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第二話  ハエトリグサ、枯れしのち


『水の上』


  モーパッサンの短編小説なのだが、生まれてこのかた、私はこんなに恐ろしい小説を読んだことがない。エドガー・アラン・ポーの『黒猫』を読んだときでさえ ーー それは高校一年の夏だったと記憶している ーー、これほどまでの恐怖は感じなかった。揺らめく河川の水面みなもを見るたびに私は、未知の世界へと引きずり込まれるような不安を覚えるのだ。


 が、幸か不幸か、黄色い列車の音が、私を元の喜劇へと引きずり戻す ーー










 ーー 食虫植物が、俺に話しかけてきた。

 この身の毛もよだつような体験の経緯を、俺自身の口から説明しよう。


 事の起こりは二週間前、スミレに置き去りにされたハエトリグサがこの世を去った翌日のことだ。(スミレというのはすみれのこと、つまり、俺の元彼女だ。)

 彼女のことが忘れられずにいた俺は ーー 俺は、本当に彼女のことを愛していたのだ ーー、ふと、どこかで「スミレ」という文字を見つけた記憶をよみがえらせていた。俺は一体、どこで彼女の名前を……。



 スミレ……、菫……、すみれ色の空。

 いや、違う……。

 ……菫……、花の名前……、花言葉? 興味ないや……。

 スミレ、菫……、植物……、はっ。



 ぱあーん、という音が、俺の脳内に響いた。

「園芸店だ」

 露草つゆくさ色の空の下、俺はその店へとママチャリをいでいった。









 ヒメアシナガムシトリスミレ。


 これだ、俺が思い出そうとしていたのは。

 紫色をしたプロペラふう花弁はなびらと、緑色の小籠包しょうろんぽうを思わせる、可愛らしい多肉の葉っぱ。食虫植物といえど、見た目には非常に愛おしく思える。


「気に入ったか?」

 不意に、眼鏡の小男が話しかけてくる。歳は五十代後半というところだろうか。六十代半ばにも見えなくはないが、それは彼の風貌によるものだろうと思い直した。

「ところで、あなた、誰です?」

 声に出してそうたずねると、当然のことながら俺の心の声が聞こえていないその人は、「ところで、とは」と言いたげに小首をかしげたが、

「なんのこたあねえ。ここの店主です」と答えた。

 いや、考えてみれば当然のことだ。昔から、客に話しかけるのは店の人と決まっている。(一つだけ言い訳をしておくと、この小男は、俺がハエトリグサを探しに来たときに「や、すみません。置いてないっぽいようでえ」と言った背の高い店員とは別人であった。)



「わしゃ、食虫植物ちゅうもんが好きでね、好きで好きで、好きすぎて、女房に振られたんでさあ」

 なぜか一般客立ち入り禁止の店の奥へと案内してくれたその店主は、俺にこんな話をしてくれた。そう、しきりに眼鏡を拭きながら。

「と、思うとったんじゃがな、実はそれ、わしの勘違いで、女房が出てったは、わしの単なる知識不足じゃったんじゃ」

「というと?」

「ハエトリグサ、英語名はヴィーナス・フライトラップという。ヴィーナスさんは男どもを虫けらとしか思うとらんかったんかあ、と疑いたくなるような名前じゃが、まあ、そんなこたあどうでも良くってえの」

 それはかなり興味深い話だとは思ったが、どうやら本筋とは関係がないようなので、スルーしておいた。

「何度目かの結婚記念日に、わしゃ、リヴィングの机の上に、女房へのプレゼントを置いておったんじゃ。女房はそれに気づいて、わしの書いたメッセージを読んだ。澄んだ声でな。


 ーー さくらへ  愛しています。これからも、僕についてきてください。  武正たけまさより


 それを読んだ女房は、にこにこにこにこ笑っての、すぐにもリボンを解いて、箱を開けたんじゃ。したが……」

「……したが、どうしたんです?」

 半開きの、落ち葉のように哀れなその唇に、俺は話の先をうながした。


 しばらくして、その哀れな小男は、せっかく綺麗にした眼鏡を植木鉢へと放り込み、口を開いた。

「今思うに、女房に愛想尽かされた原因ちゅうもんは、あの日贈ったハエトリグサのせいじゃなかったんじゃ。わしが食虫植物を愛しとるちゅうこたあ、女房も昔っから知っとったことで……、だからこそ、あの女、わしの知識不足が許せなんだのよの」

「というと?」

「花言葉じゃ」

 花言葉。それは今日、ここへくる前、俺の頭に一度ひとたび飛来はしたものの、哀れ、「興味ないや」と弾き飛ばされた言葉だった。(もちろん、いやしくも文学青年を名乗る者の身にふさわしくない思考だということは、百も承知している。)


 いわく、ハエトリグサの花言葉は「嘘」。

「『愛しています。これからも、僕についてきてください』……でも、箱を開けたら『嘘』でした……って、ふざけんじゃないわよ。まさか、花言葉を知らないっての? だとしたら、本当のクズね。誰がお前になどついていってやるものか。ふっ」







「だから、この店には置いてないんですか?」

「へ、何を?」

「ハエトリグサ」

「……ひょっとしてあんた、わしが不覚にもウィールスにやられて、靴磨きの芳三(よしぞう)さんに店番を頼んでた日に来たお客さんか?」



「そう、なんじゃないでしょうかね」

「ああ、悪かったの。近頃は買い手がつかんもんでえの」

「さようでしたか……」







 俺は、挨拶あいさつをして店を出た。

「いや、そうじゃなくて、たぶん奥さんも花言葉なんか知らなくて、単にあなたの趣味に愛想を尽かして出ていっただけだと思いますよ」とは言わなかった。そんなことを言ったら、肝心のヒメアシナガムシトリスミレを売ってくれなくなるのではないかという危機感が、俺の唇を閉じたままにさせたのだ。(そう、肝心なことを忘れてはいけない。少なくとも、当人である俺だけは。)



 すみれ色の空の下、例の河原にママチャリを停め、世にも恐ろしい「水面」というものを眺めているうちに、全ての出来事が「嘘」なのではないかという気がしてきた。




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