プロローグ
あれから何時間経ったんだろう……
目が覚めてから最初に思ったのがこれだ。完全に意識が戻っていない頭を押さえようと左手を当てた。
切断されたはずの手が元通りになっていた。それだけでなく体全体から痛みが消えたことに驚く私だが、それよりさらに驚くことがあった。
「なに……これ……」
それは私の手であることはわかる。先程自分で動かしていた感覚がまだ残っているのが証拠だ。それでも自分の手とは信じられなかった。張りのある人間の肌ではなく、滑らかな光沢を放つ殻。それらを繋げる関節にあたる部分は、子供の頃に遊んだ人形と同じ球体の関節だ。
形は人間と変わらない。だが昆虫か、人形か、そのどちらを掛け合わせたとしか言えない無機質な手が、驚愕する私に合わせるかのように震えている。
手だけじゃない。腕、肘、肩も同じだ。反対側の腕もだ。
自分の一部でありながら異形の両手を見つめるしかできない私。その時、“奴”が言っていた言葉を思い出す。
――
「目覚めた時の自分の姿を見て、どう思うんでしょうね?」
――
私を瀕死に追いやり、体に何かを流し込んでいた“奴”は口の端を上げながら倒れ伏せていた私の近くに鏡を置いたことも思い出した。
その鏡をすぐに見ることは出来なかった。奴が言ったことの意味……私のこの手……予想ができていた。だから見たくない。予想が合ってほしくない。だから鏡を見ないようにした。
それでも……予想が外れること、鏡が壊れていた、そう期待して鏡の方を向いた。
そして後悔した。
鏡の中には人の形をした何かが映っている。
黒目と白目の境目がなく、ただ全体が薄緑色に染まった目。額に逆三角形の配置で出来ている痣……いや、単眼。私と同じ金色の前髪に混ざって生えている二本の長い触覚。頬を無機質に裂けて変化した、驚愕で塞がらない口。それらで構成されている仮面のような顔をこちらに向けている。
その顔から下も昆虫と人形を掛け合わせた――別の言い方をするなら薄く細い鎧――のような異形の身体をしている。細かく説明すれば腰回りはスカートのように殻と薄い羽に覆われている。
鏡の中にいる虫じみた人外をただただ見つめる私。人外も私を見つめている。
首を横に振る。人外も首を横に振った。今度は激しく振る。人外も激しく振った、同じタイミング、同じ向きで。
あの人外と私の関係はわかっていた。でも受け入れられない。あんな怪物が私だなんて……
「違う……あの化物は……私じゃない……」
私の口から漏れる言葉に合わせて口を動かす人外。それを見た瞬間、抑えきれない怒りが込み上がった。
「私の真似をするなぁッ!!」
気付けば駆け出し、人外がいる鏡に向かっていく。一色の目の端を上げ、裂けた口から食いしばる牙を見せる人外の顔を見て、頭に血が上っていく。腕が届く範囲まで狭まった地点で私は片腕を上げ、鏡にいる目の前の人外を殴りつけた。
鏡が砕かれていく音が耳に入っていくまま、深呼吸する。地面を見つめていた私は顔を上げる。そして、その時の光景に何も感じられなかった。
殴るための手のひらから、いつの間にかノコギリ状の刃が伸びていて、鏡を貫いていた。刃を中心に広がるヒビで見えづらかったが、人外も全く同じことをしていた。
……そこでやっと認めることになった、人外と私が同じであることを。
私の一部である刃を鏡から引き抜かず、そのまま割れた鏡に寄りかかった。しばらくの間、私の頭に「動く」という発想は浮かばなかった。
受け入れてもまだ、時間が必要だ。羽化する虫のように。