1.ヴィットレガルの元王女
冷たい風が、びゅうびゅう吹いていた。
国王であるお父さまが、わたくしを廃嫡した日。
お母さまの亡くなった翌日のことだった。
前国王のおじいさまも既にこの世にはない。王国栄光の時代を切り拓いた方だと多くのひとに惜しまれながら、昨年亡くなった。
お父さまを諌められるだけの権勢を持つ者は、他にいなかった。
唯一、お父さまの愛妾ジーグレッタさまとその子アウレヒト王子――わたくしの異母弟以外には。
娘であるわたくしは、若い頃の王妃――お母さまにこの上なく似ているらしい。柔らかなシルバーブロンドも菫色の瞳も、そして顔立ちも。
お父さまは、そんな娘が邪魔になったのだろう。長子であるわたくしよりも、後を継がせたい息子がいる今となっては。
第一王女でなくなったわたくしは、手早く王宮から連れ出された。
護送の役目を負ったのは、近衛騎士団長のルーウォークだ。
「王女殿下、夜は寒うございますから……どうか、私の方へお寄りください」
「……もう、王女じゃないわ」
郊外にある王家の別邸――ヴィットレガル城へ向け、護送馬車は雪原をひた走っている。
外では、吹きすさぶ風が荒れ狂っている。
窓に映るのは、わたくしの姿。そして、背後で微かに眉を寄せるルーウォークの姿。
ルーウォークは、晩年のおじいさまが、その手元で厳しく育てた生粋の武人だ。
鋼のようとうたわれる黒髪のつややかさ。夜空のように深い青の瞳がじっとわたくしの背中を見詰めている。
長身だから細く見える。だけど、軍服の下は弾力のある筋肉に覆われていることを、わたくしは知っていた。まだルーウォークの若い頃、幼いわたくしは何度もねだって見せてもらったから。
わたくしは長女だけれど、年の離れた兄がいればこんな風かしら。
力強く逞しく、誰よりも頼りになる方。
豪胆で忠誠心篤く、義理堅い、騎士の中の騎士――ルーウォーク。
「王女殿下――いや、リリフィア姫。馬車は雪風を防ぎますが、冷気はお体に悪い。それ以上はお風邪を召されますから、どうか」
ルーウォークの声には、心より気遣う色があった。
もちろん、彼を困らせるつもりではない。だけど、今振り向けば、泣いてしまう。
わたくしは窓の向こうに浮かび上がる白い雪原を睨みつける。
「……わたくしも、この風のようなら良いのに」
お父さまやその周りの意図など無関係に、風のように自由なら。
ルーウォークは黙って頭をかき、そうして息を吐いた。
「――失礼」
大きくて温かい手が、わたくしの肩を抱く。
軽く引き寄せられ、背中に冷たい勲章の留め金が当たった。
わたくしは振り返らなかった。
ルーウォークももう、何も言わなかった。
生まれ育ったこの城の姿を、もう二度と見ることはないのだろう。
もしかしたら、ルーウォークとこうして一つの馬車に乗ることも――
そんなわたくしの予想とうらはらに、ルーウォークは王宮へ戻ろうとはしなかった。付添の侍女も下男も、馬丁さえ帰った後も。
――軍服に並ぶ勲章の全てを、王宮へと送り返して。
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雪を照り返すせいか、晴れたヴィットレガルの朝はひどく明るい。
さやかに吹く風の合間に、ちよちよと小鳥の鳴き声が響いている。
わたくしはヴィットレガル城の狭い石段を駆け下り、目当ての扉を、音を立てて開いた。
「ルーウォーク、朝よ、晴れたわ!」
ちょうど寝台に身を起こそうとしていたルーウォークが、慌てて飛び起きた。
わたくしの声を耳にして反射的に跪いてから、驚きの消しきれない怒りの表情で顔を上げる。
「――姫! 何度言ったら分かるのですか。もう大きくおなりなのですから、男の部屋にノックもなしに入ってくるような不躾な真似はですね――」
「はいはい、分かってます。もう耳にたこができるほど聞いたわ。でも、今日は特別に見逃してちょうだい。だって、いつまでもルーウォークが寝ていては日が暮れてしまうもの。約束だったじゃない、晴れたら鹿狩りに連れて行ってくれるって」
ルーウォークの表情がさっと真剣みを帯びた。
彼が、わたくしを鹿狩りに連れて行きたがらない理由は薄々分かっている。だから、先手を打って叩き起こしにきたのだ。
「鹿狩りですか。いやしかし、今日は……その、雪解けも間近ですし」
「ねえ、お願い。移住してきたヨルクも、食客のサーヴァも、冬のヴィットレガルの変わらなさに飽き飽きしてるのよ。剣のお稽古ばかりじゃ腐っちゃうぜぇ、なんて言ってるんだもの。ほら、そろそろ干し肉もなくなる頃だし。ね? この辺りじゃ鹿狩りは、冬のちょっとしたお祭りなのでしょ?」
「姫はご存知のはずですが、鹿狩りは大変危険で――」
「まあ、誰に向かってモノを言っているの?」
わたくしは背に負った弓を見せ、にこりと微笑んだ。
「わたくしの腕が信じられない?」
「そういう訳ではありませんが……」
「わたくしが信じられないなら、わたくしを育てたあなたの腕を信じなさい。模範的な生徒だったでしょ」
「それは、まあ……しかしですね、鹿狩りとなると」
「もう! いいじゃないの。今日こそ連れて行ってもらわなきゃ、ルーウォークがわたくしとの約束を破ったって、泣いて城を駆け回るわよ」
最後の脅しがよほど聞いたらしい。寝間着のまま、困ってがりがり頭をかいている。
年上だと言うのに、こんな姿を見ていると、何だかルーウォークが可愛らしくて嬉しくなる。お部屋に突撃しているのは、このためでもある――なんて言うと、きっとこっぴどく怒られてしまうけれど。
しょぼしょぼした目でしばらくわたくしを睨み付け、それから、大きなため息と共にルーウォークは背を向けた。
「……姫のおてんばには負けます。支度をしますから、先に食堂へ降りて朝食を」
「ええ、ルーウォークの分も用意しておくわね。ロッロおばさんが、今朝のパンはすごく上手に焼けたって褒めてくれたのよ、楽しみにして降りてきて!」
ロッロおばさんは、ヴィットレガル城の――そうね、女官長みたいなもの。女手の少ないこの城で、王宮の役職をそのまま当てはめるのはとても難しいけれど。だから、女官長にして侍女、そして料理長でもある。さらには、下女の仕事にも端々まで目を配るという忙しさ。
そんな様子だから、わたくしも食事の用意や掃除などはお手伝いするようにしている。最初は「姫君の仕事じゃない」なんて言ってルーウォークに止められたけれど、最近ではもう諦めているらしい。
元気よくお返事して部屋を出る。扉を閉めるとき、隙間からそうっと中を覗き込もうとしたけれど、シャツのボタンに指をかけたルーウォークに見つかってしまった。
「――姫!」
「あは、ごめんなさーい」
今度こそ足音を立て、石段を更に駆け降りる。風のように。
焼き立てのパンの匂いが漂ってきて、幸せな気分に拍車をかけた。
ヴィットレガル城での生活ももう五年。
涙を堪えながら、去り行く馬車を見送った十歳のわたくしは、もういない。
何だって初めてのことばかりで、案外楽しいと思えるようになったのはいつからかしら。
炊事にお掃除、お洗濯。剣も握るし弓も引く。
城の周りの雪を掻き、畑のお手伝い。
乗馬も馬のお世話も、それから、それから――
――でも、鹿狩りはこれが初めて。
弓の扱いを覚えたら、きちんと的に当たるようになったら。
十五歳になったら、空が晴れたら、もっと早い時間なら――いろんな理由で延期されてきたけれど、ずっと楽しみにしていたのだもの。
今日こそ、連れて行って貰わなくては。
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勢子の鳴らす笛が、森に響く。
わたくしはぽんと手を打って、周りの男たちを見上げた。
「さあ、ヨルクは向こうへ回って。そろそろケハルナが合流するはずだから、川に向かうように誘導するの」
「はいよ。お任せあれ」
「サーヴァはこちら側から。だけど、わざとこの辺りの包囲は切っておいてね。鹿が油断しない程度に……そういうの、お得意でしょ?」
「姫さまにそう言われちゃ、期待に応えるしかねぇや」
苦笑しながら森へ向かう第二陣を、わたくしはルーウォークと見送った。
それから、騎乗して鹿が姿を現すのを待つ。狙いやすい位置に飛び出て来た鹿を射抜くのがわたくしの役割だ。
並んだルーウォークの表情が、心なしか硬い。わたくしがいるせいだろうか。
混ぜっ返すように、冗談めいて囁いてみせた。
「今夜は鹿鍋ね、ルーウォーク」
「……だとすれば、ロッロには、とびきり大きな鍋の準備をしておくよう言いつけておかねばなりませんね」
「ロッロの準備が無駄にならないようにしなくてはね」
ひとしきり笑えば、辺りの空気が少しだけ緩んだ。だけど、もちろんここからが本番だ。
猟犬が鳴きながら迫って来る。段々大きくなる足音を、胸を高鳴らせて待つ。
馬を走らせようとした直前、斜め後ろで馬を駆るルーウォークが声を上げた。
「――姫、良い差配でした。私の思っていたより、ずっと」
答える余裕はなかった。
わたくしは足を強く締めて自らの馬を御しながら、弓の弦に指をかけて構える。
勢子と猟犬に追い立てられた鹿は、見通しの良い泉のほとりに出てくる手はずだ。
後は――わたくしの弓にすべてかかっている。
がさ、と茂みが鳴る。
「きた……!」
息を詰め、弦を引く。
茂みのざわめきが大きくなる。近付いてきている。
矢の先を向け、十分に引き絞った弦から指を放そうとした――瞬間。
「いかん――鹿ではない!」
背中で、ルーウォークの怒声が飛んだ。
頭が理解するより先に、手を下げ、地面に向けて矢を放った。
視線の先では、茂みを抜けてきた影が明らかに鹿ではないのがようやく見える――あれは、人だ。
安堵する間はない。
目前を掠めた矢に驚いて、馬が棒立ちになる。強い力でぐいと持ち上げられ、わたくしは慌てて馬の首を掴んだ。
「いや……っ!?」
「落ち着け、足を緩めないで!」
混乱する頭にルーウォークの声が響く。
必死に手綱を取りしがみつくと、締め上げられた馬は逆に、興奮して駆けだそうとした。
「姫――!」
「ルーウォーク……っ!」
不安定な動きが続き、耐え切れず、背から跳ね落ちた。
宙に浮いた身体を、真下にあった逞しい腕が支えた。
わたくしが混乱している内に、横抱きのまま、暴れる馬から引き離された。
距離を取って安全を確かめたところで、腕の主がほっと息を吐く。
ルーウォークの横顔だ、とそのときようやく理解した。頬に触れた息の感触で、自分が生きていることに気付いて。
力の抜けた身体を、ルーウォークの腕がしっかりと抱えていた。
「お怪我はございませんか?」
「大丈夫……ええ、ルーウォークこそ、下馬したままあんな状態の馬に駆け寄るなんて――どこも怪我していない?」
額からしたたり落ちた汗が、ぽつりとわたくしの喉元を叩く。その距離の近さに胸を高鳴らせて、そっと指を伸ばした。ルーウォークの目元が優しく緩む。
「ご無事でよかった……」
ぎゅっと抱き締められた。小さい頃と同じ、温かな手。
だけど、わたくしが抱き返す前に、そそくさとルーウォークの手は離れていった。
「――それにしてもどういうことだ。今の者、勢子には見えなかったが」
途端に、真顔に戻ったルーウォークは、わたくしを地面に下ろした。
独り言ちながら、わたくしを置いて歩み去ろうとする。慌てて彼の背中を追った。
「待って、ルーウォーク! わたくしも行くわ!」
駆け寄ると、歩く速さは緩めてくれたけれど、振り返ったりはしなかった。
拒絶する風ではなかったから、わたくしも黙ってついていったけれど。
何も言わなくとも、心は何故か満たされている。
いつだってわたくしの横を歩いてくれる、ルーウォークだもの。