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相棒とユズハ

 アイカから借りた杖は想像よりも使いやすかった。小柄な少女の体重すら支えきれない傘と違い、カーボン製の杖は見た目以上に丈夫かつ着地がしなやかで、彼女の前進を後押しするのには十分な機能性だった。

「ん、しょ。よい、しょ」

 とはいえ、欠けた足をかばうように前進するのは一苦労である。呼吸を整え、滲む汗を時折拭う小休憩を挟んで、少女はやがて家とも呼べない寝床へと到着した。

「ねえ、いたら答えてよ」

 実際のところ、彼女の住処から店へ持ち帰るべきものはなかった。何もかもをかなぐり捨ててやってきたこの街に残るのは、砂粒ほどの生活感ばかり。ゴミ捨て場から拝借したダンボール数枚と新聞紙、それに錆びた鍋。そのどれもにいい思い出は一つだってない。

「ねえってば。私、ここから離れて働くことにしたの」

 だからこそ、相棒の名前を呼ぶ。

 知っていた。どこまでも自由で勝手気ままで、時々暴力的。けれども、いてほしいときにそばにいてくれた。それはたとえば今日の朝までだって、漆黒なのにどこまでも温かい毛並みは寂しい夜を越す勇気を与えてくれた。

「ここからいなくなっちゃうんだよ。こういうときぐらい、見送ってよ」

 少女は泣きそうになった。働き始めても、またここに来れば会えるかもしれない。だけど挨拶もなしに姿を消してしまったら相棒はどう思うだろう。悲しく思うだろうか、失望するだろうか、それともどうでもいいと思うだろうか。

 そんな考えが頭をぐるぐる回って怖くなる。彼女にとって相棒が大切な存在だと思っていたように、相棒にとっても自分のことをそういった存在として捉えていてほしかった。でもそれはこちら側の都合で、本当はわがままだってなじられてもいいから、顔を見せてほしかった。この際にお互いの距離を確かめたかった。

「来る時は転がり込んで、出て行くときはろくに挨拶もできないなんて、本当に駄目だね。ごめんね」

 独白の時間はすぐに終わりを迎えた。何度も何度も相棒が現れることを期待して周囲を見渡したが、裏通りの静けさは一層増すばかりで予感すらも湧いてこないほどであった。

 せめてもの餞別を置いていこうとしたが、喜びそうなものなど持っていなかったので諦めた。店長からわけてもらったりんごを残しておくべきだったと、この上なく後悔する少女であった。

「じゃあ、ね」

 いい加減踏ん切りをつけないといけない。名残惜しさは胸に痛いほど感じるが、いつまでもこの場所に留まっていても仕方ないというもの。

「またくるからね」

 相棒にというよりはむしろ自分に言い聞かせるようにそう放ち、新しい住処へ戻ろうとしたそのときだった。

「あれ? あなたが、この子の飼い主?」

 中性的な声とその見知らぬ人影が少女を惑わせた。膝下までかかった純白のワンピースに、首元に向かってくるくると丁寧にセットされた黒髪、そして吸い込まれそうな丸っこい瞳。その要素ひとつをとっても、ルート75の裏通りであるこんな場所になぜ迷いこんだのか訊きたくなるぐらいだった。

「飼い主というか、あの。その子はどこで」

 よく人と会う日だ。ただそんなことはさておいてでも、白色の彼女が抱きかかえる中で揺れる黒色を問う必要があった。もしかしたらよく似た別人かもしれないと一瞬考えたが、この状況でもいつもの「ふみゃおう」と気の抜けた鳴き声を出すので、すぐに答え合わせはできた。

「ああ、ごめんなさい。私はユズハ。表通りに住んでるんだけど、私の落とし物をこの子が咥えていっちゃったから、ちょっと追いかけたの。もちろん怪我はないから安心して」

 眼下の相棒を見やって申し訳なさそうに謝る彼女の姿から、悪い人ではなさそうだとねずみ色のスウエットに包まれた少女は思った。

「いえ、なんだかこちらこそすみません。この子、気になるものはよく噛んで持ってくる癖があるので。今、そちらに向かうので」

 少女が杖を繰って、彼女のもとへと向かおうとしたが、右手で制された。

「いいのよ。そっちは歩くの大変でしょう? あっ、と、これは特に差別とかそういうのじゃなくて、おせっかいというか、いやそれは違うんだけど。ニュアンスはわかるかしら?」

「大丈夫、わかりますよ」

 少女は苦笑したが、それでもおせっかいというよりは優しさとして受け取った。

「この子、逃げるときは逃げるのに、いざ収まるとおとなしくて助かったわ」

「えへへ、そうですよね」

 朗らかな会話に穏やかな時間。およそ裏通りとは思えぬ温かいやり取りだった。

「じゃあ、ゆっくり渡しますから。よかった、背同じぐらいだから受け渡しが楽で」

「ほんとですね。あの、片手で受け取るんでそのまま差し出してくれれば大丈夫です」

 ユズハが両手で相棒を持ち上げる。黒々とした相棒の体躯よりもまず目に入ってきたのが彼女の左手であり、「あっ」と少女は声を漏らしてしまった。

「ああこれ? よく初めての人からは驚かれるの。かっこいいでしょ?」

 先程は遠くからだったので確認できなかったが、ユズハの左手は義手で出来ていた。正確には肘から先にメタリックなそれが装着されていたのだが、近年ではヒトの皮膚と同化するタイプの義手が増えているなかで、あえてユズハは過去風のデザインを選んでいるようだ。

「生活はしにくくないんですか?」

「どうして? 競技用に近いこっちのほうが細かい動作もきくから、快適ですよ」

「そうではなくて、周りの目がどうかなと思って」

「ああ、そういうこと」

 ユズハがからりと一笑した。

「もちろん昔はね。でもこっちの性能に慣れてしまったら、戻れなくなったの」

「そういうものなんですか」

「そういうもの」

 無事に相棒の受け渡しが完了すると、二人は笑いあった。相棒はというと、せっかく少女の左腕に抱きついたかと思うと、すぐに地面に降りてしまった。

「もう、すぐそうなっちゃうんだから」

「ううん、いいのよ。それにやっぱりその子もあなたのところだと嬉しそう」

「――嬉しいのはむしろ私のほうかもしれません」

 少女は安堵して一息をつく。その反応を見て、ユズハは優しそうに微笑むばかりだった。

「すみません、なんか浸っちゃって。それより、帰り路わかります?」

「途中までならなんとなくわかるけど」

「ここあたりは治安があまりよくありません。表通りまですぐのところまで案内するので、この子と一緒に行きましょう」

 少女が提案すると、ユズハは柏手を叩いて喜んだ。この子はしっかりと家路につかせなきゃと少女は使命感を覚え始めていた。

「ありがとう、優しいのね。ええと――ところであなた、名前は?」

「名前――」

 実は名前がないと言いかけて、躊躇した。あのアイカからの「帰ってくるまでに適当な名前を考えてきて」との命がリフレインした。どの道、決めて帰らないといけないのである。そうであれば今決めようと思った。せっかく仲良くできそうな女の子と出会えたのだから。

 名前、名前。

 急いであちらこちらを見回す少女だったが、ふと自身が身につけていたスウエットに目が止まった。安易かもしれないけれど、時間もそうはない。直感的にこれだと決心した。

「私の名前は、アシュリーです。よろしくお願いします」

 名の意味など簡単すぎるものだった。貸してもらったスウエットの色をそのまま充てただけなのだから。

 それでもユズハは「いい名前ね」と義手のほうの手を差し出して、握手を求めてきた。

「そうかな」と照れ隠しに鼻の先をつついてから、それにアシュリーはそれに応じた。

 少女――いや、アシュリーは思う。

 名前は与えられるものではなく、自分が磨いてゆくものだ。どんな名前だって、本人次第で輝きを放つはずである、と。

「じゃあ、行きましょう」

 遅れて、ふみゃぁおと間延びした号令が聞こえて、二人はまた笑いあった。短い散歩の始まりだ。

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