=★「デタミネイション」=★
陽一の人生でこれほどまでに重い扉はなかった。
(――開けたくない)
開いてしまえば、陽一は佳恵と秋斗に全てを打ち明けなければならない。
(そういえば、あの竜崎という男は家族に隠せとは言わなかった。俺の裁量に任せているということか。それとも、やはり新手の詐欺なのか。だから細部まで詰められていないのか)
色々陽一は考えてから、恐らくそれには意味がないと、陽一はそれ以上を考えるのをやめた。隕石衝突の事実を正確に竜崎らは把握していた。それに関して言えば、イタズラにしては手が込みすぎていると陽一は判断した。
そして竜崎らの焦眉感。本物だけが放ちうる必死さであったような気がした。
「ただいま」
重い玄関の扉を開け、陽一は零すように言った。
「おかえりー!」
ドタドタと秋斗が満面の笑みで駆けてくる。
秋斗を抱き締めるように受け止めて、その後ろに仁王立ちする佳恵に陽一は気がついた。
「た、ただいま」なお陽一は小声になる。
「なんでこんなに遅い? どこに行ってた?」
険しい顔で質される。
(出会った時はもっと穏やかだったのになあ)
「人と会ってた。佳恵、話がある」
「話ぃ?」
下手な言動が即、死に繋がる。陽一にとってかなりまずい展開だった。
「大切な話だから」
「……な、なによ、改まって」
佳恵が少しだけ怯えたような顔をした。
それから陽一は今日一日で起きたことを説明していった。その途中、佳恵は激しく怒ったような表情になったり、本気で呆れた表情になったりした。
あれだけ陽一の頭を悩ませたリストラの件もすっと話すことができたのが不思議だった。今ではリストラの件は実に小さなスケールに感じられる。
「だからこれから行かなきゃならない」
最後に陽一はそう付け加えた。
「ふざけんじゃないわよ。なに、アンタ浮気でもしてんの? だったら離婚ね。本気でムカつくわ。まだ真正直に話してくれた方がマシ。なんなのよアンタ」
既に佳恵の怒りの臨界点は崩壊し、メルトダウンを始めたようだ。
「浮気なんてしてないし、しないよ。俺は佳恵を愛してるから」
普段言いにくいことを今日は素直に言える。
「は、はあ? なによ、なんなのよ。アンタの言いたいことがサッパリわからない。さっきから黙って聞いてれば、うんちゃらウォーとか、鍵とか何言ってんのかわかんないわ。アンタのその横文字好きなんとかなんないの? 全部クソださい」
佳恵は一気にまくし立てた。佳恵の言い分はもっともだった。陽一自身もよく分かっていないのだから。
「とにかく。行かなきゃならない」
最初から陽一は分かっていたが、埒があきそうにもない。
「あり得ない」
佳恵が即座に言い放つ。
「パパ。どっか行っちゃうの」
秋斗が泣きそうな顔をして陽一を見つめていた。
「少しだけお出かけしてくるね。ママを頼むよ」
陽一は秋斗の高さに合わせるようにしゃがんで、頭を撫でた。
「どこに行くの。何するの」
「世界を救いに行ってくるんだよ」
秋斗がここまでの話の全てを理解できているわけがないが、父親として嘘はつきたくなかった。
「呆れた。秋斗にまで変なこと言わないでくれる」
佳恵は再び仁王立ちになって、リビングのドアの前に立った。
「ごめん。行かなきゃ」
佳恵に向かい合う。及び腰になりそうになるのを必死でこらえる陽一。
「あんたさ、ゲームのやりすぎなんじゃない。だからそんな厨二病っぽいこと言い出すのよ。どうしても行きたきゃ離婚届書いてからにして。くっだらないアダムなんちゃらだかなんだかの前に、明日からの生活どうするのよ。生きてかなきゃなんないでしょうが!」
怒気を十二分に孕ませながら、佳恵は陽一に詰め寄る。
「帰ってきたら――……。帰ってこられたら……必ず働き先を探すよ。だから、お願い。行かせて。生きていく前に、生きていける世界がなくちゃ。俺しかできないって言われたんだ」
――帰ってこられたら。必ず帰るとどうして言えないのかと、唇を噛みしめる陽一。
「アンタの話が本当だとして! なんで! アンタが! そんなことしなきゃなんないのよ!」
佳恵が声を荒らげる。
「俺が〝鍵〟だからだ」
それしか言えない。どうして自分が〝鍵〟なのか、よく分からないのはさておく。
「もういいわ。行きなさいよ。アンタと話してるとあたしまでバカになってくる気分だわ。ただしアンタが帰ってくるのはここじゃないわ。アンタが帰る頃にはここにあたしたちはもういないだろうし」
「佳恵、待っててくれないのか」
「逆だったらどう思うの?」
「…………」
陽一は沈黙で返してしまった。似たり寄ったりな反応をするだろうことを暗に匂わせてしまう。
「もういいわ。どこぞの女のところでもなんでも行きなさい」
そう言って佳恵は口角をニヤリと上げた。楽しくて笑っているんじゃないことぐらい分かる。
「……行ってきます。秋斗、帰ってきたらすき焼きやろうな」
すき焼きは秋斗の大好物だ。まさしく家族の食べ物という気がするので、もちろん陽一にとっても大好物だ。
「すき焼き好き!」
屈託のない笑顔を見ると、陽一は後ろ髪を強く引かれる気になる。決意が揺らぐ前に行こう、そう陽一は考えた。
静かに一人でパーカーとジーンズに着替える。何となく動きやすい格好にしたかった。少し肌冷えする時期であることから、パーカーの上にダウンジャケットを羽織る。
陽一はスニーカーを履いて、固く紐を結ぶ。
よく佳恵に対して折れなかったな、と独りごちる。
(意外とアクセルを踏み始めたなら、そのままいけるタイプだったんだ)
アクセル――、その言葉にまだ秋斗が生まれていなかった頃の佳恵の自論を、ふいに思い出した。
『男と女ってさ、結局どっちも同性間で格付けしあってるんだと思わない? 女ばっかり比較しあってるとか言われるけど、男も一緒。ただ男と女で大きく違うのは、アクセルかブレーキかってことだと思うんだよね。男はいかにバカなアクセルを踏み続けられるかを競ってる。女はいかにブレーキを踏まないかを競ってる。だから女って同性にブレーキを踏ませたがるんだと思うな。例えば変な噂話流したりさ』
男は馬鹿なアクセルを踏む、だったらやはり俺も男だ――と、陽一は不思議とそれで勇気づけられた。
「行ってらっしゃい!」
秋斗が破顔しながら駆け寄ってきた。その後ろには壁に寄りかかるようにしている佳恵。もう一度、陽一は秋斗を抱きしめて、佳恵の方に顔を向けて「行ってきます」と伝えた。佳恵が軽く鼻で笑う。秋斗の耳元で陽一は囁いた。
「男がカッコつけるのは…………だからだよ」
「よくわかんない!」
自分の幼かった頃を思い出し、父親の背中を秋斗に残した。
玄関扉を思い切り良く開けて、陽一も、そして佳恵も、竜崎たちの話が与太話ではなかったことを思い知る。