*❶「ケルベロスゴーゴー!」❶*
冥界の番犬、ケルベロス。奈落の底にある冥界の入り口で、死者が冥界から逃げないように、三つの頭で見張っている。冥界が冥界たる所以は、ケルベロスの爪と牙の管理による。逃げるならば、食いちぎり、抵抗しようものなら、噛みちぎる。それが三首頭の魔獣。
恭介は己を魔獣だと言い聞かせた。もう己の楽しみなどは捨て去り、IEELのゴミどもを冥界に送り込むことだけを考える。
廃工場が爆発し、恭介は吹き飛ばされた。鬱蒼と茂った雑草の中で、むくりと起き上がる。恭介の上には、死体が被さっていた。それは、爆発の刹那に、もっとも恭介の側にいた同盟の一人を手元に引き寄せて、使い捨ての盾としたからだった。思考による対応ではない。ほとんど反射に近い動きで、恭介は身代わりの盾を使った。恭介の代わりに灼けた死体を乱暴に押しのけ、恭介は立ち上がる。爆炎にあてられたからか、顔中がちりちりとひりつく。
「先導者! ご無事だったんですね!」
後ろから同盟の何者かが声をかけてきた。恭介は正面で燃え盛る廃工場から視線を切って、緩慢な動きで振り返った。
「ひっ」
声をかけてきた同盟の何者かが、恭介の顔を見て小さく悲鳴をあげた。
「……ネズミ、ども、は、どこにいる」
名前など知らぬゴミに向かって、恭介はささめくように訊いた。何やら口の動きが悪い。
「ナ、先導者──……。お、お顔が……」
恭介の顔を見て、何やら慄く白蟻。
「俺、の顔が、どうかした、のか」
鈍重な口の動きが、恭介を苛立たせる。続々と到着してくるレンジャー隊、バギー隊の放つ光の群体に向かって、恭介はのろのろと歩き出した。時間もかかったが、ルクレール隊も数台追いついて来ているようだ。歩き向かう先は、大編隊が組まれた軍隊にしか見えない。
恭介を視界に入れたどの白蟻も、一様に慄いていく。中には顫えをみせる白蟻もいる。恭介が歩くに従って、白蟻が避けるようにするのを横目で見ながら、一台のバギーに近づいた。
引っ手繰るようにして、エンジンをつけたままのバギーのミラーを覗き込む。
──魔獣。己の顔を覗き見た恭介の素直な感想がそれだった。右目の脇から口に至るまでの顔の右側が、醜くも灼け爛れ、溶融した皮膚が朽ちておち、所々で再固着している。左耳周辺も爛れおち、おちた部分を中心とするように頭髪が無くなっている。
恭介が本来なすはずの一つの顔が、見る角度によって三つの顔に見える。恭介から黒いオーラが立ち上り始めた。そのオーラは、決して目に見えるような確かな存在ではない。けれども、地球解放同盟の迷える羊たちからすれば、そのオーラは明確なエネルギーを発していた。
地球解放同盟たちが群がる廃工場に、様々な緊急車両が近づいてくるのが、けたたましい音や光で分かる。
(──警察か……。散々焼き殺してやったから、数を増やして来やがったな)
「先導者──……。これから我々はどう動けば……」
情けなくなるほどに狼狽える白蟻。
「ネズミども、は、どこに、いる」
爆発の火炎により、溶けて唇同士が附着しているため、恭介の口の動きが著しく悪い。
「先ほど光師とも連絡を取り合いましたが、IEELの連中の行方が……わ、分かって……いません」
ひどく言いにくそうに白蟻が口籠る。
(何が光師だ。気持ち悪い役職で呼び合いやがって。あんな奴はしいたけ君で充分なんだよ)
同盟員が光師と呼ぶのは、恭介にとってのしいたけ君である。
「桜……だ。桜を、探せ」
「桜?」
白い布で覆われているので、白蟻の表情が分かりにくいが、きょとんとでもしているのだろう。
「お前、ら、も、見ただ、ろう。ネズミども、が、通った、後に、は、桜が咲き、乱れていた、のを」
IEELと〝鍵〟を追いかけ始めた守屋山の中、それから奴らが通過したであろう場所には、多大に季節を外した桜が咲いていた。
「ええ。こんな時期に桜が咲いているのは気味が悪いですよね」
白蟻の勘の鈍さに苛立つ。喋るのがひどく億劫になっている恭介にとってはなおさらだった。
「それ、を、みち、しるべに、するん、だ。サツ、は、アパ……ッチで対応、しろ。サツは、空戦に、よわ、い。そっちは、光師、に、まか、せろ」
長く喋ったせいで、恭介は顔中が痛み始めた。
公安と地球解放同盟の因縁は、今に始まった事ではない。しかし今回は、誰の目にも明らかなレベルで騒ぎを起こしているので、今回出動しているのが公安か恭介には判定できていなかったが、その可能性は十分にあると考えていた。
──警視庁公安部。古くは、大日本帝国時代の警視庁特別高等警察部の流れを汲む。地球解放同盟にとっての宿敵は、極左団体の捜査を行う公安第一課。地球解放同盟が力をつけ始めた頃より、公安第一課の人員は増え続けている。地球解放同盟の壊滅を目的としながら、同盟を泳がせるように公安が動く場面は多い。恐らく、公安は同盟の裏にある組織の特定を先行させていると考えられる。
その宿敵との空戦が展開されることになるが、恭介はそのことよりも己のことを考えていた。考えるというより、暗示をかける行いに近い。
魔獣、そう、三首頭の魔獣、喰いちぎれ。そう念じ始めた恭介の精神も、本格的に魔獣らしく変化していく。
(俺は三首頭の魔獣だ。冥界の番人だ。IEELのネズミどもを残らず『/冥界』に叩き込む)
レンジャー隊が用意した移動用車両に移った恭介は、顔を濡れたタオルで冷やしたが、痛みは一向に引く気配を見せなかった。
「先導者! 桜の道がありました! 光師が追っていった先に続いています!」
「行け。それ、と、さっき、言っ……た、ほう、も、やれ」
(結局、あっちか──。裏の裏をかかれた──。次は俺の奥の手を見せてやる)
ジープ型の移動用車両が桜の道標を追って、動き出す。
『すみません先導者。奴らの73式軍用車両(3トン半)は爆撃したのですが……。どうやって逃げ延びたのでしょうか』
しいたけ君から通信が入り、言い訳じみた言葉が流れ出てくる。
「それ、は、もういい。アンタは、とに、かく、警察を、抑え、ろ」
いちいちクズどもの失敗を穿り返すのも煩わしい。恭介は己の指示で、同盟が動いていたことを完全に無かったことにしていた。その矛盾するような心の動きは、目的達成のために意識を集中したのと、潜在的に敗北を恐れることが織り成したためだった。
やがて恭介らは権兵衛トンネルに到着する。すっかり燃え尽きた73式軍用車両(3トン半)の残骸が、権兵衛トンネルの前に陣取っていた。そして、権兵衛トンネルの入り口からすぐの所に、投げ出されたコンテナがあることに気づく。
(これに乗って移動しやがったか──。だが、このコンテナじゃあ、車を積むのは無理だな。と、なるとネズミどもは歩きだ。追い付ける可能性は高いな)
消防関係の車両が一台もないのは、そもそも発見されていないからか、もしくは恭介らの起こした山火事に対応しているかのどちらかであると恭介は考えた。
(山に火を点けたのは、強ち無意味でもなかったか。ここで警察以外にも割り込まれたら面倒だった)
真っ直ぐに続く、トンネルを悠々と恭介を乗せたジープが走りゆく。
トンネルの中だと、桜の道標を辿ることはできない。しかい一本道ではあるのだから、長い権兵衛トンネルを猛スピードで進行する。顔にあたる風が、顔中の傷を舐め回すので不快だった。
ようやくと権兵衛トンネルを抜けた先は、樹々が生い茂るだけで、桜はおろか、目立った花はどこにも咲いていなかった。
「先導者……。桜がありません」
「見れ、ば、分かる」
停止したジープの上で、恭介は思考を働かせ始めた。
(どういうことだ? 何故ここで桜が途絶える? …………──そうか。奴らの目的地が、《トンネルの中》だからか)
「もど、れ。トンネルの、なか、だ。車を、降り、て、隈なく、さが、せ」
黄色に灯された深く長いトンネルを、一匹の魔獣が行く。恭介は三首頭の魔獣となり、冥界から離れるのではなく、冥界を引き連れながら進む。今の恭介に捕らえられたら、情け容赦も無く、冥界行きとなることは必至であった。




