第三話 声たてて 食らいはじむる スミレかな
親しみを持たせるために、あえて「〜屋」という表現を用いております。他意はございませんので、ご了承ください。
ショパンの曲が好きだ。優雅で、かつ情熱的で。ワルツやノクターンもいいが、『木枯らし』と名のつくエチュードがたまらなく好きだ。
しかし、あまり長く聴いていると、気分が萎えてくることがある。内向的になってくる、という表現が適切かどうかわからないが、音楽の持つ情熱の幻想的な世界に酔い痴れてしまい、現実からひどく遠ざかっているような気がしてしまうのだ。
窓の外へ目を向けると、薄紫色の空は濃い青紫へと変わっていて、その下には、黄色い明かりがあちこちに灯っていたーー
「止めてくれないかしら、そのレコード」
食虫植物が口を開く。
「いや、これ、CD」
そう言いつつも、俺は彼女の言う通りにする。
ここでいう食虫植物とは、俺が一週間前に、駅前の園芸店で眼鏡の小男から購入した、ヒメアシナガムシトリスミレのことだ。「彼女」というのは、なんのことはない、その声と口調から、女性であると判断できるためである。
だが、いちいちこの長たらしい名前を出すのは億劫千万阿呆の所業というもので、だからといって単に「食虫植物」と呼ぶのも味気なく、あるいは「姫足長虫取り菫」と漢字表記にするのもなんだかなあという感じがするため、つまらない拘りを捨て、単に「スミレ」と呼ぶことにする。(俺は、別れた元彼女のことを本当に愛していた。決して、バカにしているわけではない。このことは、機会があれば何度でも言いたいところだが、あまり言いすぎて、「これは嘘なんじゃないか」というミスリードとなってしまっては元も子もないため、これで最後にしておこうと思う。少なくとも、今の所はそう考えている。)
スミレが初めて口をきいたのは、俺が世にも恐ろしい「水面」というものを眺め終え、停めてあったママチャリに手をかけた、まさにそのときだった。
「嘘よ。あいつの奥さんとの話は真っ赤な嘘。そもそも奥さんなんて、いた例がないんだから」
「えっ……」
という驚きの声さえ出なかった。なにせ俺は、本当に彼女のことを……、じゃなかった。本当に、驚いていたのだから、声を発することすらできなかったのだ。
もちろんそれは、声が聴こえたことへの驚きであって、眼鏡のジイさんの話などどうでも良かった。(聴いていて案外楽しかったし、たとえ嘘でも。)加えて言うなら、ーー というより、これは加えて言わなくてはならない重要な情報なのだが ーー その声が、俺の元彼女の、果実のように紅い唇から発せられるそれと瓜二つだったのだ。
「スミレ……?」
「正解よ。その前に、ヒメアシナガムシトリ、っていう文言をつけてくれたらね」
彼女の言葉を聞き、その声が紙袋の中から聴こえているのだと気づいた俺は、袋から彼女 ーー 今後「スミレ」と呼ぶことにした食虫植物 ーー を取り出した。
「面倒くさいから、スミレでいいけど」
そういう彼女の葉 ーー 以前俺が、緑の小籠包のようだと形容したそれ ーー に、小さな虫が止る。そいつは、みるみるうちに溶けていった。
「何よ、あんたの前で食事しちゃいけないっての? 元カノだって、平気でラーメン啜ってたじゃない」
「あ……」
そう、彼女との出逢いの場は、ラーメン屋だった。