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名前のない少女は

 お兄ちゃんと呼ばれた店長が現場に上がってくるまではそう時間はかからなかった。

 遭遇するタイミングを間違ったであろう二人の状況を視認するや、店長は面倒くさそうにこめかみを掻いた。

「お前、学校からいつ帰ってきたんだ?」

「いつって」

 言うなり、膝上まであった濃緑のスカートが揺れた。年季の入った木の床が思いきり軋むと、彼女は相当な剣幕で店長に詰め寄っている。それはもう二人の鼻先がくっつきそうなくらいに。「これがいわゆる修羅場なのだ」と、少女は戸惑いながらも理解した。

「今ついさっき。あたしが帰ってきても包丁研ぎっぱなしで気づかなかったのはどこの誰でしょう?」

「そんな回りくどい言い方しなくてもいいだろう」

 血が繋がった兄妹のせいか、売り言葉に買い言葉といった様相だ。

「あ、あの。お二方、あまり言い争いは」

 じりじりと場が緊迫と嫌な熱気を帯びてくるのを感じ、たまらず少女が口を挟むと、

「お兄ちゃん。あたしが話を訊きたいのはこの子についてなんだけど」

 逆に火種を煽る形になってしまった。しまったと唇を震わせる少女を横目に、店長が弁解した。

「お前が帰ってきたら説明しようと思っていたんだよ」

「気づかなかったくせに」

「仕方ないだろ」

 やはり喧嘩腰の会話だったが、店長は縮こまる少女を指差しこう宣言した。

「いいか、アイカ。俺は今日からこの子を正式に雇うことにした」

 雇う。

 その単語に両眉を跳ね上げた妹のアイカは「いくらなんでも相談がなさすぎる」と反論した。彼女の言い分としては「確かに最近は忙しくなってアルバイトの募集もかけていたけど、採用は兄妹での面接にクリアしてからだった」、「見た目、あたしより歳もいってなさそうだけど、働ける年齢なの? そもそも学校は?」、「それにこの子、足が――ごめん、やっぱこの問題はあとで」、「もうとにかく履歴書見せて」というものだった。

 いずれの主張はもっともだったようで、またしばらくこめかみを掻きながら思考をまとめていた店長であったが、ついに観念したように口を開いた。前置きとして、「この子について、事情をすこし話させてくれ。俺にもわからないことが多いから、そう長くはならない」と、少女を一瞥してから話し始めた。

 一週間前、店裏に倒れていた少女を見つけたこと。簡単な仕事を与えるかわりに食料を恵んだこと。出逢った頃よりも少女が心を開いてきていること。そして、じゃがいもの皮むきが丁寧なこと。

 手短にしかし抜けがないように、包み隠さず少女のことについて店長は語った。

「以上だ。正直二人の取り決めを守らなかったのは悪いと思っているし、この子はこの子で履歴書なんて書けるような経歴はないと思う。その点については謝りたい」

「で、これだけ欠陥だらけなのに、雇ってあげたいんだ?」

 挑むような質問に、店長は口を真一文字に結んだまま首肯した。少女も遅れながら、「よろしくお願いします」とお辞儀を見せる。

「ずいぶんとお人好しね、お兄ちゃん」

 アイカの深い嘆息はいつまでも続いた。やや湿気のからんだ空気は淀み、暗い雰囲気をより漂わせている。

 いくらなんでも駄目かもしれない、と少女が微かに掴んだ光を諦めかけていると、どうしたことかアイカが声をかけてきた。

「あなた、名前は?」

「えっ、その」

 まごついていると、すかさず店長が助け船を出した。

「この子の名前はない」

 その答えを聞くなり、アイカは馬鹿言わないでといった様子で眉間にしわを寄せた。

「冗談。履歴書書けないくらいだって、さすがに名前はあるでしょ」

「名前はまだない。本当だ。この前もこの子に訊いたときに」

 ――あの、いいでしょうか。

 少女の凛とした声が二人の目線を釘付けにする。一度は言おうか言わまいか迷ったものの、雇われの身となる以上、話しておかなければならないことだった。

「私には名前も過去もありました。詳しくは言えませんし、言いたくありません。私の過去が輝かしいものだったかはわかりません。他人が見たらお金をたくさん貰えて幸せそうだと答えるかもしれませんが、私はそうは思いませんでした」

 思い出すのも苦痛なのだろう、少女は時折胸元に手をやって呻いたが、それでも言葉と自分の想いを紡いだ。

「『逃げんたんじゃない、選んだんです』って言っても笑われるかもしれません。甘い考えのせいで倒れて店長に助けてもらったぐらいですから。だけど」

 苦しみながら、これまでにないほど感情的になりながら、少女は願いを乞った。

「だけど私は。ここで働きたいです。名前は捨てて、今はないです。私には何もないんです。でも、だからこそ身体あるかぎりはなんでもします。お願いです、雇ってください」

 少女の祈りにも似た叫びが、響いた。

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