家
「あなたって自分勝手ね」
アイカは笑った。乾いていてまるで人間味がない。それが好意的ではないことを、少女はすぐに受け取った。
「半ば乞食のように店の前で倒れて、等価交換とはいえ食料を与えてもらって、お兄ちゃ――兄の提案だからといって図々しく働きたいと宣ってる。うちの店は人手不足かもしれないけど、あなたを雇うことで何かメリットはあるの? あなたの言うとおり、『何もない』」
少女は言い返せなかった。言い返す材料なんて、それこそ何もなかったのだ。
また今の生活に戻る。いや戻れないかもしれない。アイカに黙って簡単な作業を与えたと知られた今日、今度はそんなことを認めてはくれないだろう。
きっとそれよりも以前の振り出しに戻るのだ。何もかもを忘れるように、己を打ち捨てるようにアスファルトへ身を投げた日々に。相棒と一緒に毎日を生きることへの怠惰と不安で一杯だった頃に。
これも仕方ないのかな。
考えを改めはじめるにはアイカの反応は十分すぎるものだった。人の好意で生き延びてゆけるほど、今の日本は甘くないということだ。
雨に打たれる日は打たれ、風の強い日は相棒を毛布がわりにし、夏の日差しの強い日には、どうしよう。水をどうすればよいのだろう。この二週間生きながらえたのは(とは言っても半分まで達したところで倒れたのだが)、梅雨という気候がもたらす水があったおかげだ。それがなくなってしまったら。どうやって生きてゆけばいいのだろうか。
「なにそんな辛気臭い顔してんのよ」
えっ、と少女は声を上げた。アイカは不機嫌そうに人差し指を突き立てた。
「一ヶ月。一ヶ月試してこの店に合わないようであればリリースする。休みは定休日の月曜だけ。朝の10時から14時まで働いてから、夜は17時から20時まで。仕事は今やってる皮むきにプラスアルファして皿洗いとかの雑用全般。二食のまかないつきで時給は700円。安いと思わないでよね」
一気にまくしたてるアイカに、少女はもちろんのこと店長も目を開いて驚いていた。そんな様子にアイカはバツが悪そうに「答えはどうなの。イエスなのか、ノーなのか」と二人に投げかけた。
「あ、あの。働けてご飯までいただけて、その。私がんばりますのでよろしくお願いします。ありがとうございます」
嬉しさと当惑が混じってはいるが、少女はアイカに対して深々と頭を垂れた。
「言っとくけど、一ヶ月経ってみるまでわからないからね。そこだけ覚えといて。で、そっちは?」
話を振られた兄の店長はいうと、やれやれと小さくを息を吐いてから続けた。
「結局お前が全部決めているようなものじゃないか」
「何か文句でも?」
「いや、ない。むしろ認めてくれないものかと思っていたからな。ただ試用期間なのはわかるが、時給はもうすこし色をつけてもいいんじゃないか? これだと他と比べても倍近く違ってくる」
ああそれね、とアイカが再び少女へ向き直った。
「あなた、家らしい家がないんでしょう?」
「ない、です」そう言って、ぎゅっとスウェットの袖を掴む少女だった。彼女の住処は家と呼ぶにはあまりに文化的ではない。
「飲食店って清潔が第一なの。あなたがシャワーを浴びたあとだからそこら辺は知らないけど、万が一食中毒が起きたらそれこそうちの店自体が潰れかねないし、今まで通り裏口で仕事をするにも変な噂を立てられたらたまらないわ。長ったらしくなったけど、二階に空いてる部屋があるからそこで暮らして。それがうちで働くための条件。あなたにとって悪くないと条件だと思うけど?」
渡りに船とはまさにこのことだった。食い扶持に働き口、それに住まいまで提供されるとは天国に近い職場だ。
「あ、あの。アイカさん。本当にこんないい条件でいいのでしょうか?」
「うるさいわね。働きたいのか、働きたくないのか」
まるでこれじゃ脅迫だと頭を抱える店長を知ってか知らずか、余計に圧迫を強めるアイカに対し、
「働きたいです」と短いながらも力強く少女は返した。働くしか、もう生きるための選択肢は残っていないのだ。
「そう。ならよろしい。夜の営業まで時間があるから、一旦今住んでるところから荷物をまとめてまたこっちに戻ってきて。部屋と家のルールについてはそれから」
「お、おい。この子は今から一緒にビシソワーズを」
「ビシソワーズと家とどっちが大切なの?」
店長は「ビシソワーズは今後の仕事の勉強にもなるからどちらも大切だ」と言いたげにしていたが、実際のところは「家だ」と答えた。今までもそうだったが、この一幕で上下関係を完璧に理解した少女であった。
「わかってるなら無駄な会話をしないこと。それであなた。名前がないのはわかるけど、ないのはやっぱり不便。帰ってくるまでに適当な名前を考えてきて」
最後に「これ、歩きやすいように杖渡しておくから。去年亡くなった祖母のものだけど、ないよりはあったほうがマシでしょ」とカーボン製の杖を手渡し、出発を促した。
「ありがとうございます。早めに戻ってきます」
すると少女は渡された杖を使いながら、階下へと降りていった。その姿はぎこちないながらも、確実に一歩を踏み出しているように映った。
「――正直意外だ。俺のわがままとはいえ、本当に雇ってくれないのかと思った」
「どうせあたしが不採用っていっても、無理やり雇ってたくせに」
「それはどうだか」
残された二人の会話は先程よりも熱は冷め、いくらか落ち着きを孕んだものになっていた。
「でもお兄ちゃんって、ほんとお人好し」
「なにがだ」
「とぼけないで。あたしたち、問題児をかくまうことになるのよ?」
高くはない天井を見つめ、「ほんとお人好し」とアイカは空に呟いた。
「その口ぶりじゃ、知っていたのか」
「当たり前じゃない。――『欠損少女』から姿を消したお尋ね者ぐらい、どこでもニュースになってるわ」