毛織物が大流行りでしてね。商人に聞けば、ヴィットレガル産だと言う」
「毛織物を見て、わたくしのことを思い出してくださるなんて、ありがたいお話ですこと」
「……商人は金と共に情報も持ち帰っているだろう。あなたは理解し――そして、準備をしているはずだ」
アントガー侯爵が、ぴたりと笑いを止めた。
核心に辿り着いた手ごたえに、わたくしの背が震える。
恐怖ではない――武者震いで。
「現王陛下とアウレヒト王子への批判は、国中で日に日に増している。王女殿下を廃嫡したことから始め、相次ぐ重税、不用意な取り締まり、教会との関係悪化――おかげで、機を読む周囲の蛮族には辺境を掠め取られている。この、ヴィットレガルを除いて」
「元騎士団長のルーウォークがいてくれるのですもの。ヴィットレガルが王国の足を引っ張るようなことはできません」
「今や、足を引っ張っるのは王都とそこに巣食う愚か者共です。アウレヒト王子に王冠は重過ぎる――リリフィア殿下。どうか、王宮へ戻り我らを導いてくださいませ」
言って、椅子を降り、静かに膝を突いた。
わたくしは黙ってその見事な金髪を見下ろす。
しばし、沈黙が場を支配した。
ルーウォークはもの言いたげにしていたけれど、口出しはしなかった。
何も知らぬ小娘の顔で、わたくしはアントガー侯爵に笑いかける。
「わたくしが先頭に立ち、重責を負うとして、あなたは何をしてくださいますの? 見ているだけ?」
「――いいえ、殿下。私もまたその責を共にしましょう」
年若い重鎮貴族は、今度こそ隠すことなく、会心の笑みを浮かべた。
「我が名と領土、麾下の騎士たち、そして私の永遠の忠誠を捧げます。――結婚してください、リリフィア殿下」
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アントガー侯爵を客間へ追い出してしまうと、サロンにはわたくしとルーウォークだけが残った。
互いに口を開かない室内は、どこか寒々しい。
窓の外には、どこまでも雪原が広がっている。
まるで、初めてヴィットレガルに来たときのように。
鮮やかな青い空と、吹きわたる冷たい風。
窓辺に佇んだわたくしには、室内を振り向く勇気はない。
いつかは知られると分かっていても、無邪気な子どものふりをしていたかった。
ルーウォークの前では。
だけど、黙っている訳にはいかない。
引き留めねば――わたくしは、ルーウォークを手放すつもりはない。
「……軽蔑した? ルーウォーク」
泣き言に聞こえないよう唇を動かすことに、ひどく苦労した。
ルーウォークは扉の傍に立ち、腕組みをしている。
「軽蔑?」
「わたくし……あなたが思うような、大人しい淑女ではないし」
「姫が戦を望んでいらっしゃることは、以前から存じておりました」
「知っていたの? ――ううん、戦いたい訳ではなかったの」
「では、なぜ私に剣を――弓をねだったのですか」
ルーウォークの低い声は、この寂しい室内によく響く。
剣を教わる時の、冷徹で淀みのない声。
わたくしは、指先で窓をこつりと叩いた。
「強ければ、自由になれるのでしょう? あのときのわたくしが強ければ、きっと選ぶことが出来たと思うの」
「……剣を握って選んだ先など、碌な未来はありません」
「そうかも知れません。だけど、此度は役立つでしょう」
「ご家族を、その手にかけるおつもりか」
「それが国のためになるならば。王族とはそのためにいるのです」
「――馬鹿馬鹿しい。体のいい人身御供だ」
苦々しく吐き捨てる。
ルーウォークならきっと、そう言うと思っていた。
「あなたが嫌がっているのを、わたくしも知っていたわ」
「当然でしょう。大事な娘を、喜んで戦場に送る父親などいません」
「――娘? わたくしはあなたの娘なのですか、ルーウォーク」
振り向かないつもりだったのに、怒りがわたくしを支えてくれた。
室内に目を向ければ、ルーウォークは、想像していたよりもずっと困惑した顔をしている。
つかつかと歩み寄り、鼻先が触れる程の近くから、ぎゅっと睨み付ける。
「やっぱり――あなたがわたくしについてきてくれたのは、そういう理由だったのね」
「何を――?」
夜空の色をした瞳が、何故か、ひどくうろたえた。
わたくしはその胸元に指を突き付ける。遠くから心臓を刺す、エロースの矢のように。
「あなたは母上のことを愛していたと聞いていたの。嘘だと思っていたけれど」
「そんな馬鹿な、私は――」
目が泳いでいる。噂の正しさを、その表情こそが証明した。
悲しみよりも、怒りの方が知覚が早かった。
「本当だったのね。あなたに限ってと思っていたのに」
「……王妃殿下が不貞を働いたことはありません」
「片思いだったって言うの? ええ、そうなんでしょうね。――だからあなたは、母上と瓜二つと言われるわたくしを、見捨てられなかったのよ。そのくらい、わたくしだってとっくの昔に知っていました!」
「そんなことは――リリフィアさま!」
強く肩を掴まれた。
わたくしは表情を変えぬまま、ルーウォークをしっかりと見上げる。
「構いません、お母さまの代わりでも――だから、最後までついてきてちょうだい。わたくしにはあなたが――いいえ、あなた以外にも一人でも多くの力が必要です。だって、敵は強大だもの」
ルーウォークが、苦虫を嚙み潰したような顔で首を振る。
「私は、もう年をとりました」
「いいえ、あなたは今もこの国一番の騎士よ」
「姫のもとには、ヨルクもケハルナも……サーヴァもいる。私の反対を押し切ってヴィットレガルへ留め置いた傭兵たちが」
「誰も、あなたには敵いません」
「姫ご自身の成長も目を見張らんばかりです。……今日の鹿狩り、見事でした」
「いいえ、いいえ! 鹿狩りなんて子どもの遊びだわ、わたくしには本当の戦場を知る方が必要です。だって、これからわたくしは、父と弟を倒すために王都に向かうのよ! そんな一大事にわたくしを――お母さまの娘を見捨てるおつもり!?」
何かを抑えるように、ルーウォークの両手に力がこもった。
わたくしはここぞとばかりに――母に似ていると言われた上目遣いで、ルーウォークの目を見上げ、その胸に手を当てる。
うまくいって欲しいと、強く祈る。
どうか、どこにもいかないで、ルーウォーク……。
「お願い、ルーウォーク。わたくしにはあなたが必要なの」
静かに胸元に身体を寄せると、ルーウォークはびくりと身じろぎした。
「姫、何を――」
「もしも、ルーウォークが母への望みを遂げたいと言うなら、わたくし……わたくしは」
目を伏せる。頬が熱い。どくどくと心臓が鳴っている。
はしたないなんてことはない、これは必要なことだもの。
恋愛じゃない。戦術だわ。
ルーウォークには、わたくしの陣営にいて頂くの。
高鳴る胸は、緊張しているだけ。今日の鹿狩りと同じことだわ。
差配するのが、勢子からわたくしの身体になっただけ。
そのためなら――いいえ、そのために、お母さまの代わりだって立派に務めて見せる。
だって――お母さまじゃなくわたくしを見て欲しいなんて……そんなこと言える訳がない。
力強い指がわたくしの肩に食い込んで、痛いほど。
頬に触れたルーウォークの肌がこんなに熱い。
わたくし、お母さまのように見えているかしら。きちんと出来ている?
ルーウォークにとって魅力的かしら。
緊張で膝が笑いそう。まだへたり込む訳にはいかないのに。
ああ、心臓の音がうるさい。この心臓は、わたくしのもの? それとも――
「――リリフィア殿下、おやめください!」
勢いよく引きはがされて、はっと目を開けた。
間近で見上げた瞳には、見たことのないような激しい怒りが宿っていた。
「……ルーウォーク?」
「おやめください、殿下。もう結構です。殿下がそうお求めになるなら、私はどこまでもついていきましょう。ですから――」
肩を突き放され、わたくしは数歩後退る。
こめられた手の力が、そのまま怒りだった。
「――ですから、そのためにアントガー侯爵の求婚を断る必要などない。彼の申し出は、渡りに船でしょう。どうぞご結婚なさい」
冷やかな眼差しに晒されて、言葉を失う。
立ちすくむわたくしを置いて、ルーウォークは踵を返した。
「アントガー侯爵は何もかもお持ちです。爵位も領土も、彼と手を組めば戦力も倍増する。年は二十三歳で、姫とは十も違わない。比べて私は――私に何がある? 爵位は返上した、かつて持っていた吹けば飛ぶような領土も、既に私のものではない。年だってもう三十――姫から見れば父親の方が近いくらいだ」
「と、年なんて関係ないわ! わたくしは――」
乱暴に開かれた扉が、激しく軋んだ。
わたくしはぎゅっと身を縮めて、その背中を見守る。
「アントガー侯爵は、殿下にお似合いのお方です。これから、老いて朽ちていくだけの私などよりも」
振り向きもせず、後ろ手に扉を閉めて出て行った。
音高く響く扉の音と共に、わたくしはその場にへたりと座り込む。
つまりわたくしは――あれから五年経っても、ルーウォークにとっては娘でしかないのだ。
決死の覚悟で差し出したものは、受け取ってすら貰えない。
わたくしの元を離れないと、そう言ってくれたはずなのに、ひどく心が痛い。
自分でも分からぬまま、頬を涙が伝っていく。
目的は果たしたはずなのに、何故自分が泣いているのか、わたくしにはどうしても分からない――