八十億分の一の人
綿津見神の神使殿も吾の返事に驚いたようで
「ああ、すまない。海の深海ではなくて神の神界に行っていただきたい。神界にて綿津見神がそなたをお呼びです」
「吾にどのようなご用件でしょうか」
「一人称が吾とは随分長く世に在られるのですね。用件については伺っておりません。とにかく至急ご同行いただきたい」
「わかりました、ついて参ります」
神使殿は急がれているようだったので、とにかく付いていくことにしました。側から見ると、淡い人魂のようなモノが二つ、深海から登っているように見えたでしょう。ゆっくりと上昇し、海面が近づき久しぶりの陽光を感じられる付近では、すでにとても眩しく感じられました。そもそも吾に目はありませんが。
「この薄く射し込む陽の光でさえ、とても眩しく感じます」
「千年も光の届かない世界におられたら、そうでしょうとも」
海上にある真紅の鳥居をくぐり、神界に入りました。人ならば腰の高さ程に浮く雲を避けて進みます。雲が晴れた場所で辺りを見渡せば、広い草原のような場所に出ました。遠くに寝殿造りの屋敷が、ぽつりぽつりと見えます。
またしばらく進むとひときわ大きな社殿のような建物が見えてきました。拝殿を上がり、本殿の手前で「こちらでお待ちくだされ」と神使殿は御簾の奥にすすまれ、しばらくすると入れ替わり綿津見神が現れました。
「久しぶりです、もと銅鏡の付喪神殿」
「お呼びたりかたじけなし久しく重濁なる海の底より罷り越したります。綿津見神様におかれましては・・・」
「挨拶を遮って悪いのだが、私とは普段 神使と連絡を交わされるのと同様で話されるがよい」
「・・・申し訳ありません、綿津見神様と言葉を交わすのが千年ぶりくらいでしたので、緊張の上にどう話したらいいのかと困っておりました」
綿津見神様は広く男神とされているが、そもそも神に性別はありません。ただ、依り代や降ろす巫女などの影響によって区別されているように聞いています。今、目の前の綿津見神様はまさに男性の姿。短く整った髭に短く刈られた髪が涼しげに見えます。吾が付喪神だった頃は角髪であったと記憶していましたが、神は時代とともに移り変わる信仰や、人の思い描く具象の影響も受けると聞いたことがあります。これが今の綿津見神様の印象なのでしょう。
「早速だが・・・今世では神の手が足りなくてな。私もこの世界のひとところに居るわけにもいかず、難儀しているところだ」
「異界との交わりのことですね」
異界とはいわゆる次元の違う世界や地球と異なる他の星の事で、ここ千年は世界中の神々も総動員で行き来しているそうです。神界は近年信仰が薄れてきているそうで、管理のできる神手不足状態にあると、神使殿からは常々聞かされていました。
「そうだ。そこで気になっている星が一つある。生命体が人型で進化し、やっとそなたが海底に向かった時代の文明文化まで育ってきてな。その星の未来を導くべく、日の本の国より一人、古い時代を知る人間を転生させたのち、転星させる予定なのだ。地球人口80億からとある神が厳選した者だ。
ところが、その人間を守るべき神の手が足らず、このままではその者に十分に支援ができそうもない。そこでそなたには神として復帰してもらい、転星者やその周囲の者達を守護して欲しいのだ。神体も依り代も用意するつもりだ」
「今まで吾が見ておりました深海はよろしいのでしょうか?」
「この星の人の欲には限りがない。それでいて信仰は薄れており様々な弊害が生まれてきてしまっている。そのうちにそなたが見守っておった深海も、じきに資源探査などで荒らされるであろう。もう私は神の力の及ばぬこの星の管理は諦めて、これからの星に期待をした方が良いと判断したのだ」
「・・・その星も、この後に荒れそうなのでしょうか?」
「まだ分からない。大きな障害になりうる存在は確認されておらぬ。少し面倒な邪神は少し前に対処した。しかし、消滅を確認できなかった事が気にかかってはいる。
守護すべき星の守護神もまだ不在で、神界は未成熟の状態だ。細々とした神、付喪神のような存在は居るようだが、この星、いやこの国のように八百万という程でもない」
ふと吾が生まれた国の事を思い出しました。
二千年前、戦に敗れ大国に蹂躙される国。目の前で殺されてゆく神官に巫女達。焼け落ちる社、建物、人々。
鏡でしかない吾はただただその光景を鏡面に写し、視ている事しかできませんでした。
「なるほど、わかりました。しかし吾が神だった頃も、崇拝する人々に幸運の祝福を授ける程度の加護しか与えられず、一緒に転星する人や周囲まで吾が護るのは容易ではないかと思われます」
「それは分かっておる。運は重要な要素とはいえ、運だけでは護りたい者も守れぬ。授けたくてもそうそう授けられるモノでもないがな・・・
さて、そこでそなたには綿津見神の力を分け与えようと思う。そのために、わざわざ千年もの長き時間を、私の力の及ぶ海で過ごしてもらったのだからな」
綿津見神様は少し楽しそうに微笑まれました。
「まずは守るにも、そなたの入る器が必要だ。そなたの神体に依り代の希望はあるかな」
「はい、神体はやはり鏡でお願いいたします。依り代は・・・神獣も考えましたが転生者に寄り添えるよう人型にてお願いいたします」
「ふむ、神体はそう申すであろうと用意はしておったが、依り代は人型か・・・いろいろ苦労もする事になるがよいか」
「はい、お願いいたします」
次回は転生する人の視点になります。