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自由

 裏通りには雨でもないのに多くの水分を孕んだ空気が漂う。整備された表通りとは違って、こちら側では簡易的な排水処理しかなされていないせいか、じめっとした湿気に生理的に嫌悪感を覚える匂いも混じっている。ここらに降り立った際は思わず顔をしかめるほどであったが、さすがにアシュリーは慣れてしまった。

「もしかしてあまり歩き慣れてない感じかしら?」

 半歩先をゆくユズハからの問いだ。それが周辺の地理に明るくないという意味ではないことは明白だった。ビニール傘を支えにしていた頃よりは速度がついてきたとはいえ、それでも一般的な歩行スピードと比べると遅れを取ってしまうのは確かだ。

「ごめんなさい、一応ついていってるつもりなんですけど」

「休憩にしましょうか」

 ユズハのその声音が決して呆れのそれでなかったことを、アシュリーはあれから一年経った今だって憶えている。「そんなこと言った記憶がないけれど」と一笑に付されるかもしれないが、それでもこの一瞬は思い出としてずっと残ってゆくのだろうし、この時のユズハはきっと誰よりもユズハだったのだろうと少女は信じている。

「あまり出自についてあれこれ訊くのは無粋だと思うのだけれど、田舎からの家出か何かかしら?」

 顔の近くまで寄った小バエを払いつつ、ユズハはポケットの奥から清涼性錠菓のケースを拾い上げ、口に含む。「いる?」と差し出され、アシュリーも口の中で溶かそうとするものの、これがなかなかどうして上手くいかない。こういう類の菓子は経験のなさを恨むアシュリーであった。鼻を突き抜けるミントの香りが細胞を刺激して痛むくらいだ。

「けほっ、けほっ。家出、家出というか、まあそういうものです」

 なおも咳をするアシュリーに対し、ユズハから「お水もいる?」との提案があった。アシュリーはありがたくペットボトルのミネラルウォーターを飲み下し、ようやく普通の会話ができるようになった。

「私たちみたいな人間って手当だけは厚いから、今の日本でも不自由なく暮らしてゆける。もちろん義務教育を終えたら、多少なりとも働かなくてはいけないけどね」

 アシュリーはその手当以上の報酬を稼いでいた過去を思い返す。今と将来の金銭的余裕という意味では自由はあったかもしれないが、そこに時間や心の自由は皆無だった。ましてや当時でさえ娯楽にお金を使える機会はなく、せめてもの身体のケアや最低限の衣類に費やしていたものだ。だからこそアシュリーはミントのきいたタブレットの味を知らないし、皆の常識を知らないまま、17年の歳月を生きてきてしまった。

「私は、今のほうが自由だと思います」

「どうしてそう思うの?」

 ユズハの素朴な疑問だった。もし彼女が家出だとしたら(たとえそうでなかったとしても)、きっとかつでの居場所に留まったほうが不自由ない暮らしが提供されていたであろう。特にこのような治安の不安定な地域では、わざわざ自らを危険に晒しているといっても過言ではない。

「確かに生活は苦しい、苦しかったです。お腹はすくし、雨に打たれるし、未来を思うとよく眠れませんでした」

 そしてアシュリーはごろんと転がるかわいい相棒を撫でてから、「でもこれは全部私が選んで決めたことです」と穏やかに話す。

「たとえ貧乏だって、選ぶ自由が今の生活にはあります。お金も大切ですけど、もっと大切にしたい自由を手に入れた気がします。まだこの生活をはじめてからそんなに経っていないから説得力はないんですけど、私はついさっき仕事を手に入れて、ここから出ることを選べました」

 これがアシュリーの求めた自由だった。金銭という縛られた自由は果たして、自由ではなかった。「欠損少女」という立場も名誉を捨てた理由。それは自らの追い求める自由を手に入れるためだったのだ。

「それは、もしかしたら大変な自由ね」

 そのときのユズハの表情はうかがい知ることはできなかった。ただ肯定はできる。自由は大変だ。

「はい、そうかもしれません」

「――そろそろ、行きましょうか」

 しばらくアシュリーが案内を続けながら、ユズハが先導する様子が続いた。距離が離れすぎたときはユズハが合わせ、同じペースを保った。

 結局ユズハはそれ以上アシュリーの事情に踏み入らなかった。会話をぽつぽつ交わすものの、それは天気の話であったり、好きな食べ物の話であったり、とにかく他愛のないものに終始した。それはどこか他人行儀に映ったが、そもそも今日出会ったばかりなのだから当然といえば当然だ。

「やっと着きました。ここからなら安全にルート75へ行けます」

 路地裏のビルとビルの隙間から、きらびやかな表通りの光と往来が見て取れた。

「ここからならたしかに安心できるわ。ありがとう、送ってもらって」

「いえ、私も相棒とまた会えてよかったです」

 アシュリーが眼下の相棒に目をやると、今度はぷいっとそっぽを向いた。やはり気分屋だ。

「ねぇ、ところで私たちまた会えるかしら?」

「え?」

 アシュリーは驚いた。そんなことを言われたのは生まれてはじめてだった。

「傷の舐め合いってわけじゃないのだけれど、同じような境遇の友達ってなかなかいないの。別に強制ってわけではなくて、せっかく歳も近いしどうかなってぐらいの軽いもの。さっき言ってた新しい仕事場はここあたり?」

「は、はい。ここから近いです。あの、その。いいんですか? 私なんかで?」

「そう卑下する必要はないわ。だってそれがあなたの手に入れた自由なのでしょう?」

 二人の逢瀬は毎週月曜日の夕方に決まった。これはアシュリーの勤める店の定休日だからだ。ユズハも高校帰りに立ち寄ることができる。今度美味しい焼き菓子も持ってきてくれるらしい。

「じゃあ、また月曜に」


 アシュリーの姿がビルの暗闇に消えるのを視認し、ユズハは表通りへと歩きだす。少女と一緒だった頃の穏やかな表情とは一変し、そこには冷たさに近い無の声音があった。

「確認がとれました」

 ワンピースのポケットから取り出すのは先の錠剤菓子ではなく、携帯型の電子機器だった。

「事前の報告通り、ルート75付近に彼女は生きています」

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