カランコエ
ーーその音色は、不思議な魅力を持っていた。
少年の10本の指が、鍵盤の上を踊る。音自体は、普通に学校などに置いてあるピアノのそれで、なんら変わった音ではないはずである。
けれども聴いた人が10人いれば、9人はいつの間にか足を止めて聴き入ってしまうような、そんな演奏だった。
急ぎ足でどこかに向かっていたサラリーマンが、OLが、女子高生が、彼の音色に魅せられて足を止める。そこに、老若男女の区別はない。
曲がひとつ終わると、はっと夢から覚めたかのように我に返って時計を確認し、慌ててまた歩き始める。
そんな光景が、少年がピアノを弾き初めてからずっと続いていた。
少年の弾く曲の種類は様々だ。超絶技巧を要求される練習曲から、誰が一度は聴いたことのあるようなクラシックの名曲、果てにはアニメのテーマ曲まで、本当に多岐にわたっていた。
ピアノから少し離れたところの、備え付けのベンチ。そこに腰掛けている少女がいる。彼女はリュックを抱き締めるように抱え、じっと目を閉じていた。時折リズムを刻むように動く爪先が、彼女が眠っていないことを示す。
曲の終わりの音に合わせて、少女は目を開いた。視線の先では、演奏を終えて立ち上がった少年が、たくさんの聴衆と拍手に戸惑っていた。
その様子を眺めて、少女は口許に優しい笑みを浮かべる。そっと少年の名を呼び、そして万感の思いを込めて呟いた。
「おかえり」
ずっと、ずっと待っていた。彼の苦しみを知っているから口にこそ出せなかったけれど、彼の復活を一番待っていたのは、きっとその少女だった。
「おかえり、私の憧れ。おかえり、私のヒーロー」
もう一度小さく呟いて、少女は背を向けた。今は、声はかけない。それは次会う時までとっておこうと、そんなことを考えながら、少女は歩き始めた。
その後ろ姿を少年の視線が追っていることには、気づきもしないで。
「ありがとう」
小さく呟く。こちらに背を向けて去っていく少女に聞こえないのは重々承知のことで、その感謝が自己満足に近いことも、少年はしっかりと自覚していた。
彼女が自分を心配してくれていたことを、少年は知っていた。
とは言っても、彼女が影から応援してくれていたことを少年が知ったのは、本当に最近のことだ。友人に指摘されて初めて、彼はそのことに気づいたのだった。
自分のことでいっぱいいっぱいで、周りのことなど気にかけている余裕などなかった。
今ようやく、少し余裕ができて、周りのことに注意を向けられるようになって、少女が自分にしてくれていたことがわかるようになった。
その時、少年は感謝の念を抱くとともに、同じくらい困惑もした。彼女がそこまで彼を応援してくれる訳が、正直どれだけ考えてもわからなかったのだ。
名前と顔は知っている。だが逆に言えば、それくらいしか彼女についての情報を少年は持ち合わせていなかった。
少年は、少女と話がしてみたかった。これまでの応援のお礼が言いたかった。どうしてこんなに応援してくれたのか、その訳を聞いてみたかった。
だが、彼女は今日、自分と話す気がなさそうだった。
ならば、今はその機会を待つとしよう。少女が自分の復活をじっと待っていてくれたように。
少年は、これからも決して平坦ではないであろう己の行く先を、けれども明るい表情で見据えて微笑んだ。